第74話 金箔の下から、灰紫の髪が出てきた
財務官ベンノは、五十年、数字だけを信じてきた。
数字は嘘をつかない。嘘に見えるときは、人が数字に嘘をつかせているのだ。眼鏡を額に上げるのは、数字を疑うときの癖。下ろすのは、信じ直したときの癖だった。
その朝、彼は眼鏡を上げたまま、大聖堂の天井を見ていた。疑っているのは、天井の金ではない。これから自分が書く、帳簿の一行だった。
「――剥がしなさい」
王妃エレオノーラが、扇を閉じたまま言った。
「金箔を。壁画も、天井も、柱の頭も。帝国への返済の、次の二回分になります。ベンノ、計算は」
「足ります。三百年ぶんの金箔は、王冠に使われた金の、およそ四十倍です。ただ、陛下が帝都におられるあいだ、穀倉地帯の件も、王子殿下の件も止まっております。借金だけは、止まりません」
「わかっています。止まらないから、剥がすのです」
大司祭アンセルムが、金糸の法衣を震わせて、王妃の前に立ちはだかった。
「王妃さま、これは神の家の――」
「神の御意志は、明白です」
王妃は、扇を開かなかった。先日の評議で、大司祭自身が口にした言葉だった。
「そうおっしゃいましたね、大司祭。では、お訊きします。神は、この金をお望みですか」
大司祭は、口を開けた。
「あなたは二十年、毎朝この壁画の前で祈ってきました。神が金を望まれるなら、二十年のうちに、一度くらいご自分で天井から取っていかれたでしょう。取っていかれなかった。つまり、神はこの金を必要としておられません」
王妃の声は、少しも荒くならなかった。
「必要とされていないものを、必要としている国のために、お借りします。それだけです」
大司祭は、反論を探した。見つかったのは、「神の御意志は明白だ」という、自分の言葉だけだった。
ベンノは、王妃が一度聞いた言葉を忘れないことを、五十年の勤めで知っている。
*
翌朝、足場が組まれた。
金箔は薄い。「爪で剥げます」と、若い職人が言った。三百年塗り重ねた金が、下から順に、ぱりぱりと剥がれて、おけに落ちる。
ベンノは、おけの脇に立って、重さを帳簿に書いた。一日目、四貫。二日目、七貫。
三日目の午後、壁画の聖女の頭から、金が落ちた。
金の下に、色があった。灰紫だった。夜明け前の空の色。日に当たらなかった顔料は、驚くほど鮮やかだった。初代の聖女の髪が、金から灰紫へ、ゆっくりと戻っていく。
はしごの上で、職人の手が止まった。下の見習い僧たちは、声を出せずにいた。ベンノは、息をするのを忘れた。
全員が、聖女の髪を見上げていた。
ひとりだけ、違った。いちばん後ろの、いちばん小さな見習いが、しゃがみこんで、壁のいちばん下を見ていた。
壁の下のほうには、聖女の足もとにひれ伏す民の絵が並んでいる。その列の端だけ、ひとかかえほどの四角が、灰色の漆喰で塗りつぶされていた。漆喰の上にも金箔が貼ってあった。金を剥がしたとき、古い漆喰のかけらが一緒に落ちて、手のひらほどの穴があいていた。
穴の奥に、茶色の粗い布の色が見えた。しゃがんでいる人の、膝のあたり。その隣に、子どもの小さな足がひとつ。
ひれ伏す民と、同じ高さだった。聖女のように、雲の上にはいなかった。
見習いが、小さな声で言った。
「……神さま」
ベンノは、聞き間違いかと思った。神は雲の上におられる。聖女のさらに上、天井の金の、そのまた上に。五十年、そう教わってきた。しゃがんで、子どもの隣にいる神など、どの帳簿にも載っていない。
見習いは、息を止めて、それを見つめていた。やがて、回廊のほうへ走っていった。東の回廊の窓に、毎朝、麦を置いている子だと、ベンノはあとで聞いた。
ベンノの目には、穴の奥は、ただの茶色い汚れだった。職人に訊くと、肩をすくめられた。
「昔の絵の塗り残しでしょう。よくあります」
ベンノは、そうか、と思った。数字にならないものは、わからない。
それでも、眼鏡を上げたまま、しばらく壁を見ていた。そして、帳簿の欄外に、数字ではないものを、一行だけ書いた。
――聖女の髪の色、謁見の間で見た王女の髪と同じ。
*
彼は、この一行を誰にも見せなかった。見せなくても、翌日には、王都中が知っていた。
ベンノは、おけの重さの隣に、もうひとつ数字を足した。見物人。初日、ゼロ。三日目、二十。四日目、数えるのをやめた。
大聖堂の前を通る者が、皆、開いた扉から中を覗いたからだ。灰紫の髪の聖女を。この国で不吉とされ、「戸を閉める色」と呼ばれてきた色を。
北の峠から来た行商人が、市場で言った。
「北じゃ、あの色の空が出た日は、吹雪が来ねえって言うんだ」
不吉な色が、別の呼び名を持った。王都での、最初の日だった。
大司祭アンセルムは、その日から、説教壇に立たなくなった。
*
その夜、アンセルムは、ひとりで足場の下に立っていた。
職人は帰った。剥がした金は、昼のうちに封をして倉へ運ばれている。蝋燭は一本。金を剥がされた壁が、暗がりの中で灰紫に沈んでいる。
足もとの石に、拾い残された金の薄片が、ひとつ光っていた。拾い上げて、掌に載せる。
軽かった。息を吹きかければ、飛んでいきそうだった。
自分が守ってきたものは、これだった。数えられる。量れる。帝国に渡せる。一枚も、握りしめられない。
そこに膝をついて祈ろうとした。
だが、膝を折ろうとして、折れなかった。
立ったまま、祈りの言葉を発する。言葉は、いくらでも出てきた。だが、その言葉は音だけが壁に当たって跳ね返ってくるだけだった。誰にも届いていないことが自分でもわかった。
先代を思い出した。
目の白く濁った、痩せた老人。何もない床に膝をついて、「やっと、お戻りになった」と言って、笑った。あの顔には、何かが満ちていた。目が見えないのに、あの人には、見えていた。
目の見える自分は、何も見えない。
壁のいちばん下の隅に、目をやった。二百年前の誰かが、漆喰で塗りつぶした場所。穴の奥から、茶色の粗い布の色が覗いている。そこに何が描かれていたか、代々の大司祭は、口伝えで知っていた。民と同じ高さにしゃがんだ神の絵だ。見苦しいと言われて、隠されたものだ。
自分は、その上に、金を重ねた。
金は、何も悪くなかった。ただ、上に貼ってあっただけだ。その下にあるものを、見えなくするために。
神に仕えたつもりだった。仕えていたのは、金だった。
金に捧げた祈りも、地位も、人生も、意味がなかった。与えられた命を、空っぽにした。
手に入らないものを、生涯をかけて、磨いていた。
立ったままの足の裏から、大理石の冷たさが上ってきた。冷たくて、硬くて、いつまでも温まらなかった。
床に膝をついた先代は、あたたかかったのだろうか。
答えは、返ってこなかった。壁には、灰紫の髪の聖女が立っている。見下ろしてはいなかった。ただ、立っていた。夜明け前の空の色で。
アンセルムは、掌の薄片を、石の上に戻そうとした。薄片は、指に貼りついた。こすっても、取れなかった。
金は、指に残った。祈りは、一言も、残らなかった。
堂の奥で、蝋燭の炎が、ひとつ揺れた。冷えた空気の底に、ほんのかすかに、白い花の匂いがあった。
アンセルムは、気づかなかった。
翌朝、アンセルムは職人を呼んで、壁のいちばん下の穴を、漆喰で塞ぐように命じた。
理由は、言わなかった。
*
王妃は、大聖堂の薪の配給を、一日五本と定めた。理由を問われて、こう答えたという。
「北の城では、辺境伯も五本だそうです。神の家が、それより多く要る理由を、わたくしは知りません」
*
その夜、ベンノは、帳簿の最後の頁を開いて、金箔の総量を書き入れた。
王冠の、四十一倍。見積もりより、ひとつ多かった。
帝国への返済は、これで二回分、足りる。三回目は、まだ考えない。考えても、足りないからだ。冠を溶かし、金箔を剥がしても、次の催促は来る。払っても、払っても、借金は減らない。
このままでは、終わらない。終わる道は、ひとつしかない。誰かが、全額を、一度に、肩代わりして払うことだ。
そんな行は、五十年、帳簿に書いたことがない。そんな人間がいるとは、数字は、一度も教えてくれなかった。
ベンノは、昼間の壁を思い出した。金の下にあったもの。しゃがんで、子どもの隣にいた神の絵を。
三百年、金はあれを隠していた。これだけ重いのに、借金ひとつ、払いきれない。
数字は、正しかった。金の下に、正解があった。
眼鏡を、下ろした。




