第65話 「入れ、ギル」
◆ ギルバート
閣下の私室に、入ったことがない。
これまで、扉の外までは行った。盆を置く。書類を置く。声をかける。中に入るのは、火急のときだけ。あの夜、あの窪みを見た夜も、扉は薄く開いていただけで、私は敷居をまたがなかった。
今夜、閣下に呼ばれた。
扉を開けると、窓のそばの床に、窪みが二つ。手のひらほどの深さで、艶やかに磨かれている。長いあいだ、誰かがそこにだけ膝をついてきた跡だ。
私は、敷居のところで、止まる。
「入れ」
「……ここで、よろしいかと」
「入れ、ギル」
眼鏡の奥で、まばたきを忘れた。
その名を最後に呼ばれたのは、十二の冬だ。乳母だった私の母が、南の商人と再縁して城を出る朝。一緒に来るか、と母に訊かれた。私は、残ると答えた。母は城門で、最後に私を「ギル」と呼んで、それきり、誰も、その名を使わなかった。閣下も。
私は、窪みを踏まないように、二歩、入る。
閣下は、卓の上の椀を、私のほうへ押す。
スープだ。まだ、湯気が立っている。
「――お食事中でしたか。失礼いたしました」
「お前のだ」
「私は」
「明日でも、明後日でもいい。だが、今夜は、これを食え」
私は、椀を見る。
自分の椀を、最後に取る。ずっと、そうしてきた。厨房でも、兵の卓でも。誰かの分が足りなくなったとき、足りないのは、私の分だと決めていた。決めていた、というより、それしか、考えたことがなかった。
「マルタから、聞いた」
閣下が、言う。
「お前が、ずっと最後に取っていたと」
「業務の順番です」
「業務ではない」
閣下は、窓のほうを見る。窪みの向こうの、北東の尾根を。
「私も、そうしていた。食事も、薪も、毛布も。最後に取る、あるいは、取らない。それが、正しいと思っていた」
「閣下は」
「間違っていた、と、あの娘に言われた。私は、それを、ようやく信じた。お前にも、言う」
閣下は、椀を、もう一度、私のほうへ押す。
「村に薪を配ったのは、正しい犠牲だった。あの薪は、誰かの竈で、今も燃えている。だが、自分の部屋の薪を一本に削ったのは、犠牲ではなかった。ただの罰だ。誰も、温めていなかった」
「……閣下」
「お前の椀も、同じだ。兵に配るのは、正しい。だが、自分の椀を最後にしても、お前が冷えるだけだ。それは、忠義ではない」
私は、手を、伸ばす。
指が、椀の縁で、止まった。
持ち上がらなかった。
腕は、動く。指も、動く。ただ、椀の重さの分だけ、持ち上がらない。理由が、わからない。これまで、これより重いものを、いくつも持ってきたはずだった。
閣下が、私の両手の上に、自分の手を重ねた。
押さえるのではなく、支えるように。
「持てないときは、持たなくていい。今夜は、私が持たせる」
閣下の手が、私の指ごと、椀を持ち上げる。
唇に、触れた。
飲んだ。
喉が、震えた。声より先に、喉が。
私は、椀を、卓に置く。
そして、床に、膝をついた。
窓のそばの、あの窪みの、すぐ隣に。
誰にも、命じられていない。自分で、膝をついた。
「ギルバート」
「……母が、南へ行くとき」
声が、掠れる。
「一緒に来るか、と訊かれました。私は、残ると答えました。閣下のために、と、ずっと自分に言い聞かせてきました」
床の木目が、ひとつ、眼鏡の縁でゆがんで見えた。
「……正直に申し上げます。私は、母についていって、誰にも必要とされない自分になるのが、怖かったのです。閣下の後ろに立っていれば、必要とされる。忠誠は、あとから、つけた名です」
「知っている」
「閣下」
「知っていた。それでも、九年、お前は、私の後ろにいた。理由が何であれ、いた。それは、事実だ」
私は、床に、両手をついた。
誰にも見せなかった顔を、床に、伏せた。
窓の外で、風が鳴る。
ほんの一瞬、胸の奥が、竈の前に座ったときのように温かくなった。理由は、わからなかった。
閣下は、何も言わない。ただ、私の背に、一度、手を置いた。
「私も、償いだと思っていたものが、恐れだったと知ったのは、今年になってからだ」
「閣下も」
「お前だけではない」
それきり、二人とも、何も言わなかった。
窓の外の尾根が、月の光で白い。
私は、床に、膝をついたまま、しばらく、動かない。
今夜は、動かなくてよかった。
「閣下。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「言え」
「なぜ、私を、この部屋に」
閣下は、しばらく、答えない。
「この部屋に、誰も入れなかった。あの娘が、初めて入った。二番目は、お前がいい、と思った」
それだけだった。
理由としては、短すぎる。けれど、この人らしい短さだった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
閣下は、窓に、目を戻す。
「明日から、お前の椀は、最初に出させる。マルタに、そう言っておいた」
「――閣下」
「命令だ」
命令には、従う。ずっと、そうしてきた。
今夜の命令は、私のための命令だった。
◆ マルタ
あの堅物が、椀を最初に取った。
朝の厨房で、兵が二十人、長卓についている。閣下も。お姫さんも。いつもなら、あの眼鏡は、二十二人が椀を持ってから、最後に、いちばん薄いところをよそう。ずっと、そうだった。あたしは、それを見てた。
今朝は、最初だった。
閣下に言われたと、それだけは聞いている。眼鏡は、鍋の前に立って、杓子を持って、動かなくなる。
三つ、数えた。
「よそいな」
あたしが言ったら、よそった。手が、震えてた。
「あんたの母さんはね」
あたしは、鍋をかき回しながら言う。眼鏡にだけ届く声で。
「乳が出すぎて、坊ちゃんとあんたと、二人いっぺんに抱えて吸わせてた。片方ずつ順番に、なんてやってたら、もう片方が泣くからって。順番なんてもんは、あの女は、最初から作らなかったんだよ」
眼鏡は、何も言わなかった。
椀を持って、卓のいちばん端に、座る。閣下の隣ではない。お姫さんの隣でもない。端だ。いつもの席だ。
それでも、最初に、食った。
あたしは、その椀に、塩をひとつまみ多く入れてある。あの子は気づく。気づいて、何も言わない。それでいい。四十年、あたしの厨房から出るものに、あたしが塩を決める。
◆ セラ
その日の夕方、ギルバートさまが、兵の子どもの擦り傷に、膏薬を分けているのを見た。
自分の手にも、小さな傷がある。荷を運んで、指の付け根が切れていた。いつもなら、気づかないふりをして、そのまま残りを人に渡す人だ。
今日は、先に、自分の傷に塗った。それから、残りを子どもに渡す。
順番が、逆になっていた。
(神さま)
『うむ』
(ギルバートさまが、変わりました)
『変わったのではない。ずっと閉めておった戸を、ひとつ、開けただけじゃ』
(戸、ですか)
『あの若者はな、誰にも、何も渡させなかった。渡す一方でいれば、借りを数えんで済む。それで、きれいでいられると思うておった』
(それは、悪いことなんでしょうか)
『悪いとは言わん。わしはな、あの若者に渡したいものを、ずっと持っておる。昔から、ずっとじゃ』
(それなのに)
『渡す手は、いつも開いておった。受け取る手は、一度も開かなんだ。閉じた手にはな、わしが差し出しても、何も乗らん』
私は、閣下の私室の、あの窪みを思い出す。
閣下も、同じだった。人に渡すばかりで、誰からも受け取らずに、長いあいだ。
『あの若者は昨夜、あの子から椀を渡されて、それを、飲んだ。受け取る手を、開いたのじゃ。椀ひとつのことじゃが、手を開くことのほうが、ずっと難しい』
私は、帳面を開く。
ギルバートさまの名前の下に、一行、書き足す。
椀を、受け取った。




