第73話 前編 「履きつぶせ。そうしたら、次のを作る」
◆ セラ
北の城では、雪がゆるみはじめていた。
屋根から雪の落ちる音が、日に何度も響く。城壁の石の隙間から、雫が落ちる。竜の涙の滝が、氷の下で鳴りはじめている。
その朝、中庭の泥を踏んだとき、靴の底が、とうとう、ぱくりと口を開けた。
冷たい泥が、指のあいだに入ってきた。
泥の中に立ったまま、しばらく自分の足を見ていた。
それから、執務室へ上がって、扉を叩いた。
「入れ」
机の上に、長靴はなかった。
閣下は帳簿を書いていた。顔を上げて、私の足もとを見る。泥の足跡が、扉から机の前まで続いていた。
「閣下」
「何だ」
十年、言ったことのない言葉だった。言い方を知らなかった。だから、いちばん短く言った。
「あの長靴を、ください」
閣下のペンが、止まった。
「兵士さんの分でも、子どもたちの分でもなく。私が、欲しいんです」
閣下は何も言わずに立ち上がり、隣の私室へ入っていった。すぐに出てきた。両手に、長靴を持って。
革は、あの日よりも光っていた。
閣下は、私の前に膝をついた。
口の開いた古い靴を、そっと脱がせる。泥だらけの足を、自分の外套の裾で拭く。
「閣下、外套が」
「黙っていろ」
左の長靴が、足を包んだ。ぴったりだった。
「……どうして、大きさが」
「マルタが、毎晩、お前の靴をかまどの脇で乾かしている。一晩借りて、村の靴屋へ持っていかせた」
「いつですか」
「峠の、十日前だ」
息が、止まった。
「戻らなかったら、どうなさるおつもりだったんですか」
「戻ったら、渡すつもりだった」
右の長靴が、足を包んだ。
「戻った。だから、渡した。お前は、断った」
「……はい」
「今、受け取った。話は、それで終わりだ」
「大事に、履きます」
「大事にするな」
閣下は、膝をついたまま言った。
「履きつぶせ。そうしたら、次のを作る」
次の、と閣下は言った。
「……どうして、ここまで」
訊くと、閣下は少し黙った。
「帳簿には、載せていない。ギルバートが勝手にやったことにも、していない」
「はい」
「私が、そうしたかった」
閣下は立ち上がって、私を見下ろした。それから、少しだけ目を逸らした。
(逸らしたお顔も、朝からよろしい)
「似合う、とは言わない。泥の上で見る」
その日、私は中庭のいちばん深い泥の上を、わざと歩いた。
冷たくなかった。
古い靴は、捨てなかった。麻袋には入らないので、寝台の下に、そろえて置いた。




