【セラの母】名前を消された側妃と王の恋の歌(一) 拍手のしかたを知らない人
セラのお母さま、ミラの話です。
◆ 踊り子
王都の広場は、春になると、泉のまわりから乾いていく。石畳のすきまに、踏まれても咲く小さな白い花がある。私はその花をよけて、足首の鈴を鳴らす。
鈴は三つで、小さな銅でできている。ちりん、と鳴らすと、人が集まってくる。旅の一座の踊り子に、それ以上の仕事はない。拍手が来たら、笑ってお辞儀をする。帽子に銅貨が入ったら、もう一度お辞儀をする。十二の年から、町から町へ、私はそれを続けてきた。
その春、王都の広場で、拍手をしない人を見つけた。
*
泉の縁に、男の人がひとり腰かけていた。地味な灰色の外套を着て、帽子を目深にかぶっている。両手は膝の上で、軽く組まれていた。まわりの人たちが手を叩いても、その手は組まれたまま動かない。
(あら。拍手のしかたを、知らないのかしら)
顔を見た。四十を少し過ぎたくらいで、髪に白いものが混じっている。目の下は、眠れない人の色をしていた。踊りを見ているのに、踊りではないものを見ている目だった。
次の曲で、私はその人のほうへ向きを変えた。鈴をわざと大きく鳴らして、くるりと回り、その人の目の前でぴたりと止まる。笑わない。もう一度回って、今度はちょっと足を踏みはずしてよろけてみせた。前のほうの子どもたちが、げらげら笑った。その人は、笑わない。
(手ごわいわ)
踊りを終えて帽子を回すと、その人は銅貨ではなく銀貨を一枚入れて、黙って帰っていった。
「踊り子さん」
帽子をのぞきこんでいたら、桶を抱えたおかみさんに声をかけられた。水売りの手伝いをしている人で、毎日いちばん前で見ている。五十を、いくつか過ぎたくらいだろうか。日に焼けて、手が荒れていて、桶を持つ腕だけは私よりずっと太い。
「あの男、昨日もいたよ。その前の日も。いっつも笑わないんだ」
「そうなの?」
「あんたの踊り、あんなにおかしいのにねえ。変な人だよ」
変な人は、次の日も来た。その次の日も来た。
夕方、広場の人がまばらになったころ、桶のおかみさんが私の足首をじっと見ていることに気づいた。
「やってみる?」
「あたしかい? よしとくれ。こんな婆さんが踊って、どうするんだい。水を運ぶしか能がないよ」
「水を運べる人は、踊れるのよ。桶を揺らさないで歩くのって、踊りと同じだもの」
私は、おかみさんの荒れた手を取った。
「右、左、ちょっと止まって、くるり」
おかみさんは、右、左、で桶につまずいて、くるり、で泉に落ちかけた。
「ほら、もう踊れたわ」
「落ちかけただけだよ!」
おかみさんは真っ赤になって怒って、それから腹を抱えて笑った。前歯が一本、欠けていた。
*
五日目に、その人が初めて口をきいた。帽子に銀貨を入れながら、ぼそりと言ったのだ。
「なぜ、拍子を変えた」
低くてよく通る声だった。大きな声を出したことのない人の声だった。
「拍子?」
「三日目から、あなたは曲の途中で拍子を遅くする。私が見ている側を向いたときだけ」
(あら。ばれていたのね)
「だって、あなた、手を叩かないでしょう? 速い拍子だと、叩き損ねて困るかと思って。ゆっくりなら叩けるかしらと思ったの」
その人は、しばらく私の顔を見ていた。泉の水が、ちょろちょろと鳴っていた。
「……叩いたことが、ない」
「拍手を?」
「自分で決めて、何かをしたことが、あまりない」
よくわからない答えだった。
「じゃあ、今日は私が決めてあげるわ。お昼、まだでしょう?」
広場の端の屋台で、揚げ菓子をひとつ買った。蜂蜜を塗った、熱々のやつだ。半分に割って、片方を差し出す。
「はい。今日のお昼は、これ。私が決めたの」
その人は、揚げ菓子と私の顔を三回くらい見比べた。それから受け取って、ひと口かじった。
「……熱い」
「揚げたてだもの」
「甘い」
「蜂蜜だもの」
その人の口の端が、ほんの少しだけ動いた。笑ったと言えるかどうか、わからないくらいだった。泉の向こうで、桶のおかみさんが口をぽかんと開けていた。
*
それから、その人は毎日来て、来るたびに少しずつ話した。
自分で決めて何かをしたことがない、というのは本当だった。朝に何を食べるか、どの服を着るか、誰に会うか。全部、誰かが決めるのだという。
「それは、ずいぶん楽ね」
「楽ではない」
「わかってるわ。言ってみただけ」
その人は、また口の端を動かした。三日に一度くらい、動くようになった。
私のほうは、自分の話をした。十二で一座に入って、町から町へ歩いてきたこと。それから、ときどき百合の匂いがすること。
「百合?」
「どこにも咲いていないのに、ふっと匂うの。小さいころから。一座に入って、知らない町をひとりで歩くようになってからは、匂いがすると、その人に話しかけるようにしているの。見てもらっている気がするから」
「その人とは、誰だ」
「さあ。返事は、よく聞こえないの。でも、聞いてくれているのは、わかるわ」
その人は、黙って泉を見ていた。
「……見ている者が、いるのか」
「いるわよ。あなたのことも、たぶん見ているわ」
その人は何も言わなかった。その日は帰るまで、一度も膝の上の手を組まなかった。
一座が王都を発つ前の晩、その人は帽子を取った。広場の灯りの下で、初めて顔が全部見えた。
「明日、発つと聞いた」
「ええ。次は、東の町」
「その前に、言っておかねばならない」
その人は、ひどく言いにくそうに言った。
「私は、この国の王だ」
泉の水の音だけが、聞こえていた。
(王さま)
王さまの前で、私は五日も踊って、足を踏みはずして、揚げ菓子を半分こにしたのだ。
「……じゃあ私、王さまの前で、足を踏みはずしたのね。三回も」
「四回だ」
「数えてたの!?」
その人は、今度ははっきりと笑った。声を立てて笑い、笑ったことに自分で驚いた顔をした。




