第73話 後編 十八回目に、閣下は訊いた
◆ セラ
その日の夕方、閣下が厨房に来た。
「セラ。少し、来い」
「はい。どちらへ」
「礼拝堂だ」
マルタさんの鍋をかき回す手が止まる。アンナさんのパン生地をこねる手が止まる。干し場から戻ってきたエルザさんも、戸口で足を止める。
三人が、いっせいにこちらを見た。
「見るな」
低い声。
「見てませんよ、閣下」
マルタさんは鍋に向かって答える。それからアンナさんに小声で、「見な」。
厨房を出る前に、閣下が足を止めた。振り向かずに言う。
「ついてくるなよ」
「そんな野暮なこと、しませんよ」
マルタさんは鍋から目を上げない。アンナさんもエルザさんも、そろってうなずいた。
三つの口もとが、そろってゆるんでいた。
廊下を歩く。新しい長靴は、足音が違った。とん、とん、と床がちゃんと返事をする。
閣下の足音も聞こえる。いつもなら三歩先を行く人だ。今日は半歩しか先にいない。私に合わせているのだと、礼拝堂の前で気づいた。
扉を開ける。
百合は二輪目の蕾をつけていた。一輪目はまだ咲いている。二十日あまり、咲き続けている。マルタさんは「気の長い花だ」と言った。
(今日のご用は、きっと百合の水替えか、峠の報告書のことだ)
私は袖をまくる支度をした。
閣下はいちばん前の長椅子に座り、私もその隣に座った。腕一本分の距離は、もう空けない。丸窓から夕方の光が斜めに差して、白い翼が床の上で赤く染まっていた。
閣下は祭壇のほうを見ている。長いまつげの先に、赤い光がひと粒、載っていた。
(朝に続いて、夕方のお顔も、よろしい)
本日二度目の感想を、胸の中で唱えた。
閣下は膝の上で手を組んだ。組んで、ほどいて、また組んだ。
「峠で、訊きたいことがあると言った」
「はい」
「時期が悪い、とも言った」
「はい。十七回、練習なさったそうです」
閣下の動きが止まる。
「誰から聞いた」
「神さまです」
「お前の神は、口が軽い」
『わしは、本人が気づく前には言わんと決めておる。じゃが、あの子は、もう気づいておる。じゃから、言うた』
「神さまが、『閣下はもう気づいているから、言った』と」
閣下は両手で顔を覆った。
手の横から、銀灰色の髪の下の耳が見えた。赤かった。
(礼拝堂に、暖炉はないのに)
私は真剣に不思議に思った。
しばらくして、閣下は手を下ろした。顔は、もういつもの氷竜のものだった。耳だけが赤い。
「待っていても、時期は良くならん。だから、今日にした」
「……訊く」
「はい」
「セラ。いつまで、この城にいる」
私は閣下を見た。
「三ヶ月の期限は、まだ切れていません。でも、この城に、期限のある人は、もういません」
「そういうことを訊いているのではない」
違うらしい。では、何を訊かれているのだろう。
閣下はすぐには答えなかった。伏せていたまつげが、ゆっくり上がった。
目が合った。
(今日のお顔も、非の打ちどころがない)
いつもなら、そう思うところだった。今日は、思う前に、息が止まった。
「九年、私は、何も望まなかった」
いつもより、少し掠れた声だった。
「望めば、失う。リーネのときに、そう学んだ。だから、セラが来たときも、三ヶ月で返すつもりだった」
閣下の指が、外套の縁を握った。節が白くなる。
「だが、いつからか」
言葉が、そこで一度途切れた。
閣下は、目を逸らさなかった。
「お前がこの城にいる冬しか、思い描けなくなった。次の冬も、その次の冬も。朝、かまどの前に、セラの背中があるところまで」
どきん、と胸の奥が鳴った。閣下に聞こえてしまいそうだった。
「三ヶ月ではなく」
閣下が長椅子の上で、わずかにこちらへ身を傾けた。古い木が小さくきしんだ。
「……セラ」
いつもの閣下の声ではなかった。
「ここに、いてほしい」
声は低く、揺れなかった。握った外套の縁で、指だけが少し震えていた。
「これは、命令ではない。願いだ」
閣下は胴着の内側から、折り目のついた羊皮紙を出した。炭の署名のある、あの紙だった。
「炭で書いたこの紙は、王都には送らない。誰も読まない。だから、これは誓約ではない。ただの紙だ。……それでも、もう一度、訊く。この紙を、そのままにしておくか」
私は羊皮紙を見た。それから、閣下の顔を見た。
「はい」
「そうか」
「消し方も、知りませんし」
「消し方は、私も知らない」
「はい。ここにいます。何度でも言います」
閣下は羊皮紙を膝の上に置いた。それから、私の手を取った。
素手だった。夕方の見回りから戻ったままの、冷えきった指だった。
「手袋は」
「忘れた」
「またですか」
「また、だ」
峠で忘れた人が、二度目に忘れるとき、それは忘れたのとは少し違う。
氷みたいな指先を、私は両手で包んだ。
「……やめろ」
「やめません。冷たいので」
閣下は引かなかった。包んだところから、脈がとくとくと響いてくる。私のか、閣下のか、わからなかった。
「セラ」
「はい」
閣下が、私の顔を見た。見られているのだと気づいて、慌ててうつむいた。
「こちらを、見てくれ」
命令ではなかった。願いのほうの声だった。
おそるおそる顔を上げる。閣下の目が、すぐそこにあった。
「九年、私は、人の顔を、手ほどには見てこなかった。手は、嘘をつかないからだ。顔は、嘘をつく」
「はい」
「だが、セラの顔は、嘘がつけないらしい。さっきから、全部、顔に出ている」
頬が、かっと熱くなった。
「見ておけばよかった。セラがこの城に来た日から、毎日」
「閣下」
「私は、セラに何をすれば喜ばれるのか、まだ知らない。膏薬を作って、外套を掛けて、手を握る。それしか、知らない」
「十分です」
「十分ではない」
閣下が包み返した。大きな手に、すっぽり収まってしまう。
長椅子の上で、私たちはいつのまにか向かい合っていた。
閣下はゆっくりと頭を下げた。額が私の手に触れた。
朝ごとに、冷たい石の床へ押しつけてきた額だった。誰にも預けたことのない額だった。
それが、いま私に預けられている。
重みがあった。生きている人の、あたたかい重みが。
「だから、教えてくれ」
手の甲に、声の震えが伝わってくる。
「セラ。何をされたら、嬉しいのか。覚えるのは遅いが、一度覚えたことは、忘れない」
胸の音が、うるさかった。
(尊い、ではない)
尊いは、拝めば済む。拝んでも、この音は止まらない。
何も言えなかった。言えないまま、ほんの少しだけ、その髪に触れた。
閣下は動かない。額を私の手に当てたまま、言った。
「十の冬に」
くぐもった声だった。
「小屋の床で凍えていた子どもに、薪を運んだ者は、いなかったのだな」
「……はい」
「その子に、伝えておけ。よく、生き延びた、と」
喉が詰まった。
十歳の私は、あの床でひとりだと思っていた。隣の声に気づくまでは。
「……今、伝わりました」
やっと、それだけ言えた。
「十歳の私にも」
閣下がゆっくりと顔を上げた。
私の頬を、涙が伝っていた。ほどけた後れ毛のひと筋が、そこに張りついている。
閣下の指が上がった。
あの雪の日、私の髪のひと息手前で止まった指だった。
今度は、止まらなかった。
濡れた頬から、灰紫の後れ毛を指先でつまむ。私の耳にかける。耳の縁を、指先がかすめていった。
「セラの髪は、美しい」
低い声だった。
「この髪を美しくないと言うやつは、夜明けの空を、見たことがないやつだ」
私が息をするのを忘れているうちに、後れ毛がはらりと落ちた。
閣下は眉を寄せた。
もう一度、指が伸びる。かけ直す。今度は落ちないように、耳の後ろまで、指先で丁寧に撫でつけた。
「……落ちるな」
誰に言った言葉なのか、わからなかった。たぶん、髪にだ。
閣下は満足そうに指を離して、私の顔を見た。それから、わずかに首をかしげた。
「どうした。顔が、赤い」
無自覚、のようだった。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではない。本当のことを言っただけだ」
髪を褒められたことなんて、なかった。ドブネズミの色だと言われたことなら、何度もある。
耳が燃えるように熱くなった。
丸窓の鳩の光が、二人の上に落ちている。
『のう、セラ』
(はい)
『わしは、今夜は、外におる。戸口ではなく、外じゃ。少し、離れておる』
(神さま)
『ほっほ。久しぶりに、席を外すのじゃ。遠慮はせん。嬉しいからじゃ』
神さまの気配がすっと遠のいた。百合の匂いも、ほんの少し薄くなった。
礼拝堂には、閣下と私だけが残った。
丸窓の光が、赤から薄い紫へ変わっていく。
冷えきっていた閣下の指が、少しずつ温まっていく。
「……戻るか」
声が、いつもより低かった。
「はい」
けれど、どちらも立ち上がらなかった。
「……戻る」
「はい」
三度目に、ようやく閣下が立ち上がった。つないだまま、私も引かれて立つ。見上げると、閣下は、つないだ二人の手を見下ろしていた。
「……離す」
誰に言ったのか、わからなかった。
指が、ゆっくりほどけていく。最後に、指先だけが、ほんの少し触れていた。
それから、離れた。
手のひらに、閣下の温度だけが残った。
礼拝堂の扉を開けると、廊下の少し先に、三人が立っていた。
マルタさんは、いつから持っていたのか、ほうきを持っている。アンナさんは、パンのかごを抱えて天井を見ていた。エルザさんは、なぜか、壁の燭台の埃を指でなぞっている。
三人とも、扉のほうを、まったく見ていなかった。見事に、見ていなかった。
閣下が私の後ろで足を止めた。
「……何をしている」
氷の声だった。
「見てませんよ、閣下」
マルタさんが胸を張って言った。
「ついてくるなと、言った」
「ついて来てなんかいませんよ。ここを、掃いてただけです」
アンナさんが天井を見たまま、小声で言った。
「閣下が、聖女さまの髪を、あんなふうに」
「アンナさん」
エルザさんが燭台から手を離して、アンナさんの口をふさぐ。
「……見ていたのか」
「見えません」
マルタさんはきっぱり言った。
「鍵穴から、閣下の指が、お姫さんの耳のところへ、二度もすうっと伸びていくところなんて、これっぽっちも見えちゃいませんよ」
「マルタ」
「見えちゃいませんってば」
礼拝堂の扉の鍵穴は、古くて大きい。向こうから、長椅子まで、よく見えるはずだった。
閣下はしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「三人とも、持ち場に戻れ」
「はい、閣下」
三人はそろって回れ右をした。去り際、マルタさんが私にだけ聞こえる声で言った。
「見に行った甲斐が、あったねえ」
「……聞こえている」
閣下の耳が赤かった。夕日のせいだと思った。
夕日は、もう、沈んでいた。
*
十日後、北の城の門に、麻の包みを抱えた大柄な男が立った。
雪まみれで、鼻の頭を真っ赤にして、門番のカールさんに名前を訊かれて、ひどくどもりながら答えた。
「ば、バルトと、申します。王都の、王城の、厨房の。セラ王女に、お、お目にかかりたく」
私は、厨房から呼ばれた。
門の前で、その人の顔を見た瞬間、わかった。
十年間、杉林の暗がりに、足早に消えていった背中。私が、小屋の中から、何度も頭を下げた背中。
「……あなたが」
バルトさんは麻の包みを、両腕で私に差し出した。
「王城の料理長、バルトです。十年、毎晩、パンを三つ、小屋の戸口に置いていた者です。陛下から、今日は名を言え、と言いつかりました。それから、これを」
包みの上に、小さな麻布があった。
硬くなったパンの端が、三つ。
「陛下が、『塩が足りん』と、お伝えするようにと。あと、わしからは、『塩は、もう増やしてあります』と」
私はその小さな包みを、両手で受け取った。
十年分の、パンの匂いがした。
「……バルトさん」
その名前を、初めて、声に出して呼んだ。
「ありがとうございました。ずっと」
バルトさんは雪の中で、大きな体を二つに折った。
私も頭を下げた。
十年前と同じように。
けれど、今度は、小屋の中からではなく、その人の目の前で。
十年、私は、このパンの代わりに、何も払っていない。払えるものが、何もなかった。
それでも、パンは、毎晩、戸口にあった。
背後で、閣下の足音。
「――セラ。誰だ」
「王都の、料理長さんです。私に、パンをくださった方」
閣下はバルトさんを見て、それから私の手の中の小さな包みを見る。
そして、バルトさんに言った。
「王都から、よく来てくださった。まず、火に当たってくれ。足が動くようになったら、厨房へ行くといい。マルタという婆さんがいる。四十年、かまどを守っている。気の強い婆さんだが、腕は確かだ。塩の話は、あの婆さんとしてくれ」
バルトさんはきょとんとした顔をした。
それから、雪の中で笑った。
大きな声で。
笑い声が城門の石壁に反響して、中庭の山羊が驚いて鳴いた。
『――セラや』
胸の奥で、神さまがおっしゃった。
『お主の父はな、今朝、帝都への街道の途中で、初めて、自分で薪を組んだよ。三度、消えた』
私はパンの包みを胸に抱いた。
「四度目は」
『まだ、つけようとしておる』
百合の香りが、雪の中に満ちた。
『それで、ええ。わしは、あの男の隣にも、座っておる。街道の焚き火の前で。三度消えた薪の、隣にな』
私は帳面を開いた。
二百十四人目の、兄の名前の隣。新しく二つ書き足した。
バルト。王城の料理長。毎晩、パンを三つ。塩は、もう増やした人。
そして、その下に。
父。国王。十七年、窓の外を見ていた人。今朝、初めて、自分で薪を組んだ人。
その名前の下は、空白のままにした。
まだ、書きかけだから。




