【セラの母】名前を消された側妃と王の恋の歌(二) 一座は、東の町へ発たなかった
◆ 踊り子
一座は、東の町へ発たなかった。王さまの頼みで、私は一度だけ、大聖堂で踊ることになったのだ。
大聖堂は、見上げると首が痛くなるほど高かった。天井も壁も金ぴかで、いちばん奥の壁には、雲の上に立つ聖女さまの大きな絵がある。金色の髪をなびかせて、足もとにひれ伏す人たちを見下ろしている。
(あの髪、重そうね)
磨きあげられた大理石の床で、私は鈴を鳴らした。ちりん、と鳴った音が高い天井まで上っていき、ゆっくり降ってくる。広場とは、まるで違う響き方だった。
踊り終えると、祭壇の脇から、杖をついたおじいさんが近づいてきた。白い法衣を着て、目が白く濁っている。大司祭さまだ、と、そばの若い司祭が小声で言った。その若い司祭のほうは、痩せて、目の鋭い人だった。
「鈴を、もう一度、鳴らしてくれんかね」
ちりん。
大司祭さまは、目を閉じてその音を聞いていた。それから、若い司祭のほうへ顔を向けた。
「この娘さんの髪は、何色かね」
頭に巻いていた布が、少しずれていた。若い司祭は私の髪を見て、それから目を逸らした。
「……灰色とも、紫ともつかぬ色です」
「夜明け前の空の色、ではないかね」
若い司祭は答えなかった。
「その色を、わしは、まだ目の見えたころに、地下の書庫で見たことがある。いちばん古い羊皮紙じゃ。初代の聖女さまを描いたものでな。上の壁の絵は金で塗り直されておるが、ほんとうの聖女さまの髪は、その色じゃった」
私は、自分の髪をつまんでみた。旅の空の下で、いつも変わった色と言われてきた髪だ。不吉だと、石を投げられた町もある。だから、布を巻いて踊ってきた。
「娘さん。あんたは、ときどき、誰かと話しておられるかね」
「ええ。百合の匂いがするときに。返事は、よく聞こえないんですけど」
そう答えたとき、大聖堂の中に百合の匂いが満ちた。
どこにも花はない。祭壇にも、壁にもない。それなのに、春の野原に寝ころんだときのような甘く澄んだ匂いが、金ぴかの天井の下に広がっていった。
大司祭さまが、杖を置いた。そして、私の隣の、何もない床に膝をついた。
「大司祭さま!」
若い司祭が、悲鳴のような声を上げた。法衣の袖を握りしめて、顔をこわばらせている。
大司祭さまは、その声には答えなかった。私のほうも見なかった。膝をついたまま、自分の前の床に手を当てて言った。
「やっと、お戻りになった」
誰が、どこへ戻ったのか、私にはわからなかった。わからないまま立っていると、足首の鈴が一度だけ、勝手に鳴った。
*
それから、たくさんのことが、いっぺんに決まった。
大司祭さまは、私が初代の聖女の血を引く聖女だと、記録に書いた。そして王さまに、聖女を王家の外に置いてはならない、正式な側妃として迎えなさい、と言った。
側妃が何なのか、私はよく知らなかった。王さまの二人目の奥さんのことだと聞いて、びっくりした。
「王さまには、もう奥さんがいるんでしょう?」
「いる」
「その方は、どう思うのかしら」
王さまは、窓の外を見た。
「……あれは、余を、どうとも思っておらぬ。余も、あれに、何かを思われたことはない」
王さまは、自分のことを「余」と呼んだ。広場では「私」と言っていたのに、城の中ではそう呼ばなければいけないのだそうだ。
それから王さまは、私のほうを向いた。
「だが、あなたのことは、余が決めたい。生まれて初めて、自分で決めたい」
揚げ菓子を受け取ったときと、同じ顔だった。
王さまは、側妃の証書に自分で印を押した。押す前に、三度読み返していた。決めることに慣れていない人は読み返すのだと、あとで知った。
私は、側妃の名簿に自分の名前を書いた。王家の名簿は羊皮紙がぶあつくて、ペンが重かった。旅の一座で覚えた字は、少し曲がった。それでも、自分の名前を自分の手で書いた。
一座の仲間には、王さまから十分すぎるくらいのお金が渡された。座長は泣きながら、私の足首の鈴を、新しい革の紐に結び直してくれた。
「お前は、踊りをやめるんじゃないよ。城の中でも、踊るんだよ」
「やめないわ。鈴が鳴らないと、私、歩き方を忘れちゃうもの」
座長は、もっと泣いた。
その夜、王さまの私室で、私は一曲だけ踊った。見ているのは王さまひとりで、窓の外には、王都の灯りが星を逆さまにしたように広がっていた。
踊り終えて、お辞儀をした。顔を上げると、王さまが膝の上の手をほどいていた。
ぱち、と一回鳴った。それから、ぱち、ぱち、と二回。ぎこちない音で、拍子も少しずれていた。
「……合っておるか」
「合ってないわ。でも、いいの」
私は、もう一度お辞儀をした。帽子は、どこにもなかった。
*
王妃さまに初めて会ったのは、城に入った日の午後だった。
王妃さまは金と真珠の冠をかぶり、幾重にも重ねた絹のドレスを着て、手に閉じた扇を持っていた。私を見ると、扇をぱらりと開いて微笑んだ。
「ようこそ、聖女さま。お会いできて、光栄ですわ」
声は、氷の粒を転がすようになめらかだった。
「聖女さまの御身のために、静かなお部屋をご用意いたしましたの。お城の、西の端に。誰にも、お邪魔をさせませんわ」
「まあ、ありがとうございます」
私がお辞儀をすると、王妃さまは扇の陰でもう一度微笑んだ。扇の上に出ている目は、笑っていなかった。
(あの方、扇がないと、笑えないのかしら)
西の端の部屋は、本当に静かだった。侍女はつかなかった。食事は扉の外に置かれた。廊下で誰かとすれ違うと、その人は壁のほうを向いて、私が通りすぎるのを待った。
ひと月もすると、廊下の向こうから、こんな声が聞こえるようになった。
「王さまの、踊り子が」
側妃さまと呼ぶ人は、いつのまにか、いなくなっていた。
*
それでも、私は踊った。
西の部屋の窓には、夕陽がよく入る。床は古いけれど、よく磨かれた板張りだった。鈴を鳴らすと、音が壁にぶつかって、少し遅れて返ってくる。ひとりで踊っていると、ときどき百合の匂いがした。
「見ていてくれるの?」
返事は、やっぱりよく聞こえない。けれど、匂いが少し濃くなる。
「ありがとう。見ている人がいると、ひとりで踊っても、ひとりじゃないのよ」
夜になると、王さまが来た。王さまは、いつも疲れていた。昼間は重臣たちに囲まれて、いろいろなことを決めさせられるのだという。決めているのは王さまではなく、重臣たちと王妃さまなのだけれど。
「今日は、何を決めたの?」
「……南の郡の、麦の税を」
「上げたの? 下げたの?」
「上げた。上げたくなかった」
「じゃあ、どうして上げたの」
「王妃が、上げると言った」
私は、王さまの手を取った。
「踊りましょう」
「余は、踊れぬ」
「知ってるわ。だから、教えてあげるの」
王さまは、一回目に私の足を踏んだ。二回目にも踏んだ。三回目は自分の足を踏んで、よろけて寝台に座りこんだ。四回目に、やっと一歩だけ拍子に合った。
王さまは自分の足を見下ろし、それから私の顔を見て、広場の夜と同じ顔で笑った。
「……合った」
「合ったわね」
「四回目で」
「数えてたの?」
「数えていた」
この人は、何でも数える人だった。数えることだけは、誰にも決められずに自分でできるからかもしれない。
「ねえ。私も、ひとつだけ、決めていい?」
「何をだ」
「広場の、水売りのおかみさん。毎日いちばん前で見てくれていた人よ。手が、あかぎれだらけなの。もう若くないのに、冬も泉の水を運ぶのよ」
王さまは、私の顔を見た。
「お城の厨房で、使ってあげて。竈のそばなら、冬でも手があったかいでしょう?」
「……それだけか」
「それだけよ」
王さまは少し考えてから、うなずいた。
十日後、扉の外の盆に、紙切れが一枚載っていた。あの人が城の厨房に入ったことが書いてあった。紙の端には、王さまの慣れない字で、ひとことだけ書き足してあった。
決めた。
*
夏の終わりに、小さなお客さまが来た。
昼下がり、扉の外で、とてとてと足音がした。開けてみると、金色の巻き毛の男の子がひとりで立っていた。一つ半くらいで、絹の服に金糸の小さな靴をはいている。男の子は、私の足首の鈴を見ていた。
「ちりん、する?」
「するわよ。ほら」
足を鳴らすと、男の子は目をまんまるにして、声を上げて笑った。
「ちりん! もっと!」
私はしゃがんで、片方の足首を差し出した。男の子は小さな指で鈴をつまんで鳴らし、鳴るたびにきゃっきゃと笑った。ほっぺたが、焼きたての蒸しパンのように丸かった。
(まあ、かわいい)
そう思ったとき、廊下の向こうから絹の擦れる音が近づいてきた。王妃さまだった。
王妃さまは私には目もくれずに、男の子の前に立った。そして、閉じた扇で、鈴をつまんでいた小さな手をぱしりと払った。
「ジュリアン。王子は、下々のものに、手を伸ばすものではありません」
男の子の手が引っこんだ。男の子は泣かなかった。泣きそうな顔で、母親の顔を見上げていた。褒めてほしいときの犬のような顔だった。王妃さまは、その顔を見なかった。扇を開いて私に一度だけ微笑み、男の子の手を引いて行ってしまった。
男の子は、引かれていく途中で、一度だけ振り返った。そして、私の足首を見て、口の形だけで言った。
ちりん。
私は、小さく手を振った。男の子の手が、母親の見ていないところで、ちょっとだけ、振り返してくれた。
廊下を、金糸の靴の小さな足音が遠ざかっていった。私はしゃがんだまま、自分の足首の鈴を見ていた。
(あの方は、扇の向こう側から、一度も出たことがないのね。あの子も、これから出られなくなるのかしら。……出られるといいわ。いつか、笑って)
*
秋の夜、一度だけ、王妃さまの部屋の前を通ったことがある。王さまに呼ばれて、廊下を間違えたのだ。半分開いた扉の向こうに、蝋燭が一本だけ灯っていた。
王妃さまは、寝台の脇の小さな台の前にひとりで立っていた。台の上には、昼間かぶっている金と真珠の冠が載っている。王妃さまは、それをじっと見上げていた。百合の匂いに話しかけるときの私に、少しだけ似た顔だった。
(あの方も、誰かに見ていてほしいのかしら)
気がついたら、扉を叩いていた。
王妃さまが振り返った。扇は手になかった。一瞬だけ、扇のない顔が見えた。思っていたよりずっと若い顔だった。
「何の御用かしら」
「あの、廊下を迷ってしまって。それから」
私は、言ってしまった。
「よかったら、今度、一緒に踊りませんか。ひとりで冠を見ているより、きっと、あったかいですよ」
王妃さまは何も言わなかった。寝台の上の扇を取って、ぱらりと開いた。扇の上の目は、いつもの目に戻っていた。
「冠は、裏切りませんもの。人とは、違って」
扉が、静かに閉められた。廊下に、百合の匂いがかすかに残っていた。匂いは扉の前でしばらく漂って、それから消えた。




