第70話 十歳の冬、私は「だれか」と言った
◆ セラ
兄に「痛かった」と言った夜、私は久しぶりにあの小屋の夢を見た。夢だとわかっていた。夢の中で私はまた十歳で、麻布一枚で薄い毛布にくるまっていた。そして今度は、あの夜に本当は何が起きていたのかを今の私の目で見ていた。
その年の秋、厨房のいちばん年寄りの下働きの女の人が私の麻布の端をめくった。
「あんた、生き写しだよ。その布さえ、なけりゃね」
母のことを教えてくれたのは、その一度きりだ。踊り子だったこと。足首に鈴をつけていたこと。王さまが広場で見かけて、それで終わりだったこと。
私はそのとき自分の顔に母の顔がついていることを知った。知ったけれど、見ることはできなかった。小屋に鏡はない。井戸の水に映るのは、麻布だけだ。
冬の初めに、その人は厨房のいちばん奥へ移された。私に口をきいたのが知れたからだ、と誰かが言う。それからその人は私のほうを見なくなった。
私は名前を訊けなかった。訊いたら追い出される気がした。あの人が奥へやられたのは、母の顔の話をしたからだ。十歳の私は、血筋の話が禁じられていることを知らなかった。
その人は名前のないまま、厨房の奥にいた。私の手の届かないところに。
*
その冬の隙間風は、ひどかった。
熱が出たのは、雪の夜だ。
最初は寒かった。薄い毛布を引き上げても、隙間風が石の床から這い上がって背中の骨まで凍らせていく。それから、ひどく熱くなった。息を吐くたびに喉が焼ける。寒さと熱が交互に押し寄せて、体が自分のものでなくなっていく。
私は仰向けのまま、天井の染みを見ていた。一つ、二つ。痛いとき苦しいときの、いつもの癖だ。七つ。数えているあいだは何も考えなくていい。八つ目を探した。見つからない。熱で視界が濁って、暗い天井がぐらぐら揺れている。
そのうち、押し寄せてきた。
見たことのない母の顔。聞いたことのない鈴の音。消された名前。訊かなかった名前。殿下の靴の裏。誰も来ない戸口。それから――なぜか見たこともないものまで。四角い建物の並ぶ街。夜中まで消えない明かり。ぎゅうぎゅうの電車。ぬるくなったお茶。誰かの、鳴りやまない声。疲れて、疲れて、布団の中で開いた一冊の本。
誰かの名前を呼ぼうとして、出てこなかった。向こうの私にも待っている人がいたのかもしれない。その人の顔が、ない。
二つの人生の暗いところだけが、いっぺんに来た。数えようとした。いつもの癖で。けれど数えられなかった。点をつけるものが、どこにもない。蹴りには点がつけられる。これには、つけられない。
苦しくないふりが、できなくなった。ここで死ぬのだ、と思った。誰にも呼ばれず、向こうの私と同じ終わり方で。
口の中で、声にならない声で言った。
――だれか。
誰に、とも言えなかった。
『すまんのう』
声がした。田舎のおじいさんのような声だった。
『ずっと、そばにおったんじゃよ』
声は、思っていたより低いところから聞こえた。
(……だれ)
『ずっと、そばにおった者じゃ』
(うそ。だれも、来なかった。七つの冬から、だれも)
『おったのじゃ。お主が、天井ばかり数えておったでな』
(どこに)
『ここじゃ。お主の、頬のすぐ横じゃ』
(うえじゃ、なくて)
『下じゃ。床と、同じ高さじゃ』
目を動かした。見上げるのをやめて、頬が触れている石の床のほうへ。目の前が白くなって、何も見えなくなった。
床からだ。私の顔のすぐ横。頬が触れている石の床と同じ高さのところから、白い光がゆっくりと立ちのぼって、私を覆っていった。
毛布が覆えなかったところを、覆った。背中の骨も、隙間風の通り道も、訊かなかった名前も、消された名前も。押し寄せてきたもの全部の上に、光がそっと載った。押し返しも追い払いもせずに、ただ覆った。
雪が、冷えた石を静かに覆っていくように。
痛みは消えなかった。熱も引かなかった。母の顔は見えないままで、名前は消えたままで、翌日はまた殿下が蹴る。何ひとつ変わらなかった。
それでも私はそのとき、生まれて初めて寒くなかった。
体の底が、温かかった。
*
夢から覚めて、私は西棟の部屋の天井を見た。染みはない。閣下の城の天井は、磨いた木目が見えるだけだ。
(神さま)
『うむ。ここにおったよ』
(あの夜、来てくださったんだと思っていました)
『来たのではない。おったのじゃ。お主が生まれる前から』
(じゃあ、どうして、あの夜だったんですか。ずっといらしたのに。熱を出すまで)
『声は、かけておった。じゃが、お主は数えるのに忙しそうでな。邪魔をするのも悪いかと思うて。……あれはあれで、よう頑張っておった』
(……ずっと、最前列にいてくださったんですね。席料も、払わずに)
『最前列というても、床席じゃがのう』
私は毛布の下で、自分の腕を見た。数えているあいだ、私はいつも歯を食いしばっていた。立っているのは私だ。私がやっている、と自分に言い聞かせて。両腕で自分を抱えて、ほかに頼るものがなかった。
(あの夜は、抱えられなくなって)
『腕を外したのう』
(それで、「だれか」と)
『あれは、よい声じゃった。お主が、やっとこっちを向いてくれたでな』
(でも、痛いのは消えませんでした。殿下は、次の日も蹴りました)
『消さん。わしは、痛いままのお主の隣に、同じ床の高さで座っておった』
十歳の私は、来てくださったのだと思っていた。神さまは、最初からそこにいた。私は七つ目のあとに、八つ目を探すのをやめた。探さなくていい。あの染みが見えなくなった理由を、今夜やっと知ったから。
神さま。
あの夜、私は死ぬのだと思いました。二度目も、同じ終わり方だと。
けれど、死にませんでした。
終わりだと思ったところに、神さまがいらして、私を覆ってくださった。押し寄せてきたもの全部の上に。覆ってくださったから、痛いままで生きられました。
明日は兄に、椀のふやかし方をもう一度教える。
(兄の皿洗い、二回戦です。解説は、私)
それから、あの人の名前をいつか訊いてみようと思う。神さまに訊けば、たぶん、さあのう、と言われる。それでも訊く。あの人本人に。名前を訊かないままにするのは、もうやめたから。




