第75話 王妃は、三日、扇を開いていない
王妃エレオノーラは、三日、扇を開いていない。
大聖堂の壁から金が落ちて、その下から髪の色が出てきた、とベンノが報告に来た日からだ。エレオノーラは最後まで聞いて、大聖堂の薪を一日五本と決めた。私室に戻って鎧戸を下ろさせ、侍女も下がらせた。灯りは蝋燭が一本で足りた。この部屋には、もう見るものがない。
寝台の脇に、小さな台がある。二十七年、朝目を開けて最初に見たのは、その上の金と真珠だった。今は台だけがある。冠を載せていたときと同じ高さで、同じ場所にあって、何も載せていない。載せていないだけで、台は台のままだった。
膝の上の手が扇を探して、何もつかまずに止まった。
*
エレオノーラは、地方の伯爵家の娘に生まれた。十六で、玉座の隣に座った。家は小さく、後ろ盾にはならなかった。頼れるのは、自分の頭と、笑顔だけだった。
決められない王のかわりに、紙を読んだ。王が迷っているうちに、先に決めた。重臣たちは、彼女を好いてはいなかった。ただ、ほかに決める者がいなかった。決めない王より、決める王妃のほうが、まだ、よかったのだ。
大聖堂とは、利害が同じ形をしていた。聖女の血筋が日の目を見れば、教会の金の聖女は嘘になる。王妃の息子の玉座も、揺らぐ。あの踊り子の名を名簿から切り取るのに、王妃の力は、いらなかった。王が、止めなかった。それだけで、足りた。
先の大司祭が生きているあいだは、何もしなかった。西の端に静かな部屋を用意して、敬う顔で、囲った。老人が冬に亡くなるのを、待った。待つのは、得意だった。
評議の間で、国王が「ならぬ」と言ったとき、貴族たちは、一斉に顔を上げた。あの目を、エレオノーラは見ていた。二十七年、決める者を待っていた目だった。それが自分ではないことは、すぐにわかった。
玉座は、わたくしに、すべてを与えた。評議の間で、エレオノーラはそう言った。嘘ではない。続きを言わなかっただけだ。与えられたものは、どれも、玉座の上でしか使えないものだった。右の親指の付け根に、扇の要の当たる胼胝がある。二十七年で手に残ったのは、それだけだった。
蝋燭の炎が細く伸びて、また縮んだ。
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あの子が十の年の、測定の間のことを覚えている。
五度目の針が零を指したあと、白いドレスの娘が台を下りようとして裾を踏み、膝から床に落ちた。大司祭も神官も侍女たちも、誰も動かなかった。そのとき、袖が軽くなった。ずっと袖を握っていたあの子の指が離れて、一歩、娘のほうへ出たのだ。
エレオノーラは、閉じた扇で、その手の甲を打った。
「王子は、拾わぬものです」
あの子の手を扇で打ったのは、それが二度目だった。あの子は袖に戻った。その日から拾わなくなり、謝らなくもなった。その冬、あの子は回廊で初めてあの娘を蹴り、蹴ってから、こちらを振り返った。エレオノーラは扇を閉じて、歩いていった。
あの子は、母の言ったとおりに育った。十年、ひとつも違えずに。それが、王妃のただひとつの成功だった。
――だが、余の息子は、その男の城で、自分で火を組んだ。
陛下の声が、まだ耳の中にある。二十七年、隣の席で、一度も聞いたことのない声だった。
扇で打ったあの手で、あの子は薪を組んだのだ。誰に教わったのかは知らない。手紙に何と書いてあったのかも知らない。そなたに読まれると燃やされる、とあの子は書いたそうだ。そのとおりだった。読めば燃やして、扇を開いて、微笑んだだろう。そういう母だと、あの子は知っている。知っていて、燃やされないところへ手紙を出した。
膝の上の手が震えている。震えを隠す扇が、手の中にない。
*
鎧戸の隙間から、遠い足音が聞こえてくる。大聖堂の石段のほうへ、途切れずに続いていく。金の剥がれた壁の、あの色を見に行く人たちだ。
西の端の部屋に踊り子がいたあいだ、エレオノーラが西の回廊を通ったのは二度だけだった。一度目は、ひとりで歩いていった息子を連れ戻しに行った。息子は、踊り子の足首の鈴をつまんで笑っていた。連れ戻す途中、息子は一度だけ振り返って、口の形だけで何かを言った。ちりん、と。踊り子が手を振った。息子が、小さく振り返した。エレオノーラは、見ていた。見ていないふりをして、扇を開いた。二度目は、冷えた部屋の扉の前で、記すべき妃はいないと言いに行った。二度とも、扇を開いていた。
十七年、王都はあの色から目を逸らしてきた。いちばん先に逸らしたのが誰だったのか、エレオノーラは知っている。
一度だけ、この部屋の扉を叩いた者がいる。西の端の踊り子だった。廊下を迷ったと言って、それから、一緒に踊りませんか、と言った。ひとりで冠を見ているより、あったかいですよ、と。扉を叩かれたとき、扇は手になかった。エレオノーラは寝台の扇を取って開き、冠は裏切らない、と答えて扉を閉めた。
冠は溶かされて、帝国の使者の懐にある。玉座は、あと何日玉座でいられるかわからない。息子は北の城で、母の知らない手で火を組んでいる。台の上には、何も載っていない。
エレオノーラは寝台から下りて、床に座った。
石は冷たい。絹のドレスは床に座るために仕立てられていないし、王妃が床に座る作法は、宮廷のどこにも書かれていない。けれど、台を見上げるには、床のほうがよかった。床から見ると、台は高かった。高くて、空で、もう何も載せる必要がなかった。
載せなくていい、と思った。その考えがどこから来たのか、エレオノーラにはわからなかった。
扇は、閉じたまま寝台の上にある。手を伸ばせば届く。エレオノーラは、手を伸ばさなかった。開いても、この部屋には、微笑んでみせる相手がいない。三日が、今夜で四日になる。
台に向かって、エレオノーラは言った。
「……空ですこと」
声は、石の壁に吸われて、返ってこなかった。台のことを言ったのか、自分のことを言ったのか、わからなかった。二十七年、玉座のために使った言葉には、どれも相手がいた。相手のいない言葉を、エレオノーラは、ひとつも持っていなかった。
床に置いた右手の指が、いつのまにか、石を叩いていた。とん。とん。ちょっと止まって。誰に教わったのでもない。西の回廊を通りすぎたとき、扉の隙間から聞こえた拍子だった。一度聞いただけの拍子を、二十七年の手は、覚えていた。
蝋燭の炎が、横に傾いた。鎧戸の隙間から風が入ったのだと、エレオノーラは思った。炎は、すぐにまっすぐ立ち直った。冷えた部屋の空気の奥に、ほんのひと息、匂いがした。この城の香油ではない。薔薇でもない。淡くて白い、冬の夜に咲くはずのない花の匂いだった。




