第63話 誰もいない小屋の戸口で、王はセラフィーナと呼んだ
◆ 一人目の王
二十年、眠れた。竈の薪は、三本のままだ。息子のレオポルトが王になる前の晩、わたしは谷の部屋のことを話した。冠が戸口につかえたこと。床に座っておられる方のこと。帳面と、三本の薪のこと。
息子は最後まで黙って聞いた。それから、わたしを見た。
「父上には、十一年の戦があります。だから一度頭を下げても、誰も軽んじない。私にはない。私が下げれば、戦を知らぬ王が下げた、と見られます」
「その先の話をしておる」
「聞きました、父上。……去年、南の国の使いが来たとき、父上の竈を見て何と言ったか、ご存じですか」
「知らぬ」
「北の王は、炭焼きと同じ火で暮らしている。国の大きさが知れる、と。私は、あの使いに笑われない王になります」
本気で国を考えた顔だった。
わたしはそれ以上言わなんだ。あの低い戸口をくぐるのは、誰かに押された膝ではない。自分の膝だ。息子の冠は、わたしのより重かった。翌年、息子は都を南へ移した。平野は麦が二度採れるのだから、間違いではない。南の都には金を貼った大聖堂が建った。王の広間には、暖炉が二つ。
わたしは北の古い城に残った。
*
三年目の冬、谷の若い長が北の城へ訪ねてきた。南の都へ行ってきたのだという。あの裸足の長の、末の息子だ。
「新しい王さまに、薪の約束は続くかと訊きました。谷には金を送る、薪はそれで買え、と」
若い長は懐から金貨の袋を出して、わたしの前に置いた。
「父がしていたように、四十一の名も読み上げようとしたんです。王さまに毎年聞いていただいていた、あの名を。……新しい王さまは、名は要らぬ、金をやるからそれでよい、と」
わたしは金貨の袋を見ておった。名は要らぬ。谷は、わたしのものだ。それでよい。
三十五年前、冠を外す前のわたしが、この若者の父に言うた言葉だ。
「持って帰れ。それは、谷のものだ。名は、わたしが聞く」
若い長は袋を握ったまま、長いあいだ下を向いておった。同じ冬、南から若い神官が来た。娘が生きておるうちに描かせた絵を抱えておった。絵の中の娘の髪は、夜明け前の空の色のままだ。
「南の大聖堂の壁に、大きく描き直します。民が仰ぎ見られるように。ただ――髪が、地味でございます。これでは民が拝みにくい。壁には、金で」
「塗るな。あの色が、本当だ」
「はい」
はい、と言うた神官の目は、わたしが死んだあとを見ておった。
「この絵は、どうなる」
「地下の書庫に、大切に保管いたします」
本当の色は、地下に沈む。わたしにはそれが見えておった。見えておって、止める手を持たなんだ。娘はわたしより先に行った。谷へ帰って炭焼きの男と一緒になり、同じ髪の色の娘を産み、ある冬の初めに「あたたかい」と言うて笑うて、行った。
あの帳面は、娘の娘に預けてある。炉の上の棚だ。都はいつか、これを要らぬと言う。だから谷に置いた。
*
最後の冬が来た。年寄りは、自分の冬がわかる。谷へ行った。娘の娘が棚から帳面を下ろして、わたしの膝に置いた。四十一の名を、ひとつずつ読んだ。
「王さま。わたしは、子に、あの戸口へ行けとは言いません」
「なぜ」
「王さまは、誰かに言われて冠を外したのではないでしょう。つかえたから、外した。子も、そうでなければ」
わたしは頷いた。
「でも、寝る前の歌は、毎晩歌っています。三節までわたしが歌って、最後の一節だけは、母に教わったとおり、わたしではない誰かの声で。子は意味を知りません。それでいいんです。いつか眠れない夜に、自分で思い出せば」
わたしは茶を飲んだ。それで、足りた。坑道の入口まで行って、立った。膝がもう四つん這いにならぬ。あの戸口は、遠かった。
――行かんでよい。お主の膝の下の床は、どこにおっても、あの部屋の床と同じ高さじゃ。
城へ帰った。
冬のいちばん深い夜の、夜明け前。広間の床に膝をついた。竈には三本の薪。谷の炭焼きがくれた灰色の犬が、わたしの背に体を押しつけておる。
四十一の名を、言うた。ひとつも、欠けておらぬ。床に額をつけて、母の歌を三節まで歌うた。
――誰か、来るか。
――来る。じゃが、お主はもう、待たんでよい。隣におる。
四節目は、歌わなんだ。
床が、歌うた。
犬が、わたしの手を、一度だけ舐めた。
* * *
◆ 王都 杉林の小屋
三百年が、過ぎた。
南の都の大聖堂の裏手、杉林の奥に、屋根の傾いた物置小屋がある。その戸口に、白髪の多い疲れた顔の男が立っていた。この国のいまの王だ。冠は、私室に置いてきた。
中は暗い。土間の隅に畳んだ毛布。壁の隙間に詰めた麻布。そして土間のいちばん光の当たる場所だけが、きれいに磨かれていた。誰に見せるあてもない床が。
娘が北へ発ってから、ここへ来る者はいない。男は戸口に立ったまま入れなかった。敷居の向こうへ、足が出ない。
「……セラフィーナ」
十七年、口にしなかった名だった。杉の枝から雪が落ちた。湿った杉の匂いの中に、一瞬、白い花の香りがした。男は気のせいだと思った。思ったけれど、戸口からは離れなかった。
『この子の、ずうっと昔の祖父はな。北で、冠を外した』
床の高さから、誰にも聞こえない声がした。
『この男は、戸口までは来た。今日は、それでよい。わしは、待つのが得意じゃ』
◆ 王都 厨房
その夜も、料理長のバルトはパンの端を三つ、麻布に包んだ。棚の奥にしまう。もう七日分たまっている。硬くなったものから豚の餌に回している。それでも毎晩、包む。
厨房の裏口で、足音がした。振り返ると、国王だった。厨房に国王が来たことは、二十年で一度もない。
「陛下」
国王は竈の前に立って、しばらく火を見ていた。それから言った。
「あの子は、何を食べていた」
バルトは考えてから、正直に答えた。
「大聖堂の厨房の残り物を。分けてもらえる日は」
「もらえない日は」
バルトは棚の奥の包みを見た。
「硬くなったパンの端を、三つ。本当なら、豚に回すような端っこです」
「誰が、持っていった」
バルトは答えなかった。国王も、訊かなかった。棚の奥の包みをひとつ手に取り、麻布をほどいて、硬いパンの端を口に入れた。
長いあいだ、噛んでいた。
「……塩が、足りん」
そう言って、国王は厨房を出ていった。バルトは竈の前に立ちつくしていた。翌朝、パンの生地に塩をひとつまみ多く入れた。どうしてなのか、自分でもわからなかった。




