第69話 「痛かったか」と、兄は訊いた
◆ ジュリアン
顔を覆った手を、下ろした。
妹はまた床を磨いている。こちらに背中を向けて。俺はその背中の、右側を見ている。手の甲。回廊で、俺の靴の下にあった手。
「手を、見せろ」
その手が止まった。
「右手だ。回廊で、踏んだ。目地の砂利で、切れた」
妹は振り返らない。ただ雑巾を桶に戻して、右手を肩越しに差し出した。顔は、こちらに向けずに。
俺はその手を見る。
あかぎれは治りかけている。手の甲に、細い傷の跡が三本白く残っている。砂利で裂けた跡だ。あの日の、回廊の目地の砂利。俺が靴の裏で左右にねじった。
俺はその手に触れない。触れる資格があるとは思えなかった。
「治ったのか」
「はい。だいたい。冷たい水に浸けると、まだ少し、じんじんしますけど」
言葉を探す。二十年、一度も口にしたことのない言葉。母が一度も教えなかった言葉。
見つからなかった。
代わりに出てきたのは、これだ。
「……痛かったか」
その手が、震えた。
竈の火が、ぱちりと言う。もう一度、言う。
「はい」
妹は言う。
「痛かったです。あの日は、特に。前の晩にも蹴られていたので、肋骨が、まだ治ってなくて」
「痛くなかった」とも、「もういいんです」とも、言わなかった。
俺はその言葉を受け取った。受け取り方も知らなかったが、受け取った。
「……そうか」
それしか言えなかった。
妹は手を引っこめて雑巾を取り、また床を磨き始めた。背中が、揺れている。
俺はそれを見ていた。見なければ、と思った。
十年間、見なかった背中を。
竈の前の男が、薪をもう一本くべる。それから、こちらを振り返らずに言った。
「殿下。この厨房は、暖かい」
「ああ」
「九年、ひとつしか火が入っていなかった竈だ。今は、三つとも燃えている」
氷竜は、そう言って、厨房を出ていった。
出ていくとき、氷竜は、床を磨く妹の背中の脇を通った。何も言わない。ただ、通りすがりに、妹の肩に落ちていた麦の粒を指で払った。
妹は、気づかなかった。
俺は、見た。あの氷竜が、妹の肩の麦を、指先ひとつで払うのを。
俺は立ち上がった。この部屋にこれ以上いると、何を言うかわからなかった。
「……薪を、取ってくる」
妹は振り返らない。小さく頷いただけだった。
裏口を出る。雪の匂いがした。
◆ セラ
裏口の戸が閉まって、兄の足音が、薪小屋のほうへ遠ざかっていく。
床を磨きながら、私は泣いている。
音は立てない。雑巾を滑らせながら、涙が床に落ちる。落ちた涙を雑巾で拭く。だから床は、きれいなまま。
(神さま)
『うむ』
(兄が、「痛かったか」と)
『聞いておったよ。竈の隣でな』
(「ごめん」じゃ、なかったです)
『あの子はな、「ごめん」という言葉を持っておらん』
(持って、いない?)
『二十年、誰にも教わらなんだ。母親は、王子は謝らぬものだと教え、父親は何も教えなんだ。じゃから、持っておる言葉の中で、いちばん近いものを探した』
(それが、「痛かったか」)
『それが、いちばん近かったのじゃ』
私は、雑巾を絞る。
(私、「痛かった」って、答えました。「もういいんです」って言ったほうが、優しかったでしょうか)
『いや。あの子が、他人の痛みを、自分の手で受け取った。軽くしてやっては、いかん』
(重いままで)
『重いままで、な。それが、本当の親切じゃ』
桶の水に、竈の火が揺れている。
(神さま。私、まだ、兄の足音で手が止まります。許したいのに)
『知っておる。さっき、見ておった』
(……)
『手は、止まった。じゃが、隣には座った。違うか』
(座りました)
『あの子も、敷居の外まで下がった。それから、座った』
(はい)
『二人とも、途中じゃ。わしはな、途中の人間が、いちばん好きじゃよ』
雑巾を持ったまま、私は自分の手を見る。三本の白い傷。さっき、兄が見ていた手。
(神さま。私、ずっと、痛くないふりをしてきました。採点すると、軽くなったので)
『知っておる。よう工夫したのう。あれのおかげで、お主は十年、壊れんで済んだ』
(でも)
『うむ。あれは鎧じゃ。鎧は、蹴りも防ぐが、手も通さん』
手が、止まった。
『セラや。北へ来る道で、お主はわしに訊いたのう。羊も山鳩も持っておらん者は、何を持っていけばよいのか、と』
(はい。わしが羊をもらって何にする、って、おっしゃいました)
『手ぶらでよい』
(……)
『持ってくるものなど、何もなくてよいのじゃ』
私はその言葉を、しばらく胸の中で転がす。手ぶら。麦ひとつまみと拾った絹と塩の紙片と、そういうものを一つずつ大事に抱えてきた私に、手ぶらでいいと言う。
(でも、神さま。私、さっき、何かを兄に渡した気がします)
『うむ。手ぶらの手にしか、載らんものじゃ』
(何を、渡したんでしょう)
『「痛かった」と言うた。誰にも見せなんだものを、鎧を脱いで、あの子の前に置いた。それじゃよ』
(蹴られたことが、ですか)
『違う』
神さまの声から、訛りが消えている。
『蹴られたのは、お主が渡したのではない。奪われたのだ。奪われたものは、渡したことにはならない』
(じゃあ)
『お主が渡したのは、隠さずに痛かったと言うた、その心のほうじゃ。あの子が礼拝堂の床に置いたのと、同じものじゃよ』
少しだけ、間があった。
『……よう、言えたのう。セラ』
その声を聞いたとたん、固く結んでいた何かが、ほどけた。
十年、涙は誰にも見られないうちに拭いてきた。蹴られた朝も、パンが石みたいに硬かった夜も。床に落ちる前に、袖で。床だけは、いつもきれいだった。
涙が、床に落ちた。
今度は、拭かなかった。磨いたばかりの床に、丸い染みが一つ残る。それを見て、笑う。
閣下の床に、私の染みが、ひとつ。
裏口が開いた。兄が戻ってきた。両腕に、薪を抱えている。ハインツさんに教わったとおりの、乾いたほうの薪を。
兄はそれを竈の脇の台に下ろして、それから、言った。
「セラ」
私の名前を呼んだ。
「ドブネズミ」でも「お飾り」でもなく。
「はい」
「峠の夜、俺の天幕の前に」
兄は言葉を選んでいた。
「花の匂いがした。雪しかない野営地で。白い花の、甘い匂いが。最初は安っぽい香水だと思った。侯爵の持ち物か何かだと」
兄は、薪の台の端を、指でつかむ。
「だが、風の向きが違った。あれは、天幕の中から匂った。この城の厨房でも、同じ匂いがした。あれは何だ」
私は雑巾を止めて、振り返る。
「お兄さまの戸口に、神さまがいらしたんです」
兄は眉を寄せる。
「俺は、神を信じていない」
「はい」
「王都の大聖堂も、大司祭も、金の壁画も。七つのお前の前で、五度も針を測り直したあの男の神を、俺は信じていない。あんなものを信じる気はない」
「私も、あれは信じていません」
(王都の金の壁画は、公式ではありません。盛りすぎの、非公式グッズです)
兄は驚いた顔をする。
「じゃあ、何を信じている」
「私の隣に、膝をついてくださる方を」
私は竈の火を見る。
「十歳の冬に、小屋で死にかけたとき、初めて声を聞きました。雲の上からじゃなくて、隣から。床と同じ高さから。『すまんのう、ずっとそばにおったんじゃよ』って、田舎のおじいさんみたいな声で。それから、ずっと隣にいらっしゃいます。私が床を磨いているときも、お兄さまに蹴られているときも」
兄の顔が、こわばった。
「蹴られているときも、か」
「はい。そのときも、隣に膝をついていらっしゃいました」
「見ていたのか」
「はい」
兄は目を伏せる。
「なら、なぜ止めなかった。隣にいて、見ていて、なぜ俺の足を止めなかった。そんな神に、何の意味がある」
私は、答えを持っていなかった。
「わかりません」
正直に言った。
「私にもわかりません。どうして、蹴られている私の隣に膝をついているだけで、お兄さまの足を止めてくださらなかったのか。床を磨いても、そのことの答えは、一度も教えてもらえませんでした」
竈の中で、薪が、ことりと崩れる。
「閣下にも、同じことを訊かれました。九年前、どうしてリーネちゃんを連れていったのか、と。そのときも、わかりません、としか答えられませんでした」
兄は黙っている。
「でも、ひとつだけ知っています。お兄さまの戸口にも、ずっといらっしゃいました。お兄さまが鏡を見ているあいだも、ずっと。戸を叩いて。開くのを待っていらっしゃいました」
「なぜ、俺の戸口に」
「わかりません」
私は、笑った。
「でも、峠の夜、お兄さまは戸口を開けて、座っていらしたと。神さまは、それを、とても喜んでいらっしゃいました。『待った戸口じゃ』って」
兄は長いあいだ動かなかった。
「喜んだ、だと。俺が、戸口に座っただけで」
「はい。それだけで」
「そんな神は、聞いたことがない」
兄は竈の薪の台の上で、両手をぎゅっと握る。
「王都の神は、金の壁画の上にいて、金の杯を掲げないと降りてこない。祈りの言葉を三百も覚えないと、口もきいてくれない。俺は、そう教わった。戸口に座っただけで喜ぶ神なんて、聞いたことがない」
「はい。私も、小屋で聞くまで、知りませんでした」
◆ ジュリアン
厨房の戸口で、足音がする。
老婆だった。マルタという、あの厨房の主。俺を見て眉をひとつ動かして、竈の前を通り過ぎた。
俺の椀を、洗い場から取り上げる。
縁の、乾いた麦の粒を、爪で剥がした。
「洗い方が、なってないね」
老婆は俺を見ずに言う。
「麦の粒は、水に浸してからじゃないと取れない。こびりついたら、ふやかす。爪で剥がすと椀に傷がつく。傷がついた椀は、次に汚れが入りこんで、もっと取れなくなる。四十年、あたしはそう言って、見習いを二十人叱ってきた。あんたで二十一人目だ」
老婆は椀を桶の水に沈める。それから竈の火に、太い薪を一本足した。
「それから。あんたの部屋の火、朝には落ちてるって、ハインツが言ってた」
「ああ」
「太いのを、寝る前に奥に入れな。それでも、一度は起きて足すんだ。四十年、あたしはそうしてきた。誰も代わりに起きてくれる者はいない。閣下だってそうだ。ずっと、あの人は自分で起きて、自分で薪を足してた。あんただけが特別ってわけじゃないんだよ」
老婆は言うだけ言って、厨房の奥へ消えた。
俺は桶の水に沈んだ椀を見ている。麦の粒が、ゆっくりとふやけていくのを。
「セラ」
「はい」
「椀の、洗い方を……」
言いかけて、止まった。教えてくれ、という言葉が出なかった。
妹が雑巾を置いて、洗い場のほうへ歩く。俺の隣を通る。一瞬、その足が遅くなった。手が白くなりかけて、それからゆるんだ。
「こちらへ。水は冷たいですけど、そのほうが、麦はよく取れるんです」
俺は立ち上がって、洗い場へ行く。
妹は桶から椀を取り出して、指で麦の粒をそっと落とす。
「ふやけたら、こうです。指の腹で、なでるように。爪は使いません。マルタさんの言った通り、椀に傷がつくので。それから、拭かずに、伏せて乾かします。布で拭くと、糸くずが残るので」
俺はその手元を見ている。白い傷跡の残る手が、木の椀を丁寧に洗っている。
「次は、自分で」
「はい。ふやかす時間だけ、少し待ってください。慌てて剥がすと、また傷がつきますから」
妹は椀を俺に渡す。
俺はそれを受け取った。濡れた木の椀は、冷たくて、軽かった。
妹が、口の中で何か言った。
「……兄の、皿洗い、初参戦」
参戦。椀ひとつで、戦か。
洗い場の足元に、麦が一粒落ちている。椀の縁から、ふやけて落ちたものだ。
俺はしゃがんで、それを拾った。指の腹で。二本の指で、つまんで。
拾えよ、と、俺は大広間で言った。一粒残らず、と。
一粒を、竈の脇の麦の袋の口に、そっと戻した。妹はこちらを見ていなかった。見ていなくて、よかったと思った。
◆ セラ
兄が厨房を出ていったあと、私は床の帳面を拾う。
ジュリアン。二十歳。私の兄。
その下の、空白。
私は炭を持って、迷う。
「書くな」と、兄は言った。「いい、と言うまで」と、私は答えた。だから、書かなかった。
けれど炭を置く前に、帳面のいちばん端の余白に、小さくこれだけ書いた。
――今朝、椀を洗って持ってきた。麦がひとつ、残っていた。
名前の下ではなく、余白に。兄に言われたことは、守った。
『セラや』
(はい)
『ずるいのう、お主も』
神さまは、笑っていた。
(はい。神さまに似てきたんだと思います。神さまも、閣下の部屋に、九年、こっそり膝をついていらしたので)
『わしの帳面にはな、余白がない』
(余白が、ない?)
『本文も、ない。ただ、忘れんのじゃ。あの子が椀を洗ったことも、麦を一粒残したことも、戸口の外まで下がったことも。みんな、同じ重さで、覚えておる』
私は帳面を閉じる。
竈の火が、ぱちぱちと乾いた音を立てている。礼拝堂では、二つ目の蕾が白くなり始めているはずだった。
私はそれを見に行く前に、もう一度だけ床を磨いた。兄が座っていた、薪の台の足元を。
そこの石は、少しだけ、ほかより温かかった。




