第72話 王は、娘が磨いた土間に膝をついた
◆ 大司祭
「――陛下、お待ちください」
卓の中ほどで、金糸の法衣が、音を立てて立ち上がった。
大司祭アンセルム。大聖堂の主。七歳のセラの手を取って、五度、測定器の針を測り直した男。それから十年、『神に見放された欠陥品』という言葉を、大聖堂の隅々にまで行き渡らせた男。
「陛下のお心は、大変よくわかります。父君として、ご子息をお案じになるのは、人として当然のこと。ですが、陛下は国王であらせられる。国王は、人である前に、神の御意志をこの地上に体現する器であります。そして、神の御意志は、明白です」
アンセルムは、両手を広げた。祝福を与えるときの、あの仕草で。
「あの娘は、神に見放された者です。測定器は、嘘を申しません。針は、五度、零を指した。それは、神が、あの娘の存在をお認めにならなかった、ということ。その娘を北へ送り、その娘のために王家が傾くというのは、これはもう、神への冒涜としか申しようがない。陛下、どうか、教会の権威を、今一度、お考えください。北の辺境伯は、礼拝堂に鍵をかけた、神を捨てた男。その男と、神に捨てられた娘が、雪の中で何を企もうと、それは神の御前では、無に等しい。わたくしどもは、陛下のために、毎日、金の壁画の前で、祈りを捧げております」
長い演説だ。
国王は最後まで遮らずに聞いている。
聞き終えてから、静かに訊く。
「アンセルム。そなたは、その壁画の前で、何を祈っている」
「は?」
「二十年、そなたは毎朝、余のために祈っていると言う。何を、祈っている」
大司祭が一瞬、言葉に詰まる。
その一瞬に、アンセルムの頭の中を、十年前の夜が通り過ぎた。
地下の書庫。鍵のかかった櫃。取り出した羊皮紙の聖女の髪は、金ではなかった。夜明け前の空の色。麻布の下から覗いていた、七歳の娘の髪と、同じ色。
火鉢にかけた。灰紫の顔料が、黒く泡立って、消えた。
本物が、あってはならなかった。だから燃やして、娘のほうを嘘にした。
翌朝、説教壇で、「神に見放された欠陥品」と言った。
十年、毎朝、金の壁画の前で祈った。塗り直させたのは、自分だ。
「もちろん、陛下の御代の永きことと、王国の繁栄と、教会の――」
「余の娘のことを、一度でも、祈ったことがあるか」
アンセルムの口が、開いたまま止まる。
「あの子が七つで小屋へ送られたとき、十歳で熱を出して死にかけたとき、そなたの大聖堂の床を、あの子が磨いていたとき。一度でも、あの子の名を、その壁画の前で、口にしたことがあるか」
大司祭は答えない。
答えられないのだ。
国王は頷く。
「余も、ない。だから、そなたを責めているのではない。ただ、そなたの神と、余の神が、同じものかどうかを、余は、今朝から、考えている」
卓の上のジュリアンの手紙を、指で押さえる。
「北の城には、礼拝堂に鍵をかけた男がいて、その男が今、余の娘の隣に、膝をついているそうだ。そなたの神は、その男を『神を捨てた男』と呼ぶ。だが、余の息子は、その男の城で、自分で火を組んだ」
「陛下、それは、詭弁で――」
「かもしれぬ」
国王は、立ち上がった。
「詭弁でもよい。余は、二十年、何も言わなかった。今日、初めて言うことが詭弁なら、それでもよい。アンセルム、そなたは、席に着け。この評議で、教会が発言する場は、もう終わった」
◆ 決定
「――ベンノ」
「は、はい、陛下」
「帝国の三つの要求のうち、金貨は存在しない。穀倉地帯は渡さぬ。ジュリアンは送らぬ。ならば、余が、行く」
評議の間に、息を呑む音がいくつも重なる。
ベンノは、ようやく眼鏡を下ろして、それから、また上げた。
「い、行く、と申しますと、陛下、その、どちらへ」
「帝都へ。王子の代わりに、国王が、人質として出向く。皇帝が欲しいのは金ではなく体面だと、王妃が言った。余も、そう思う。ならば、王子より、国王のほうが、体面は立つ」
「陛下! それは、それでは、この国は、誰が――」
「王妃がいる」
国王は、エレオノーラを見た。
「そなたは、この国を動かしてきた。余の印を使って。余がいなくなっても、何も変わらぬ。ただ、これからは、そなた自身の名で、印を押すことになる。押した書類の中身を、そなた自身が、読むことになる」
王妃は、卓の上の扇に、手を置いた。
置いたまま、動かさなかった。
「陛下は、わたくしを、罰しておいでなのですね」
「違う」
「では、何とおっしゃるのです。ご自分が帝都へ行き、わたくしに、この空の国庫と、帝国の要求と、パン屋に戸を閉められる役人たちを残していく。それを、罰と呼ばずに、何と呼ぶのです」
国王は、しばらく、王妃を見ていた。
二十七年、隣に座ってきた女を。
「エレオノーラ。そなたは、玉座を守るためなら、何でも差し出すと言った。冠も、宝石も。息子も」
「ええ。申しました」
王妃は目を逸らさない。
「わたくしは、この国に嫁いだ日から、玉座のために生きてきました。わたくし自身の家は、わたくしが十五のとき、玉座に逆らって取り潰されました。玉座は、わたくしのすべてを奪い、そして、わたくしにすべてを与えました。わたくしが、玉座以外の何かを信じることは、もう、ありません。陛下がお考えの、その、北の雪の中の、鍵をかけた礼拝堂の神とやらも」
「そうか」
「ええ。そうです」
扇を取り上げて、王妃は立ち上がる。
「陛下が帝都へ行かれるなら、わたくしは、この城に残ります。国庫を、どうにかいたします。帝国と、どうにか話をつけます。わたくしには、それしか、できませんので」
ドレスの裾を持ち上げて、評議の間の扉へ歩いていく。
扉の前で、一度だけ足を止めた。
振り返らない。
「ジュリアンの手紙に、わたくしのことは、何と」
国王は答える。
「そなたに読まれると、燃やされる、と」
王妃は、少しのあいだ、扉の前に立っていた。
それから、何も言わずに、出ていった。
その背中は、いつものように、まっすぐだった。真珠の耳飾りは、左右きちんと揃っていた。
けれど、扉が閉まる寸前、貴族たちの誰かが、王妃の手の中で、絹の扇が、静かに握りつぶされる音を聞いたという。
聞いた者は、誰にも、それを言わなかった。
◆ 杉林
出発は、三日後の、夜明けだった。
護衛は、二十騎。国王は、王城の正門ではなく、大聖堂の裏門から出るように言った。
裏門を出ると、杉林があった。
朝靄の中に、杉の幹が黒く何本も立っている。馬の蹄が湿った落ち葉を踏む。鳥が一羽、二羽、枝から飛び立つ。
杉林の奥に、屋根の傾いた小屋。
国王は馬を止めた。
護衛の隊長が怪訝な顔で振り返る。
「陛下、ここは」
「少し、待て」
馬を降り、護衛たちにそこで待つように言う。
小屋の戸口に立つ。
十日前に立った、同じ場所だ。あのときは敷居の外に立ったまま、中に入れなかった。
中は暗い。土間の隅に畳んだ毛布。壁の隙間に詰めた麻布。そして土間の、いちばん光の当たる場所の床。
磨かれたままだ。
十日前と、同じように。誰も、ここには来ていない。
国王は、敷居を、またいだ。
土間に、下りた。
三歩。四歩。磨かれた床の前で、止まった。
そして、その床に、膝をついた。
王の膝が、娘が磨いた土間に触れた。冷たくて、硬くて、かすかに、杉の匂いがした。
国王は、何も言わなかった。祈りの言葉を、知らなかったからだ。大司祭の祈りは聞いてきた。金の壁画の前で、金の杯を掲げる祈りは。
けれど、この土間の上で言うべき言葉を、彼は、持っていなかった。
だから、ただ、膝をついていた。
懐に手を入れると、指先に、麦が一粒、触れた。十日前に、窓枠から拾ったものだ。それを、窓枠に、戻した。鳩が、来るかもしれない。
「……」
長いあいだ。
護衛たちは、杉林の入口で、黙って待っていた。隊長は、何度か、時計代わりに空を見上げたが、急かさなかった。
やがて、国王は、顔を上げた。
小屋の中の、湿った土と、古い杉の匂いの中に――。
花の匂いがした。
甘くて、澄んだ、白い花の匂い。この杉林には、百合など、一本も生えていない。冬の朝に、花の香りなど、あるはずがない。
国王は、鼻から、大きく息を吸った。
それから、もう一度。
今度は、鼻からではなかった。
胸の、奥のほうから。
「セラフィーナ」
国王は、娘の名を、呼んだ。
十日前は、敷居の外で呼んだ。今朝は、娘が磨いた床の上で、娘と同じ高さで、呼んだ。
懐の布包みの上に、手を置いた。鳴らない鈴の、小さな重み。十七年、あれの足首に結ばれていたものを、余は、あれの娘に、まだ渡せずにいる。
「……余は、行く。帝都へ。ジュリアンの代わりに」
土間に向かって、話していた。
「そなたには、何もしてやれなかった。これからも、何もしてやれぬ。ただ、余の印で、あの受諾書の期限を、取り消しておいた。そなたは、もう、いつ帰ってきても、いつ帰ってこなくても、罪には問われぬ。それが、余が、十七年で、そなたにした、唯一のことだ」
国王は立ち上がった。
膝についた土は、払わない。
戸口を出るとき、一度だけ振り返る。
磨かれた床が、朝靄の光の中で、ほのかに光っている。
◆ 厨房
杉林を抜けた先の街道に、料理長のバルトが立っていた。旅の外套に、大きな麻の包み。
「陛下。北へ、行かせていただきたいのです。厨房の鍵は、昨夜、副料理長に渡してまいりました」
国王は、馬上から、男を見た。
「そなたは、あの子に、名を呼ばれたことがあるか」
「いえ。一度も、口をききませんでした。あの子は、たぶん、誰が置いていったのかも、知らんでしょう」
バルトは、包みの上の、小さな麻布を指さした。硬くなったパンの端が、三つ。
「陛下が召し上がってから、包むのを、やめられんのです。置く戸口が、もう、ないのに」
「……余が一度もしなかったことを、そなたは、十年、した」
「北へ行って、あの子に、そなたの名を言え。そして、そのパンを渡せ。『塩が足りん』と、伝えてくれ」
バルトの目が、赤くなった。
「陛下。塩は、もう、増やしてあります」
国王が、少しだけ笑う。
宮廷の誰も、見たことのない笑い方だった。
「ならば、それも、伝えろ」




