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お飾り聖女は、三行で消えるはずの花嫁でした ~生贄として嫁いだ氷の辺境伯は、前世の最推しです~  作者: 真白のあ
第六章 峠

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第64話 氷竜の名を、まだ誰も呼べない


◆ ギルバート


 閣下は、十日間、「訊きたいこと」を訊いていない。


 私はそれを知っている。閣下の執務の帳簿の余白に、十日間、何かが書かれては消され、書かれては消されているからだ。今朝など、余白が炭で真っ黒になっていた。


 私の帳簿の余白も、この冬は忙しい。


 昨日、奥様が「今日も閣下のビジュがいい」と仰せになった。三度目だ。前の二度は、翌日が晴れた。今朝は、曇っている。符牒は、二度までしか当たらないらしい。


 それから今朝、兵舎の棚に、閣下の左の手袋が祀られていた。供物は干し林檎一つと、木の匙一本。奥様は先月、「閣下の祭壇を設けたい」と仰せになり、私はそれを却下した。兵舎は、却下を聞いていなかったらしい。洗濯場のエルザたちが、奥様から「布教」を受けたのだという。教義は「閣下は尊い」の一条のみ。手袋は、私が下ろした。閣下には、まだ申し上げていない。


「ギルバート」


 十一日目の朝、閣下が帳簿から顔を上げた。


「セラに名を呼ばせるには、どうすればいい」


 眼鏡が、鼻先まで、ずり落ちた。


「閣下。それは、その、どういう状況を想定したご質問でしょうか」

「セラは、私を『閣下』と呼ぶ。峠で、帰ってから訊くと言ったのは、それだ。だが、訊けば、あれは『はい』と言って、それからまた『閣下』と呼ぶ。そういう娘だ」


 ひどく真面目な顔だった。


 人さし指で、眼鏡を押し上げる。レンズに、指の跡がついた。


「……僭越ながら、閣下」

「何だ」

「私は、最初の日から『ギルバートさま』でございますが」


 閣下が、私を見た。執務室の寒さが、確かに一段、増した。


「……グラウは、『グラウ』だ」

「はい。存じております」

「オットーも、ルッツも、ヘルマンも」

「はい。皆、名で呼ばれております」

「……私だけか」

「左様でございます」


 閣下は帳簿に目を落とした。余白の炭の跡を、指でひとつ、なぞる。


 少し、言いすぎたかもしれない。乳兄弟として生きてきて、一度もしなかったことを、私は今朝、二つした。閣下をからかうことと、それを少しだけ楽しむことだ。


「閣下。その前に、ひとつだけ伺ってもよろしいでしょうか」

「言え」

「殿下のことです。閣下は、殿下を、許しておられますか」


 閣下は、帳簿を閉じた。


「許していない。あれは、セラの胸にスープをかけて、笑った。それを十日で許せるほど、私は出来ていない」

「はい」

「だが、門は開けておく。同じ椀を出す。薪を渡す。締め出さないことと、許すことは、別だ。あの冬、この城は、村人を締め出した。私はもう、誰も締め出さん」


 窓の外で、軒の雪が、ひとかたまり落ちた。


「許すのは、時間がかかる」


 私は、うなずいた。


「でしたら、閣下は、もうご存じです。人の心は、命じられて動くものではございません。命じて呼ばせた名は、名ではなく、点呼です」


 閣下の眉が寄った。


「それに、私も、閣下のお名前を一度も口にしたことがございません。乳兄弟でありながら、閣下、閣下、閣下、と。ですから、方法は、存じません」


 閣下は、私を見ていた。


「ヴィルフリート、と、呼んでみろ」

「は」

「お前が、先に呼べ。九年分だ。それができれば、方法がわかる」


 口を開ける。


 声が、出ない。


「……ヴィ」


 そこで、喉が閉まった。


 閣下は、笑わなかった。


「時間は、ある」


 そう言って、執務室を出ていく。


 私はひとり残されて、帳簿を開いた。今日の欄の余白に、ペン先を置く。


 ――ヴィ。


 そこまで書いて、ペンを置いた。閣下の余白ほどではないが、私の余白も、しばらくは白くならないだろう。


◆ セラ


 十一日目の夜、礼拝堂で床を磨いていると、閣下が入ってきて、いちばん前の長椅子に腰を下ろした。


 百合は六枚の花弁をすっかり開いている。祭壇の脇で、白く、静かに。閣下はそれを眺めてから、私の背中に向かって言う。


「お前は、私を何と呼ぶ」


 雑巾を絞る手が、止まった。


「閣下、と。お呼びしています、けれど」

「それだ」


 閣下は百合から目を離さない。


「私には、名がある。お前は帳面に書いた。炭で、羊皮紙にも書いた。だが、一度も声に出して呼ばない。峠で『帰ってから訊く』と言ったのは、それだ」


 雑巾をおけの縁にかけて、水面を見る。


(神さま)

『うむ』

(これ、原作にはありません)

『じゃろうな。あの本の作者は、わしではないでのう』

(原作の閣下は、最終巻まで、誰にも名前を呼ばせませんでした。ギルバートさまにも。私、呼んでいいんでしょうか。というより、呼べるでしょうか。心の中では何千回も呼んだんです。でも、声に出したことは一度も)

『それは、わしは決めん。お主が決めることじゃ。じゃが、あの子は今、お主の返事を待って、耳を赤くしておるぞ』


 私は、閣下の隣に座った。


「……ヴィ」


 声が、掠れる。


「……ヴィル……」


 顔が熱くなった。氷竜辺境伯の名を、床磨きの娘が声に出す。物語の中で、誰にも呼ばせなかった名前を。


「……ヴィル、フ……」

「……そこまでか」


 閣下は、笑わない。


「ギルバートは、『ヴィ』までだった」


 私は、目を見開いた。


「ギルバートさまも?」

「今朝、呼ばせた。『ヴィ』で、黙った。お前のほうが、二文字多い」


(神さま。ギルバートさまは、ずっと、いちばん近くにいたのに、ヴィ、までなんですね)

『後ろに立ち続けるのもな、高いところじゃよ。誰にも見えん高さ、というのがある。……あの若者は今朝、一段、降りた』


 私は両手で顔を覆う。笑いがこみ上げてくる。


 指のあいだから、一粒、膝の上の前掛けに落ちた。マルタさんにもらった前掛けだ。笑っているのに、どうして濡れるのか、わからない。


「閣下。私、ちゃんと呼べるようになるまで、少し時間がかかります。たぶん、ずいぶん」

「知っている」


 閣下は、百合を見たまま言う。


「私も、お前を『お前』と呼ぶのをやめるまで、時間がかかる。二十五年、誰のことも、そう呼んできた。ギルバートも、ハンスも、マルタも。いきなり変わると、あの婆さんに気味悪がられる」

「はい」


 私は、迷ってから、言った。


「閣下。私の母は、踊り子だったんです。身重になっても踊っていて、私はお腹の中で、鈴の音に合わせて蹴っていたそうです」

「聞いている。お前が、馬の上で言った」

「続きが、あるんです」


 誰にも話したことのない、続きだった。


「拍子が、いつも少しだけ遅れて。母は、私を、のろまさん、と呼んでいたそうです。それで、自分の拍子を遅らせて踊った。私が追いつけるように」


 閣下は、しばらく黙っている。


「私は、名前を呼ぶのも、遅いです。ヴィ、までしか言えません。たぶん、ずいぶん遅れます」

「なら、待つ」


 閣下は、こちらを見ずに言った。


「朝を待たないと決めて、九年生きてきた男が、お前を待つ。それくらいの拍子なら、私にも遅らせられる」


 閣下の手が、長椅子の上で私の手を探した。


「――時間があるということを、私はこの冬、初めて知った。私の時間は、あの冬で止まっていたからな」


 百合の香りが、礼拝堂に、ふわりと満ちる。胸の奥で。


『ゆっくりで、ええ』


 それだけ、だった。


 私は、閣下の手を握り返す。


「ヴィ」

「……それで、いい」


 それきり、閣下は何も言わなかった。


 ただ、長椅子の上で、肩が、少しだけ私のほうへ傾いた。この長椅子で初めて眠った夜と、同じ傾き方で。


    *


 十二日目の朝、帳面を開く。


 二百十六人の名前。その中の、兄の名前の下に何か書こうとして、炭が止まる。


 書くことが、まだない。


 火を起こせるようになった、とは書けない。三度目についただけだ。夜中に起きた、とは書けない。一度だけで、その前の朝は、ヒルデに怒鳴っている。スープを食べた、とは書けない。二粒、残っていた。アンナさんのパンを食べた、とは書けない。食べたのか、捨てたのか、誰も見ていない。


 炭を置いた。


(神さま。兄の名前の下に、書くことがありません)

『それでよい』


 静かな声だ。


『書くことがない、というのはな、まだ書きかけということじゃ。わしがあの子について覚えておることも、まだ途中じゃよ』

(ディルクさんは、兄は変わらないと言っていました。エルザさんは、兄が嫌いだと。マルタさんは、許していないと。アンナさんも)

『うむ。皆、正直じゃ。正直な者は、わしは好きじゃよ』

(その人たちは、変わらないんでしょうか)

『さあのう』


 笑っていらっしゃる。


『エルザは、何をした』

(灰汁の壺の場所を、教えました)

『マルタは』

(塩を、ひとつまみ)

『アンナは』

(パンを、一つ)

『四人とも、あの子を許しておらん。それは本当じゃ。じゃが、三人は、許さんままで、何かひとつ、した』


 私は、帳面の兄の名前を見た。


(許してから、何かをするんじゃ、ないんですね)

『順番が、逆じゃ。何かをしながら、何年もかけて、許していく』

(ディルクさんは)

『まだ、何もしておらん。それも、あの男の自由じゃ。わしは、あの男の隣にも座っておる』

(兄は)

『このあいだ、真夜中に起きて、薪を足した』

(その前の朝は、ヒルデに怒鳴りました)

『両方、本当じゃ。片方だけ見て、変わったと言うても、変わらんと言うても、嘘になる』

(じゃあ、何と言えば)

『今朝、あの子の部屋の火は、まだ燃えておる。それだけを、言え』

(明日、落ちたら)

『また組む。わしは、そうやって覚えていく。一日ずつな』


 私は、帳面を閉じる。


 礼拝堂の祭壇の脇で、百合が朝の光の中に白く立っていた。その隣に、いつの間にか、二つ目の蕾が小さくついていた。


 期限の三ヶ月まで、あと十二日。


 けれどこの城には、もう、期限のある人は誰もいなかった。


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