第66話 閣下の贈り物を、私は断った
◆ セラ
雪の上に、茶色いところが出てきた。
中庭の、日の当たる隅。朝のうちは凍っていて、昼を過ぎるとゆるむ。ゆるんだところを踏むと、靴の中まで、じわりと冷たくなる。
私の靴は、王都から履いてきたものだ。十年のあいだに二度、底を自分で縫い直した。三度目は、まだしていない。つま先の縫い目が、少し口を開けている。
雪のあいだは、よかった。雪は乾いている。ゆるんだ雪は、そうはいかない。
それでも、困ってはいなかった。冷たいのには、慣れている。
その日の夕方、執務室にスープを運ぶと、机の上に、帳簿ではないものが載っていた。
長靴だった。
焦げ茶の革。膝の下まである。底は厚く、縫い目は細かい。履き口に、灰色の毛皮が縫いつけてある。新しい革の匂いがする。
「履け」
閣下は、帳簿から顔を上げずに言う。
「……私の、ですか」
「セラのだ」
盆を持ったまま、動けなかった。
宝物は、これまでにいくつかもらった。岩塩のかけら。絹の布。紙片。膏薬の壺。どれも小さくて、麻袋の底に入るものだった。
これは、入らない。
それに、きれいすぎる。
「閣下。これは、兵士さんの分に回していただけませんか。見回りの方は、雪解けの峠を歩きます。私は、城の中の床ですから」
「兵の分は、別にある」
「では、村の子どもたちに。まだ、藁を足に巻いて歩いている子がいます」
「セラ」
閣下が、顔を上げる。
「セラに、と言った」
「はい。ありがとうございます。でも」
でも、の先を、私は知っていた。ずっと、言い慣れた言葉だった。
「私には、もったいないです」
閣下は、何も言わない。
長いあいだ私を見て、それから、机の上の長靴に目を落とす。
「……そうか」
帳簿に戻る。ペンを取る。書かない。
「スープは、そこに置いていけ」
「はい」
盆を置く。長靴には、触らなかった。
扉を閉めるとき、振り返る。閣下はペンを持ったまま、窓の外を見ている。
王都の謁見の間で見た、父と同じ顔だった。
厨房の片づけが終わる頃、ギルバートさまが、執務室の盆を下げてくる。
椀のスープは、少しも減っていなかった。
ギルバートさまは、何も言わずに盆を置いて、出ていく。私の顔も、見なかった。
マルタさんが椀を見て、それから、私を見る。
「断ったね」
訊いたのではなかった。
マルタさんは、杓子で鍋の縁を、かん、と叩く。
「あんたね。あの眼鏡の堅物に、椀を最初に取らせたのは、どこの誰の口だい」
言葉が、出なかった。
「人には受け取れって言っといて、自分は、もったいないです、かい」
「私は、ただ、もっと要る人が」
「もったいない、ってのはね」
マルタさんは、私を見ない。鍋を見ている。
「くれた人の目利きを、疑う言葉だよ。あんたにはこれが似合うと思って選んだ人の目を、あんたが、はたいたんだ」
竈の火が、ぱちりと鳴る。
マルタさんに叱られたのは、この城に来て、初めてだった。
その夜、西棟の部屋で、帳面を開く。
(神さま)
返事は、なかった。
百合の香りも、しなかった。
いつもなら、ここで何か言ってくださる。あの子はな、と。さあのう、と。
今夜は、なにも。
帳面をめくる。ギルバートさまの名前の下に、昨日、私が書いた一行がある。
――椀を、受け取った。
書いたのは、私だった。
帳面を閉じても、その一行は、閉じてくれなかった。
帳面を膝に置いたまま、長いあいだ、床に座っていた。
石の床は、なぜか、冷たくなかった。




