【セラの母】名前を消された側妃と王の恋の歌(三) 娘の名前だけを、王は自分の手で書いた
◆ 踊り子
冬の初めに、大司祭さまが亡くなった。知らせは、扉の外の食事の盆に、紙切れ一枚で届いた。新しい大司祭には、あの痩せた若い司祭がなったと、あとで聞いた。
その冬から、少しずつ、いろいろなものが消えはじめた。最初は、廊下ですれ違う人の会釈が消えた。次に、私の部屋に届く薪が半分になった。
ある日、新しい大司祭さまが西の部屋に来た。金糸の法衣を着ると、前よりもっと痩せて見えた。大司祭さまは扉のところに立ったまま、部屋に入ろうとしなかった。
「聖女の認定について、改めて、確かめさせていただく。あなたは、百合の匂いがすると申されたそうですね」
「ええ」
「この部屋に、今、匂いますか」
私は、鼻をくんくんさせた。
「今は、しません」
「では、あれは、気のせいでしたな」
大司祭さまは、ほっとしたような顔をした。
「気のせいじゃないわ。いつも匂うわけじゃないの。話しかけたいときに、来てくれるのよ。あなたも、話しかけてみたら?」
大司祭さまの顔が、こわばった。
「……わたくしは、毎朝、祈っております。三百年の壁画の前で。金の聖女さまに」
「あの髪、重そうでしたね」
大司祭さまは、答えずに帰っていった。地下の書庫のいちばん古い羊皮紙が、そのころ鍵のかかった櫃に移されたことは、あとで王さまから聞いた。
その冬は寒かった。薪が半分だと、西の部屋の暖炉は、夜明け前に必ず消える。窓の隙間から、雪の匂いのする風が入ってくる。私は毛布を二枚重ねて、その上から鈴を鳴らして踊った。
「薪が半分なら、二倍踊れば、あったかいわ」
百合の匂いがふわりとした。笑われた気がした。
その日から、扉の外の盆が、少しだけ重くなった。
盆の底に、布にくるんだ石が入っていた。竈で焼いた、手のひらくらいの石だ。持つと、じんわりと熱い。冷めたスープの隣で、その石だけが、ちゃんと温かかった。
手紙は、なかった。字を知らない人なのだ。かわりに、布の端に、不揃いな縫い目で、小さな丸が三つ、縫いつけてあった。
鈴だ、と思った。
「……おかみさん」
笑いながら、少し泣いた。石を抱いて、毛布にくるまる。足首の鈴を、ちりん、と鳴らした。
「ありがとう。あったかいわ」
扉の向こうの廊下には、誰もいない。百合の匂いが、石の上に、ふわりと降りた。
夜遅く、王さまが来た。外套の下に毛布を抱えていた。王さまの寝台から、はがしてきたらしい。
「……侍従に言えば、王妃に知れる」
「だから、自分で運んできたの?」
「運んできた」
「王さまが、毛布を」
「重かった」
私は笑って、王さまの持ってきた毛布を王さまの肩にかけた。二人で一枚の毛布にくるまって、消えかけた暖炉の前に座った。
王さまは、王妃さまに何も言えない人だった。重臣にも、大司祭さまにも。けれど、毛布を一枚、自分の手で運んでくることはできる人だった。私は、それを覚えておこうと決めた。
ある夕方、王さまがひどく青い顔で来た。
「書庫の、記録が」
「記録?」
「大司祭が、あなたを聖女と記した記録が、ない。書庫のどこにも。新しい大司祭は、そんなものは、はじめから存在しなかったと言う」
王さまの手が、震えていた。
「側妃の名簿も、だ。あなたが名を書いた頁が、切り取られている」
私は、自分の書いた少し曲がった字を思い出した。ぶあつい羊皮紙に、重いペンで書いた自分の名前だった。
「……王妃さまね」
王さまは答えなかった。答えないのが、答えだった。
「止めてくださいって、言ったら、止めてくれる?」
王さまは、窓の外を見た。夕陽が、西の部屋の床を赤く染めていた。王さまは、長いあいだ、その床を見ていた。
「……余が、それを言えば」
声が、かすれた。
「重臣たちと、教会と、王妃が、余の弱さを、もう一度、一つずつ並べて見せる。余は、それに耐えられる男ではない」
広場で会ったときから、知っていた。この人は、拍手のしかたも知らない人なのだ。
*
春が来て、私はお腹に赤ちゃんがいることに気づいた。
王さまに言うと、王さまはまず笑った。それから、すぐに怯えた顔になった。聖女の血を引く子が生まれる。王妃さまの小さな王子さまより、聖女の血の濃い子が。その意味が、私にも少しだけわかった。
廊下の声は、もう隠そうともしなくなった。
「王さまの踊り子が、身ごもったそうよ」
「側妃さまなんて、はじめから、いらっしゃらなかったことになっているんですって」
それでも、私は踊った。お腹が大きくなっても、誰も見ていない西の部屋で、ひとりで足首に鈴をつけて。
踊っていると、お腹の中で赤ちゃんが蹴った。鈴の拍子に合わせて、いつも少しだけ遅れて。
ちりん。……とん。ちりん。……とん。
思わず笑ってしまった。
「のろまさんね、あなた」
次の曲で、私は拍子を少しだけ遅くした。ちりん、とん、と、ぴったり合った。
「ほら、合ったわ。あなたが追いつけるように、お母さんが、ゆっくり踊ってあげる」
百合の匂いが、ふわりと濃くなった。
その夜、王さまの手を、お腹に当てさせた。鈴を、ちりん、と鳴らす。少し遅れて、とん、と来た。王さまの目が、まんまるになった。
「……蹴った」
「蹴ったでしょう?」
「遅れた」
「のろまさんなの」
王さまは、それから毎晩、私のお腹に手を当てて数えるようになった。
「今夜は、七回。三回目と五回目が、遅れた」
「全部、数えてるの?」
「数えている」
(数えてくれる人がいるなら、この子は、いなかったことにはならないわ)
*
お腹が大きくなって、跳ぶ踊りは、もう踊れなくなった。
その夜、王さまが言った。
「今夜は、余が、拍子を数える」
「王さまが?」
「そなたは、ゆっくり踊れ。……いち、に。いち、に」
低い声が、暗い部屋に、ぎこちなく響いた。数えるのは、いちばん得意なことのはずなのに、王さまの「いち、に」は、足を踏むときよりも、ずっと自信がなさそうだった。
私は、その声に合わせて、ゆっくりと体を揺らした。右へ。左へ。ちょっと止まって。くるり、はできないから、お腹をそっと抱いて、息を吸った。
鈴が、ちりん、と鳴る。少し遅れて、お腹の中で、とん。
王さまの声が、止まった。
「……蹴った。余の拍子で」
「そうよ。あなたの拍子で、踊ったのよ」
王さまは、しばらく何も言わなかった。それから、小さな声で言った。
「余が決めたことを、この子が、聞いてくれた」
「聞いてるわよ。ずっと」
王さまの目の縁が、赤かった。
*
夏の夜、私はお腹の子の名前を決めた。
「セラフィーナ」
王さまに言うと、王さまは指を折って数えた。
「……長い」
「長いでしょう? いい名前は、長くていいの。この子は、名前をたくさん削られちゃうかもしれないから。少しくらい削られても、まだ残るように、長くしておくの」
王さまの顔が、ゆがんだ。
「呼ぶときは、短くしましょうね。セラ。のろまさんには、短いほうが、呼ばれたってすぐにわかるもの」
王さまは何も言わずに、私の手を握った。
「ねえ。ひとつだけ、お願いがあるの」
「……何でも言え」
「私の名前は、消えてもいいわ。もう、消えちゃったし」
王さまの手に、力がこもった。
「でも、この子の名前だけは、あなたが書いて。誰かに書かせないで。あなたが、自分の手で」
王さまは、長いあいだ私の手を握っていた。窓の外で、夏の虫が鳴いていた。
「……書く。余が、自分の手で、書く」
生まれて初めて自分で決めたいと言ったときと、同じ声だった。
*
冬が近づいたころ、もうひとつ、教えておくことがあった。
「ねえ。歌をひとつ、教えるわ」
「歌?」
「この子が泣いたとき、あなたが歌ってあげられるように。広場の、おかみさんの踊りの歌よ」
右、左、ちょっと止まって、くるり。
節は、ない。言葉を、ゆっくり並べるだけの歌だ。王さまは、真面目な顔で、三回くり返した。三回とも、調子が、ばらばらだった。
「……合っておらぬ」
「合ってなくていいの。あなたの声なら、それだけで、この子は泣きやむわ」
「そうか」
その夜、王さまは、寝台のそばで、小さな声で、何度も練習していた。右、左、ちょっと止まって、くるり。窓の外では、冬の星が、静かに光っていた。
*
赤ちゃんが生まれたのは、その冬の、雪の夜だった。
来てくれた産婆さんは、ひとりだけだった。産婆さんは西の部屋に入るなり私の髪を見て、早く帰りたそうな顔をした。王さまは、扉の外で待つように言われた。
王さまは、待たなかった。扉を開けて入ってきて、寝台の横の床に膝をつき、私の手を握った。王さまが誰かに言われたことを自分で破るのを、私は初めて見た。
(あら。やればできるじゃない)
そう言いたかったけれど、言う余裕はなかった。
長い夜だった。窓の外で、雪が音もなく降り積もっていった。暖炉の火は、半分の薪で細々と燃えていた。
明け方近く、赤ちゃんが泣いた。小さな声だったけれど、ちゃんと泣いた。産婆さんが、私の胸の上に赤ちゃんを乗せてくれた。
あたたかかった。小さな頭に、うっすらと産毛が生えていた。夜明け前の空の色で、私と同じ色だった。赤ちゃんが目を開けた。菫色だった。
「……のろまさん。やっと、追いついたのね」
声が、うまく出なかった。
王さまが、私の手を握っていた。王さまの手は熱くて、ひどく震えていた。私は赤ちゃんの顔を見て、それから王さまの顔を見た。
(この人は、これから、たくさんのことを決められない。この子のことも、守りきれないかもしれない。それでも、この子の名前だけは書いてくれる。それで、いいわ)
「セラフィーナ」
娘の名を、呼んだ。足首の鈴が、一度だけ鳴った。
百合の匂いがした。今までで、いちばん濃い匂いだった。寝台のまわりに、春の野原がまるごと咲いたようだった。
そして、生まれて初めて、はっきりと聞こえた。誰かが、私の名前を呼んだ。
『――ミラ』
広場で帽子を回していたころの名前。一座の仲間が呼んでくれた名前。側妃の名簿に少し曲がった字で書いて、切り取られた名前。その名前を、その声は、壊れものを両手ですくいあげるように呼んだ。
(ああ。あなたは、ちゃんと、覚えていてくださったのね)
(ありがとうございます。私、とても、しあわせでした)
広場で踊って、揚げ菓子を半分こにして、王さまと四回目で拍子が合って。のろまさんが、お腹の中で、ちりん、と蹴ってくれて。
(だから、お願いがあります。この子が、笑って暮らせますように。あの金色の巻き毛の坊やも。王さまも、水売りのおかみさんも。みんなが、あたたかいところで、笑えますように)
(拍子が、少し遅れても、いいんです。どうか、この子を、見ていてください)
『その子は、わしが見ておる。あの子もじゃ。名前も、ひとつ残らずな』
王さまの手を、握り返そうとした。うまく、力が入らなかった。
ちりん、と、もう一度、遠くで鈴が鳴った気がした。拍子が、少しだけ遅れて。
*
王は、朝まで、その手を離さなかった。離したら、そのあと何を握ればよいのか、わからなかった。
夜が明けると、扉が開いた。王妃と、新しい大司祭が立っていた。
「お悔やみ申し上げますわ、陛下」
王妃は、扇を開いて言った。
「けれど、王家の記録には、記すべき妃はおりません。大司祭も、そう申しております。踊り子がひとり、城の西の端で亡くなった。それだけのことですわ」
王は、何も言わなかった。王妃と大司祭が出ていったあと、王はひとりで記録簿を開いた。王女の名を記す頁に、羽根ペンで、自分の手で、娘の名を書いた。
セラフィーナ。
王が王として自分の手で書いたものは、後にも先にも、それひとつきりだった。
それから王は寝台のそばに戻り、冷たくなった足首から、三つの銅の鈴を外した。革の紐ごと布に幾重にも包み、鳴らないように懐に入れた。
*
乳母は三人つけられて、三人とも逃げた。赤子の産毛が、日に日にあの色になっていったからだ。不吉な色の子を抱いていたと知れたら、自分の家の戸が閉まる。
三人目が逃げた夜、厨房に入って一年あまりの女が、泣き声を聞いて西の部屋へ行った。広場で水売りの手伝いをしていた女だった。毎日いちばん前で、あの踊りを見ていた女だった。
女は、寝台の上で泣いている赤子の顔をのぞきこんで、口もとを手で押さえた。あの顔だった。広場で足首の鈴を鳴らし、よろけてみせて、子どもたちを笑わせていた、あの人の顔だった。
「……生き写しだよ」
女は、厨房から持ってきた山羊の乳を布に含ませて、泣いている小さな口にそっと押しこんだ。赤子は泣きやみ、少しだけ遅れて、布を吸いはじめた。
女は、前歯の一本欠けた口で、小さく口ずさんだ。
「右、左、ちょっと止まって、くるり」
*
春になって、旅の一座が、王都の広場に戻ってきた。
座長は、泉の縁に腰かけて、あたりを見まわした。一座にいた小さな踊り子が、城へ上がったと聞いたきり、便りがない。足首の鈴を結び直してやったのは、自分だ。
泉のまわりで、子どもたちが遊んでいた。桶を抱えるまねをして、右、左、とつまずき、くるり、で泉に落ちるふりをして、げらげら笑っている。
「おい、坊主たち。その踊りは、誰に教わった」
「見てたんだ。ここで、踊り子のお姉さんが、おばさんに教えてた」
「お姉さんの名前は」
「ミラ!」
子どもたちは、声をそろえた。
「ミラのおどり! ミラのおどり!」
「お城のお姉さんは、もういないんだって、大人が言ってた。でも、おどりは、のこってるもん」
座長は、顔を覆った。肩が、震えた。泣いているのか、笑っているのか、自分でも分からなかった。
石畳のすきまに、小さな白い花が咲いている。座長は、それを踏まないようにして立ち上がった。そして、ひとりで、右、左、ちょっと止まって、くるり、を踊ってみた。足を踏みはずして、よろけた。子どもたちが、もっと笑って、拍手をした。
「ミラ。お前の踊りは、ちゃんと、ここにいるぞ」
*
それから、十年が過ぎた。
王都の北、杉林の奥の小屋に、雪の夜が来ていた。
麻布一枚の娘が、熱を出して、石の床に横たわっている。天井の染みを、七つまで数えて、八つ目を探して、見つけられずにいた。
麻布の下から、髪が一筋、こぼれている。夜明け前の空の色だった。
――だれか。
声にならない声が、唇から落ちた。
そのとき、隙間風の中に、百合の匂いがした。春の野原がまるごと咲いたような、甘く澄んだ匂いだった。
床と同じ高さに、誰かが、しゃがんでいた。姿は、娘には見えない。ただ、頬のすぐ横に、あたたかい気配があった。
『すまんのう』
田舎のおじいさんのような声だった。
『ずっと、そばにおったんじゃよ』
娘は、見上げるのをやめた。頬の触れている石の床のほうへ、そっと目を動かす。
床から、白い静かな光が立ちのぼった。熱も、寒さも、押し寄せてきたもの全部の上に、光は、そっと載った。雪が、冷えた石の上に載るように。
その光の中で、遠くで、鈴が鳴った気がした。
ちりん。
拍子が、少しだけ遅れて。
『お主の母にな、約束したのじゃ。この子は、わしが見ておる、とな。一日も、欠かしてはおらんよ』
それから、少しだけ、うれしそうな声になった。
『お主の母はな、いつも、わしの隣で見ておる。のろまな娘じゃ、と、笑うてな』
娘は、答えなかった。光に覆われて、ゆっくりと、眠りに落ちていく。
寒くなかった。体の底が、温かかった。
雪の夜が、少しずつ明けていく。小屋の隙間から、夜明け前の空の色が、細く射しこんでいた。娘と同じ色だった。
同じ夜明けが、王城にも射していた。
鏡ばかりの部屋で、金色の巻き毛の少年が、眠ったまま、唇を小さく動かした。
ちりん。
別の窓辺では、白髪の混じった男が、夜明けを見ていた。唇が、音もなく動いている。右、左、ちょっと止まって、くるり。十年たっても、調子は、ばらばらのままだった。
それでも、歌は、消えていなかった。
拍子は、少しだけ遅れて。
遅れても、いつか、合う。みんな。




