第62話 レンズは汚れていない
◆ セラ
峠から戻って十日目の午後、私は東棟の書庫の床を磨きに入った。机に、ギルバートさまがいた。峠の報告書を書いているところで、ペンが紙の上で動かずにいた。
「失礼しました。あとにします」
「いえ。ちょうど、王女に伺いたいことがありました」
ギルバートさまは報告書を私のほうへ向けた。きれいな、几帳面な字が並んでいる。三千五百人。帝国軍の旗の数。雪の深さ。その中の、一行。
王女の前に立った者、ギルバート・フォン・アルスター。閣下の命による。閣下の命による、の上に、一本、線が引いてあった。
「峠のことは、ほとんど書けました。一行だけ、書けないところがあります」
ギルバートさまは線の引かれた字を見ている。私ではなく。
「私がなぜ、貴女の前に立ったか。閣下の命令だった、と書けば済みます。九年、ずっとそう書いてきました。今回もそう書くつもりでした」
ペン先は線の上から動かない。
「書けませんでした。嘘になるので」
書庫の窓の外で、屋根の雪が落ちる音がした。雑巾を持つ手が、冷たいのか熱いのか、わからなくなった。
嘘になる。
閣下の命令ではなかったのなら、何だったのか。ギルバートさまはそれを言わない。言わないまま、線の引かれた一行をじっと見ている。
それで、わかってしまった。
「……ギルバートさま」
「ご安心ください」
ギルバートさまはやっと私の顔を見た。琥珀色の目は、いつもと同じに落ち着いていた。
「これ以上は、書きません。言いもしません。閣下にも、貴女にも。ひとつだけ、お願いがあります」
「はい」
「貴女の前に立つ役目を、これからも、私に続けさせてください。それだけです」
はい、と言えば、この人はこの先ずっと言わないまま私の前に立つ。いいえ、と言えば、この人の立つ場所がなくなる。
どちらも、言えなかった。
「王女。私が何かを言いかけては、やめていたのを、数えていらしたでしょう」
「……八回まで、数えました」
「十一回です」
ギルバートさまは眼鏡を外した。
「今のが、十二回目です。言いかけて、やめずに言いました。もう、十三回目はありません」
胸もとから手巾を出して、レンズを拭く。ていねいに。
「閣下のスープが、冷めます。お行きください」
私は頭を下げて、書庫を出た。
扉を閉める前に、振り返る。
ギルバートさまはまだレンズを拭いていた。報告書の一行は、線を引かれたままその横にあった。廊下を歩きながら、雑巾をぎゅっと握った。好きだと言われたわけではない。何も、言われていない。
それなのに、雑巾を握る指が、まだ開かない。
『のう、セラ』
(……はい)
『あの若者はな、答えがほしくて言うたのではない。持っておれんようになったから、置いていっただけじゃ』
(私、何も返せません)
『返さんでよい。受け取って、そのまま持っておれ』
廊下の窓に、雪が当たる。
『あの若者は、これからも、あの背中とお主の前に立つ。言わなんだことも、言うたことも、両方わしは覚えておる』
私は雑巾を握りなおした。
(……語彙力が、消失しました。……スープ。閣下のスープ)
それから、厨房へ閣下のスープを取りにいった。
◆ ギルバート
眼鏡を拭くとき、私はレンズを見ない。見れば、汚れていないことがわかってしまう。わかってしまえば、拭く理由がなくなる。理由がなくなれば手が止まる。手が止まれば、顔が空く。
だから見ない。
九年、閣下の後ろに立ってきた。後ろに立つ者は、前を見なくていい。前は閣下が見る。私は閣下が見ていないものを見る。帳簿の数字。兵の顔色。薪の本数。閣下が今夜も眠らなかったこと。閣下が膏薬を、自分の手にしか使わないこと。
それで足りていた。足りていると、思っていた。あの日の雪道を、今でもそのまま思い出せる。私は馬の上にいる。娘は泥まみれで荷馬車の後ろから、鳩に麦をやっている。風が吹いて布が肩に落ちて、髪が出る。
手袋の指が、髪についた雪を払おうとして、触れる手前で引いた。夜明け前の空の色、と北の者は言う。私はそういう言い方を好まない。だから正確に言う。灰紫。この地方で吹雪の来ない朝にだけ出る色。峠を見てきた者なら、誰でも知っている色。
私は口を開けた。
閉じた。
何を言おうとしたのか、自分でも正確にはわからない。それは業務上の言葉ではない。そこだけはわかった。だから閉じた。私の口は、業務上の言葉を言うためにある。
あとで思い返して指を折ったら、それが一度目だった。
十一度、開けて、閉じた。
娘は八度まで数えていたそうだ。残りの三度は、娘の見ていないところで開けた。井戸の脇で。書庫の扉の前で。厨房の裏で、娘が閣下の外套の襟を握って白い息を吐いているのを、遠くから見たとき。
十二度目は、開けて、言った。
言ったのは、報告書の一行と、これから何をするかだけだ。閣下の命による。九年、そう書いてきた。今回だけ書けなかった。嘘は、業務上、書けない。だから線を引いた。それは業務だ。
「貴女の前に立つ役目を、続けたい」。それも、業務だ。だから言えた。
その先は、書いていない。書けば、業務ではなくなる。線を引いた下書きだけが、書庫の机のいちばん下の引き出しに入っている。
閣下は私の乳兄弟だ。
同じ乳で育った。同じ冬に同じ雪道を、同じ薪を背負って歩いた。あの朝、閣下が門の前で「私が勝手にやったことにしろ」と言ったとき、私は大麦の袋を抱えてその後ろにいた。あの朝からずっと、そこにいる。閣下の後ろは、私の席だ。
その閣下が、九年ぶりに眠った。礼拝堂の長椅子で、あの娘の肩に頭を預けて。私は毛布を抱えて、扉を開けた。見て、掛けて、扉を閉めた。音を立てずに。
ずっと、私が欲しかったのは、それだった。閣下が眠ること。それが、あの娘の肩の上で起こった。だから、足りている。足りていると、私は決めた。決めることは業務だ。業務は、私の仕事だ。
娘が私に礼を言うことがある。
薪のこと。火傷を冷やす水のこと。私は毎度、同じ言葉で答える。私が勝手にやったことです。
この城の合言葉だ、と娘には言った。正確な事実でもある。誰にも命じられていない。閣下にも。
今日の夕方、書庫の扉の前で、娘に呼び止められた。
「ギルバートさま」
灰色の毛織りを、肩に掛けていた。先代の奥方さま、閣下の亡き母君の布だ。西棟の衣装部屋の奥で二十年眠っていたのを、私が出して渡した。仕立て直せば貴女の丈に合うでしょう、と言って。
丈は合っていた。裾が、娘の膝の下で揺れている。母君が掛けておられたころと同じ長さで。
「これ、ありがとうございました」
いつもの言葉を返せばいい。九年、言い慣れた言葉だ。
「私が、勝手に――」
そこで、止まった。
止まったのは、喉の奥だった。娘は待っていた。菫色の目で、急かさずに。
「……よく、お似合いです」
業務上の言葉では、なかった。
娘は笑って、「はい」と言った。それから、灰色の裾を揺らして、閣下の執務室のほうへ歩いていった。
角を曲がるまで、見ていた。
執務室の扉が開いて、閉まる音がした。それまで、聞いていた。
あの布を選んだのは、私だ。
閣下の母君の布なら、閣下の隣に立つ人の肩にあるのが正しい。そう思って、選んだ。
正しいことを、した。
今夜、帳簿を閉じる前に、薪の欄を見た。
西棟の小部屋。五本。
先週まで、四本だった。誰が増やしたのか、帳簿には書いてある。私の字で。
眼鏡を外して、拭いた。
レンズは汚れていない。見なくても、知っている。
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同じシリーズで、新しいお話の連載を始めました。
『婚約破棄された夜、文通相手の書記さんが宰相閣下だと知りました』
婚約を破棄された帳簿係の娘と、顔も知らない文通相手の書記さんのお話です。
ギルバートの銀縁の眼鏡は、どこから来たのか。ノアくんのおじいさんも、小さな男の子の姿で出てきます。
閑話では、ギルバートとノアくんにも会えます。
シリーズ一覧から読めますので、よろしければ覗いてみてください。




