第68話 兄のビジュは、満点です
◆ セラ
厨房の床を磨いていると、戸口に足音がする。
竈は三つとも燃えている。アンナさんたちは朝のパンを焼き終えて、いったん大広間へ戻っている。厨房には、私と、竈の前で寝ているグラウだけだ。
硬い革底が石を叩く音だった。私の手が止まった。
グラウが顔を上げる。竈の前からゆっくり立ち上がり、私と戸口のあいだに体を入れる。唸りはしない。ただ、そこに立つ。
十年、その足音を聞くたびに、体が覚えたことがある。息を止め、頭を低くし、雑巾を握りしめて、床に頬をつける準備をする。
顔を上げると、戸口に兄が立っている。
兄は粗末な革の長靴を履いている。ハインツさんのお下がりだ。金糸はどこにもない。それでも、革底が石を叩く音は同じだった。
兄は私の顔を見て、それから私の手を見る。雑巾を握ったまま白くなっている右手だ。
兄は一歩下がり、戸口の敷居の外に出た。
グラウが、私と戸口のあいだから少しだけ体をずらす。
私は息を吐き、ゆっくりと手の力をゆるめる。竈の火の音が戻ってくる。
「おはようございます、お兄さま」
兄は答えなかった。手に木の椀を持っている。昨夜のスープの椀だ。洗ってあるけれど、縁に大麦の粒がひとつ乾いてこびりついている。
「洗った」
兄は椀を戸口の内側の床に置く。私のほうへは持ってこない。兄の長靴のつま先は、敷居から先へ出なかった。
「ありがとうございます。洗い場に置いておきますね」
私は雑巾を桶にかけて立ち上がり、椀を取りに行く。そのあいだ、兄は敷居の外に立っている。椀を洗い場に置いて戻っても、兄はまだそこにいる。出ていくことも、入ってくることもできないようだった。
私は雑巾を絞って、床磨きに戻る。
「座っても、いいか」
「はい。竈のそばが暖かいです。薪の台の端なら、マルタさんも怒りませんから」
兄は敷居をまたぎ、竈の脇にある薪を積む台の端に腰を下ろした。
竈の火は、マルタさんが朝のうちに組んだものだ。奥で太い薪が赤く静かに燃えている。兄はその火をじっと見ている。
火に照らされた横顔は、王都の肖像画のままだった。回廊の侍女たちは、兄が通るたびに柱の陰で溜め息をついていた。蹴られる側からは、靴しか見えなかったけれど。
(ビジュだけは、王子として満点です。中身の採点は、これからです)
「ハインツが言った。割りたての薪は、燃えないと」
「はい。水を吸ってるので、煙ばかり出るんです」
「知らなかった。二十年、薪のことを考えたことがなかった。火は、あるものだった。俺が部屋に入る前に、誰かが組んでいて、俺が寝る前に、誰かが足していた。それが誰なのか、一度も考えなかった」
私は雑巾を滑らせながら答える。
「私も知りませんでした。小屋の薪は、湿ったのしかもらえなかったので。燃えないのが当たり前だと思っていました。マルタさんに教わったんです。乾いた薪は、火をつけると音が違うって。乾いたのは、ぱちぱち、って言うんです。湿ったのは、しゅうしゅう、って言うだけで」
兄がこちらを見る。私は床を見ている。
「俺の部屋の火は、三日、しゅうしゅう言っていた」
私は笑ってしまった。笑ってから、しまった、と思う。けれど兄は怒らない。
(兄が、自分で自分を笑いました。……これは、ちょっとだけ、推せます)竈の火が、ぱちりと言う。
◆ ジュリアン
さっき、妹は俺の足音で手を止めた。雑巾を握った手が白くなっていくのを見て、俺はそれ以上近づけなかった。
椀は、水を二度替えて洗ったつもりだった。縁に麦が残っていたのは、妹にも見えたはずだ。妹は、それには触れなかった。
俺は竈のそばに座っている。床を磨いている妹の背中を見ている。
王都の回廊で何百回も目にした背中だ。頭を低くして、雑巾を滑らせている。俺はその背中を、靴の裏で何度も蹴った。蹴りながら、見たことは一度もなかった。
「お前、なんで、お兄さまと呼ぶ」
妹の手が止まった。今度は白くならなかった。
「お兄さま、ですから」
「一度も、呼ばなかった」
「呼ばせていただけませんでした。呼んだら、蹴られると思っていましたから。実際、名前を呼んだだけで蹴られたことも、ありましたし」
そうだ。呼ばせなかった。俺のほうは、ドブネズミと呼び、お飾りと呼び、無能と呼んだ。セラフィーナという名前を、まともに呼んだことがない。
「峠で、お前は俺を、お兄さまと呼んだ」
「はい」
「あのとき俺は、氷竜がお前を踏みにじったと宣言するはずだった。侯爵の前で。三千八百人の前で」
「はい。知っていました」
「知っていて、呼んだのか」
妹は雑巾を桶に戻す。それから床に座ったままこちらを向いて、言った。
「帳面に、お兄さまの名前を書きました。峠の前の夜に。帳面に書いた人の隣には、いなければいけないんです。それが、私が帳面をつけている理由なので」
「帳面」
「私が、この城で覚えた人の名前です。二百十六人」
それから、前掛けのポケットから三冊の帳面を出した。革表紙のものと、炭焼きの記録帳の裏側と、厨房の帳面の切れ端だ。
「見せろ」
妹は少しだけ迷う。それから、いちばん新しい帳面を開いて床に置き、近づかずに俺のほうへ滑らせた。
名前が炭でびっしりと書いてある。
フリッツ。六歳。山羊の名前を全部言える。
ベルタ。八十三歳。「死ぬなら、城の中がいい」と言った。
ハインツ。二十六歳。殿下の靴を脱がせた人。
殿下の靴とは、俺の靴のことだ。
指でページをめくる。
リリ。生まれたばかり。氷竜辺境伯城で、二百十三人目。
その下に、もう一行ある。
ジュリアン。二十歳。私の兄。
俺は、その字を指でなぞった。炭が、指の腹についた。
その下は空白だった。俺はその空白を見ていた。
「ほかの連中には、何か書いてある。山羊の名前だの、靴だの」
「はい」
「俺のところには、それしかない」
「はい」
「なぜだ」
妹は床を見て言う。
「書くことが、まだないからです。嘘は書きたくないので」
俺は帳面を閉じた。閉じてから、自分の手が震えているのに気づいた。
そのとき、厨房の戸口に影が立った。氷竜だった。
氷竜は、俺を見て、床に座っている妹を見て、それから俺の手の中の帳面を見る。
俺は、帳面を、自分の足もとの床に置いた。氷竜はそれを見ている。
妹が、口の中で小さく言った。
「……推しが、現場に」
推し、が何かは知らない。現場、と言うからには何かあったのかと、俺は厨房を見回した。誰も倒れていない。
「閣下。兄が、帳面を見たいと言ったので」
「そうか」
氷竜はそれだけ言って、厨房に入ってきた。竈のところまで歩いて火を見ると、薪を一本くべた。そのまま出ていかなかった。竈のほうを向いて立ち、俺たちに背を向けたまま、同じ部屋にいる。
この男は、俺を妹と二人きりにさせない気だ。当たり前だ。俺がこの男の立場でも、同じことをする。
妹の目が、その背中に吸いついている。王都の回廊で、侍女たちが俺を見ていたのと同じ目だ。……いや、あれより、ずっとひどい。
「書くな」
「え?」
「まだ、書くな。薪を組んで、椀を洗って、それだけだ。……山羊の名前を全部言える六歳に、負けている」
「負け、ですか」
「負けだ。だから、まだ書くな」
妹は俺を見る。
顔は、峠でも見た。だが、目の形までは見ていなかった。王都の十年、俺に見えていたのは、床に伏せた頭のてっぺんだけだった。
瞳の色は違う。だが、目の形が俺と同じだった。目尻の切れ方も、睫毛の影の落ち方も。
妹という言葉は、何度も使ってきた。王家の持ち物を数えるときの言葉として。同じ血が流れているとは、考えなかった。
その目が、伏せられずに、俺の次の言葉を待っている。
俺は、先に目をそらした。竈の火を見た。
妹は、小さく頷いた。
「はい。書きません。お兄さまが、いい、と言うまで」
俺は薪を一本つかんで、竈にくべた。氷竜が足したばかりだった。氷竜は、振り返らなかった。
◆ セラ
兄は帳面を床に置いたまま、竈の火を見ている。
私はそれを拾わなかった。まだ兄の手の届くところに置いておくべきだと思った。
長いあいだ、二人とも何も言わない。竈の中で薪がはぜる。厨房の窓の外で、山羊が一度鳴く。
「七つのときだ」
兄が火を見たまま言う。
「お前が測定器の前に立ったのは」
「はい」
「俺は十だった。広間の隅で見ていた。母上に、見ておきなさいと言われて」
私は雑巾を握る。広間の隅の小さな影を、私は覚えている。あのとき兄は笑っていなかった。怯えた顔で針を見ていた。
「針が動かなかった。大司祭が五度、測り直した。俺は数えていた。一度、二度、三度。五度目のとき、思った。俺も、いつか、あの針の前に立つのか、と」
兄は膝の上で手を組んだ。右手の指先が、炭で黒い。拭いた跡はなかった。
「その夜、母上が俺の部屋に来た。四枚目の鏡を入れた日だ。母上は言った。『あなたは、あの子とは違う。あなたの目に映るべきものは、あなた自身だけ。あの子を見てはいけない。見れば、あなたも、あの子と同じになる』と」
雑巾の水が、指のあいだから床に落ちた。
「だから、見なかった。見ないために、蹴った。見ないために、笑った。お飾りと呼べば、見なくて済んだ。お前の顔に、針の前に立つ俺の顔を見なくて済んだ。蹴っている間は、俺は、お前じゃなかった」
兄はそこで言葉を切った。火がことりと崩れた。
「……言い訳だ」
「はい」
私は言う。
「言い訳です」
兄がこちらを見る。私は目を逸らさない。
「言い訳だと思います。蹴られた側からすれば、お兄さまが何を怖がっていようと、痛いものは痛かったので。でも、聞きました。ちゃんと聞きました。十年で初めて、お兄さまが、私に何かを話してくださったので」
兄は床の帳面に目を落とす。
「お前は、なぜ、蹴られて笑っていられた」
「笑ってはいませんでした」
「いや。笑っていた。床に転がって、数を数えて。あの顔を、俺は知っている。あれは、笑っている顔だ」
私は少し考えてから、正直に答える。
「お兄さまの蹴りの、踏み込みが良かったので」
兄が目を見開いた。
「溜めも、腰の入り方も、つま先への体重のかけ方も。剣術の稽古はさぼってばかりだと聞いていたのに、人を蹴ることには、ずいぶん熱心に鍛錬を積んでいらっしゃるんだなあ、と。そう考えていると、少し、痛みがましになったんです」
「……お前」
「額を床につけて、五つ数えるあいだに、採点していました。十点満点で、だいたい七点でした」
「採点していたのか」
「腰が引けていらした日は、五点です。お疲れだったのかと」
「疲れてはいない!」
(ツッコミの声量、八点です)
言ってから、兄は口を開けたまま固まった。それから、両手で顔を覆った。
「お前は」
指の隙間から声が漏れる。
「お前は、本当に、変な女だ。十年前から、ずっと」
「はい。よく言われます。神さまにも」
(推しには、まだ言われていません。……言われたら、それはそれで、ご褒美です)
兄は顔を覆ったまま、肩を揺らした。笑っているのか、そうでないのか、わからなかった。




