第71話 「火は、自分で組まないと、朝には落ちています」
◆ 北からの手紙
王城の南翼に朝の光が差しこむころ、一通の手紙が、国王の私室に運ばれてきた。
封蝋はなかった。麻紐で縛った、粗い羊皮紙。差出人の名は、封の裏に、炭で書いてあった。
ジュリアン。
国王は侍従を下がらせ、扉を閉めさせた。窓辺の長椅子にひとりで腰を下ろし、羊皮紙を広げる。
文字は汚かった。王家の家庭教師が十年かけて教えた流麗な筆記体ではない。炭のかけらを握りしめて書いた、角ばった、太い字だった。紙の端に、黒い指の跡がついている。
父上。
この手紙は、母上には見せないでください。母上に読まれると、たぶん、燃やされます。だから、北の辺境伯の乳兄弟に頼んで、直接、父上に届くようにしました。眼鏡の男です。信用できるかどうかはわかりませんが、俺のことを一度も殿下と呼ばずに「あなた」と呼ぶ男なので、嘘はつかないだろうと思います。
峠のことは、もう報告が届いているでしょう。帝国軍は帰りました。俺は、氷竜を反逆者だと宣言しませんでした。母上は、それを裏切りと呼ぶでしょう。俺もそう思います。母上の計画を、俺は、峠の上で、三千八百人の前で、裏切りました。
帝都へ人質に送られる話も聞きました。侯爵と軍団長が天幕の外で話しているのを、風が止んだ一瞬に、聞いてしまいました。母上が、冠と俺を引き換えに、玉座を守ろうとしていたことも。
父上。俺は、帰りません。
帰って、飾りの玉座に座る気はありません。帝都へ行く気もありません。俺は今、北の城の小さな客室で、毎朝、薪をもらって、火を組んでいます。三日は消えました。ついた火も、朝には落ちていました。この前、夜中に起きて、自分で薪を足しました。毎晩起きられるわけではありません。その前の朝には、下働きの娘に、王都の声で怒鳴りました。この手紙を書いている暖炉の火は、俺が足したものです。
二十年、俺は父上と、まともに話をしたことがありません。父上は、いつも窓の外を見ていました。謁見の間でも。セラが北へ送られると宣告された日も。
セラは、元気です。床を磨いています。北の連中は、あいつを聖女さまと呼びます。氷竜は、あいつの隣に膝をつきます。
先日、俺は、あいつに「痛かったか」と訊きました。あいつは「痛かった」と答えました。それだけです。それだけのことを言うのに、俺は二十年かかりました。
あいつの目は、俺と同じ形をしていました。目尻の切れ方も、睫毛の影の落ち方も。父上は、ご存じでしたか。
父上は、何年かかるのでしょうか。
俺は、まだ、父上を恨んでいるのかどうか、わかりません。母上のことも、わかりません。ただ、鏡が割れて、そのあとに残ったのが、ひどく小さい男だったということだけは、わかりました。
帝国が、次に何を言ってくるのかは知りません。父上が、何をするのかも知りません。でも、もし、父上が何かをするのなら、それは、母上の計画ではなく、父上自身の手でやってほしいと思います。
火は、自分で組まないと、朝には落ちています。
ジュリアン
追伸。炭を三回折りました。字が汚いのは、そのせいです。
国王は、その手紙を、三度読んだ。
三度目に、目の形のところで、指が止まった。国王は、自分の目尻に、そっと指を当てた。十七年、窓の外ばかり見てきた目だった。あの子の目の形を、余は知らない。
窓の外で、大聖堂の朝の鐘が鳴った。
国王は、懐の布包みに、片手を置いた。幾重にも包んで、もう鳴らない鈴の、小さな重みがある。それから、立ち上がった。
◆ 評議の間
評議の間は、王城でいちばん天井の高い部屋だった。
楕円形の長い卓に、十二の椅子。壁には、歴代の国王の肖像画が、上から順に、こちらを見下ろしている。暖炉は二つ。どちらにもたっぷり火が入って、部屋は汗ばむほど暖かい。それなのに、卓を囲む貴族たちの指先は、みな白かった。
財務官の長、ベンノは、卓の端で、帳簿の束を三つ重ねていた。数字を読むときは、眼鏡を額に上げてから、また下ろす癖がある。今朝は、その動作を、もう何度繰り返したかわからない。
「――ですから、王妃さま、帝国の要求は三つでございます。第一に、金貨三万枚。峠が落ちなかったのは、王家が反逆者を正しく告発しなかったせいだ、という理由で。第二に、王子殿下を、当初の約定どおり、帝都へ。第三に、王都から南の穀倉地帯を、三つの郡、帝国に割譲せよと」
ベンノは、眼鏡を額に上げる。
「三万枚は、国庫のどこを探しても、ございません。これまでに切った借用証は、半分以上が、いま帝国の手にございます。侯爵が、三年かけて、王都の商人から買い集めておりました。つまり、これは要求ではなく、返済の催促でございます。担保は、北の鉱山。……先日、わたくしの妻が市場でパンを買おうとしましたところ、パン屋が『王家の役人には、現金でしか売らん』と申したそうで。五十年、この城の帳簿を見ておりますが」
「ベンノ」
エレオノーラ王妃は、卓の中央の席で、扇を膝に置いたまま言った。
「あなたの奥さまのパンの話は、必要ありません」
「申し訳ございません」
「必要なのは、三つのうち、どれを差し出せば、残りの二つを免れられるか。それだけです」
声は、いつものように、氷の粒を転がすように整っていた。三日、私室にこもっていたとは思えない。髪は結い上げられ、真珠の耳飾りは左右そろい、絹のドレスには皺ひとつなかった。ただ、目の下に、白粉でも隠しきれない薄い影があった。
「穀倉地帯を差し出せば、この国は来年の冬を越せません。金貨は存在しません。残るのは、ひとつです」
扇が、ぱちりと開く。
「ジュリアンを、帝都へ送ります。あの子は、峠で王家の名を汚しました。その責任は、自分の身で取らせます。皇帝陛下は、金よりも体面をお望みですから、王子を人質に取れば、満足なさるでしょう」
誰も、口を開かなかった。暖炉の火が爆ぜた。
「――それは、ならぬ」
卓のいちばん奥からの声だった。
十二の椅子の中で、いちばん背の高い椅子。その椅子の主が評議の場で口を開いたことは、数えるほどしかない。開いたとしても、「よきに計らえ」か「王妃の言うとおりに」のどちらかだった。
国王は、肘掛けに両手を置き、ゆっくりと身を起こした。
「陛下?」
王妃の扇が止まる。
「ならぬ、と言った」
低く、掠れた声だった。大きな声を出したことのない喉の声だ。それでも、評議の間の高い天井まで届いた。貴族の何人かが、顔を上げた。この椅子の主の声を、即位式のあと、一度も聞いていない者たちだった。
「ジュリアンは、帝都へは送らぬ。あれは、余の息子だ」
◆ 王妃
エレオノーラは、扇をゆっくりと閉じた。閉じてから、卓の上に、音を立てずに置いた。
「陛下。お座りなさいませ」
声は少しも荒くならない。むしろ、いつもより丁寧になる。それが彼女の怒り方だった。宮廷の誰もが知っていて、誰もが恐れている、王妃のいちばん丁寧な声。
十七年、その一言で、国王は座ってきた。
国王は、座らなかった。
「あの子は、王家の名において、峠で敵を告発するはずでした。それが、あの子に与えられた唯一の役目でした。三千八百人の帝国兵の前で、氷竜を庇い、あの無能な娘を庇い、王家の計画を、公然と裏切ったのです。その息子を、陛下は庇うとおっしゃる」
「庇うのではない」
「では、何とおっしゃるのです」
国王は、しばらく王妃の顔を見ていた。それから、懐から、麻紐で縛った羊皮紙を取り出した。
「今朝、ジュリアンから、手紙が届いた」
王妃の顔が、ほんのわずかに動いた。
「わたくしには、届いておりません」
「そなたには見せるなと、書いてある」
「……」
「あれは、火の組み方を覚えたそうだ」
国王は、羊皮紙を卓の上に置いた。王妃のほうへは、滑らせなかった。
「あれは、誰かに火を組ませてきた。火は、あるものだった。余もそうだ。この暖炉の火を、余は、一度も、自分で組んだことがない」
暖炉に目をやる。
「エレオノーラ。そなたは、あの子に鏡を与えた。四方の壁に。あの子の目に映るべきものは、あの子自身だけだと。それが王になる教育だと、そなたは言った。余は、止めなかった」
「陛下――」
「止めなかった。セラを杉林の小屋へ送る書類に印を押したのも、余だ。そなたが差し出した書類を、余は、読みもせずに押した」
評議の間が静まり返った。貴族たちは、卓の上の自分の手を見ている。ベンノは、眼鏡を額に上げたまま、下ろすのを忘れていた。
「余は、十七年、窓の外を見ていた。それが、いちばん楽だったからだ。セラの母が死んだ夜に、余は、何も見ないことにした。あの人の名が、記録から切り取られても、何も言わなかった。言えば、そなたと、宮廷と、教会が、余の弱さを、一つずつ並べて見せる。余は、それに耐えられる男ではなかった。だから、見なかった。あの子が針の前に立ったときも、回廊で蹴られているときも、謁見の間で北へ送られるときも」
国王の声は、震えていなかった。ただ、ひどく疲れていた。
「ジュリアンは、手紙に書いた。セラの目は、あれと同じ形をしている、と。余は、知らなかった。十七年、あの子の顔を、一度も、見なかったからだ」
誰かが、息を吸う音がした。
「手紙の最後に、こうある。『火は、自分で組まないと、朝には落ちている』と」
王妃は、動かなかった。
「余は、今日、初めて、自分で火を組む」
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
物語も、いよいよ終わりが近づいてきました。
この先は閑話が多く挟まりますが、どれも大切な登場人物たちが、それぞれに歩んできた道と、選んだ答えを描くお話です。
これまでの出来事の答え合わせにもなっていますので、一人ひとりの物語を最後まで見届けていただけたら嬉しいです。




