↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
お飾り聖女は、三行で消えるはずの花嫁でした ~生贄として嫁いだ氷の辺境伯は、前世の最推しです~  作者: 真白のあ
第六章 峠

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
78/110

第65話 「入れ、ギル」



◆ ギルバート




 閣下の私室に、入ったことがない。


 これまで、扉の外までは行った。盆を置く。書類を置く。声をかける。中に入るのは、火急のときだけ。あの夜、あの窪みを見た夜も、扉は薄く開いていただけで、私は敷居をまたがなかった。


 今夜、閣下に呼ばれた。


 扉を開けると、窓のそばの床に、窪みが二つ。手のひらほどの深さで、艶やかに磨かれている。長いあいだ、誰かがそこにだけ膝をついてきた跡だ。


 私は、敷居のところで、止まる。


「入れ」

「……ここで、よろしいかと」

「入れ、ギル」


 眼鏡の奥で、まばたきを忘れた。


 その名を最後に呼ばれたのは、十二の冬だ。乳母だった私の母が、南の商人と再縁して城を出る朝。一緒に来るか、と母に訊かれた。私は、残ると答えた。母は城門で、最後に私を「ギル」と呼んで、それきり、誰も、その名を使わなかった。閣下も。


 私は、窪みを踏まないように、二歩、入る。


 閣下は、卓の上の椀を、私のほうへ押す。


 スープだ。まだ、湯気が立っている。


「――お食事中でしたか。失礼いたしました」

「お前のだ」

「私は」

「明日でも、明後日でもいい。だが、今夜は、これを食え」


 私は、椀を見る。


 自分の椀を、最後に取る。ずっと、そうしてきた。厨房でも、兵の卓でも。誰かの分が足りなくなったとき、足りないのは、私の分だと決めていた。決めていた、というより、それしか、考えたことがなかった。


「マルタから、聞いた」


 閣下が、言う。


「お前が、ずっと最後に取っていたと」

「業務の順番です」

「業務ではない」


 閣下は、窓のほうを見る。窪みの向こうの、北東の尾根を。


「私も、そうしていた。食事も、薪も、毛布も。最後に取る、あるいは、取らない。それが、正しいと思っていた」

「閣下は」

「間違っていた、と、あの娘に言われた。私は、それを、ようやく信じた。お前にも、言う」


 閣下は、椀を、もう一度、私のほうへ押す。


「村に薪を配ったのは、正しい犠牲だった。あの薪は、誰かの竈で、今も燃えている。だが、自分の部屋の薪を一本に削ったのは、犠牲ではなかった。ただの罰だ。誰も、温めていなかった」

「……閣下」

「お前の椀も、同じだ。兵に配るのは、正しい。だが、自分の椀を最後にしても、お前が冷えるだけだ。それは、忠義ではない」


 私は、手を、伸ばす。


 指が、椀の縁で、止まった。


 持ち上がらなかった。


 腕は、動く。指も、動く。ただ、椀の重さの分だけ、持ち上がらない。理由が、わからない。これまで、これより重いものを、いくつも持ってきたはずだった。


 閣下が、私の両手の上に、自分の手を重ねた。


 押さえるのではなく、支えるように。


「持てないときは、持たなくていい。今夜は、私が持たせる」


 閣下の手が、私の指ごと、椀を持ち上げる。


 唇に、触れた。


 飲んだ。


 喉が、震えた。声より先に、喉が。


 私は、椀を、卓に置く。


 そして、床に、膝をついた。


 窓のそばの、あの窪みの、すぐ隣に。


 誰にも、命じられていない。自分で、膝をついた。


「ギルバート」

「……母が、南へ行くとき」


 声が、掠れる。


「一緒に来るか、と訊かれました。私は、残ると答えました。閣下のために、と、ずっと自分に言い聞かせてきました」


 床の木目が、ひとつ、眼鏡の縁でゆがんで見えた。


「……正直に申し上げます。私は、母についていって、誰にも必要とされない自分になるのが、怖かったのです。閣下の後ろに立っていれば、必要とされる。忠誠は、あとから、つけた名です」

「知っている」

「閣下」

「知っていた。それでも、九年、お前は、私の後ろにいた。理由が何であれ、いた。それは、事実だ」


 私は、床に、両手をついた。


 誰にも見せなかった顔を、床に、伏せた。


 窓の外で、風が鳴る。


 ほんの一瞬、胸の奥が、竈の前に座ったときのように温かくなった。理由は、わからなかった。


 閣下は、何も言わない。ただ、私の背に、一度、手を置いた。


「私も、償いだと思っていたものが、恐れだったと知ったのは、今年になってからだ」

「閣下も」

「お前だけではない」


 それきり、二人とも、何も言わなかった。


 窓の外の尾根が、月の光で白い。


 私は、床に、膝をついたまま、しばらく、動かない。


 今夜は、動かなくてよかった。


「閣下。ひとつ、伺ってもよろしいですか」

「言え」

「なぜ、私を、この部屋に」


 閣下は、しばらく、答えない。


「この部屋に、誰も入れなかった。あの娘が、初めて入った。二番目は、お前がいい、と思った」


 それだけだった。


 理由としては、短すぎる。けれど、この人らしい短さだった。


「……ありがとうございます」

「礼を言うことではない」


 閣下は、窓に、目を戻す。


「明日から、お前の椀は、最初に出させる。マルタに、そう言っておいた」

「――閣下」

「命令だ」


 命令には、従う。ずっと、そうしてきた。


 今夜の命令は、私のための命令だった。




◆ マルタ




 あの堅物が、椀を最初に取った。


 朝の厨房で、兵が二十人、長卓についている。閣下も。お姫さんも。いつもなら、あの眼鏡は、二十二人が椀を持ってから、最後に、いちばん薄いところをよそう。ずっと、そうだった。あたしは、それを見てた。


 今朝は、最初だった。


 閣下に言われたと、それだけは聞いている。眼鏡は、鍋の前に立って、杓子を持って、動かなくなる。


 三つ、数えた。


「よそいな」


 あたしが言ったら、よそった。手が、震えてた。


「あんたの母さんはね」


 あたしは、鍋をかき回しながら言う。眼鏡にだけ届く声で。


「乳が出すぎて、坊ちゃんとあんたと、二人いっぺんに抱えて吸わせてた。片方ずつ順番に、なんてやってたら、もう片方が泣くからって。順番なんてもんは、あの女は、最初から作らなかったんだよ」


 眼鏡は、何も言わなかった。


 椀を持って、卓のいちばん端に、座る。閣下の隣ではない。お姫さんの隣でもない。端だ。いつもの席だ。


 それでも、最初に、食った。


 あたしは、その椀に、塩をひとつまみ多く入れてある。あの子は気づく。気づいて、何も言わない。それでいい。四十年、あたしの厨房から出るものに、あたしが塩を決める。




◆ セラ




 その日の夕方、ギルバートさまが、兵の子どもの擦り傷に、膏薬を分けているのを見た。


 自分の手にも、小さな傷がある。荷を運んで、指の付け根が切れていた。いつもなら、気づかないふりをして、そのまま残りを人に渡す人だ。


 今日は、先に、自分の傷に塗った。それから、残りを子どもに渡す。


 順番が、逆になっていた。


(神さま)

『うむ』

(ギルバートさまが、変わりました)

『変わったのではない。ずっと閉めておった戸を、ひとつ、開けただけじゃ』

(戸、ですか)

『あの若者はな、誰にも、何も渡させなかった。渡す一方でいれば、借りを数えんで済む。それで、きれいでいられると思うておった』

(それは、悪いことなんでしょうか)

『悪いとは言わん。わしはな、あの若者に渡したいものを、ずっと持っておる。昔から、ずっとじゃ』

(それなのに)

『渡す手は、いつも開いておった。受け取る手は、一度も開かなんだ。閉じた手にはな、わしが差し出しても、何も乗らん』


 私は、閣下の私室の、あの窪みを思い出す。


 閣下も、同じだった。人に渡すばかりで、誰からも受け取らずに、長いあいだ。


『あの若者は昨夜、あの子から椀を渡されて、それを、飲んだ。受け取る手を、開いたのじゃ。椀ひとつのことじゃが、手を開くことのほうが、ずっと難しい』


 私は、帳面を開く。


 ギルバートさまの名前の下に、一行、書き足す。


 椀を、受け取った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。