第67話 十年、王は窓から娘の小屋を見ていた
窓の外に、杉林がある。
十年、余はそれを見ていた。謁見の間の玉座から。南の庭の向こう、黒い杉が何百本も立っている、その奥を。
誰も、余が何を見ているのか訊かなかった。王が窓の外を見ていれば、それは政を思っている顔になる。宮廷とはそういう場所だ。
あの女の手は、細かった。
踊り子の手だ。広場で見かけて、それで終わりのはずだった。終わらなかった。終わらせなかったことを、余は弱さと呼んだ。あの女は、二度目の冬、王城の西の端の部屋で、余の手を握って死んだ。
最後に、名を呼んだ。娘の名を。余がつけたのではない。あの女が、腹の中の子に決めていた名だ。足首の鈴が、一度だけ鳴った。余は、その名を記録簿に自分で書いた。王として自分の手で書いたものなど、後にも先にも、それしかない。
七つの冬、王妃が書類を差し出した。余は読まずに印を押した。読めば、押せなくなる。押さなければ、王妃と教会と宮廷が、余の弱さをもう一度並べて見せる。余は、それに耐える男ではなかった。
その日から、余は杉林を見ている。娘を見るかわりに、娘のいる場所を。
見ていると、わかることがある。
日の暮れる頃、厨房のほうから、大きな男が杉林へ入っていく。腕に、小さな包み。戻ってくるときには、畳んだ麻布だけを、脇に挟んでいる。毎晩。雨の日も、雪の日も。十年。
名は、訊かなかった。訊けば、知ったことになる。ただ一度だけ、財務官に、厨房の帳簿は王妃の目に触れさせるな、と言った。理由は、言っておらぬ。ベンノは、訊かぬ男だ。
それが、余が十年でしたことのすべてだ。窓の外を見ることと、帳簿を一冊、隠すこと。
今朝、初めて杉林に入った。
小屋の土間は、磨いてあった。誰に見せるあてもない土間が、黒く光るまで。
余は敷居の外に立って、中に入れなかった。入る資格がない、というのは大司祭の言葉だ。余のは、もっと単純だ。入れば、十年、余が窓から見ていたものが、床の高さになる。
窓枠に、麦が一粒、残っていた。鳩に、やっていたのだろう。
余は、それを拾った。拾って、どうするつもりもない。
花の匂いがした気がした。
気のせいだ、と余は言う。ずっと、余はそう言って生きてきたのだ。
だが、戸口から離れなかった。離れられなかった。
杉林を戻る途中で、一度だけ、振り返った。あの男が、毎晩、そうしていたように。
窓の外には、杉林がある。
明日も、余はそれを見るだろう。
ただ、今日からは、何を見ているのか、余が知っている。




