第61話 王子は、燃える藁を素手でつかんだ
◆ セラ
兄が下働きのヒルデに怒鳴ったという話は、その日の昼には城じゅうに広まっていた。
「ほらな」
厨房の戸口で、弓兵のディルクさんがハインツさんに言っている。
「変わらねえって言っただろ。三日火を組んだくらいで、二十年が消えるかよ」
ハインツさんは薪の束を抱えたまま、考えてから答える。
「まあ、そうっすね。変わってねえ。今朝の殿下は、王都の殿下だった。俺もあの声、三年聞いてたから、わかる」
「だろ」
「ただ、ひとつだけ違ったのは」
ハインツさんは薪を積み直す。
「途中で口を閉じたって、ヒルデが言ってた。王都の殿下は閉じなかった。最後まで言った。違いは、そこっす。その違いで、俺はまだ見てる」
ディルクさんは鼻を鳴らして行ってしまう。
(兄の解釈が、二派に割れています。変わる派と、変わらない派。解釈違いは、争わずに見守るのがマナーです)
私はヒルデのところへ行った。洗濯場の裏で桶を抱えたまま、まだ動けずにいる。十六の子だ。私が城に来たころ、洗濯場でいちばん最初に「聖女さま」と呼んでくれた子。
「ヒルデ。怖かったですね」
「はい。すみません、聖女さま。あたしが、ちゃんと下がってれば」
「いいえ。ヒルデは、何も悪くありません。廊下は、みんなのものです」
私はヒルデの隣に座る。
「私もあの声を十年聞きました。体が先に覚えてしまうんです。ヒルデのせいじゃありません」
ヒルデは桶を抱えたまま、こくんと頷く。
「聖女さま。あの人、変わったって、みんな言ってたのに」
「はい」
「変わってなかった」
「はい。今朝は、変わっていませんでした」
私は正直に言う。
「でも、途中で口を閉じたと聞きました。私は、そこを見ていようと思います」
その夜、私はスープの椀を持って、兄の部屋の扉を叩いた。
「お兄さま。スープです」
返事はない。火の音もしない。冷えた部屋の静かな気配だけが、扉の隙間から伝わってくる。椀を扉の前に置いて、迷ってから、扉に向かって言った。
「ヒルデは大丈夫です。あの子、下がるのが遅かったのは自分のせいだって言っています。違うと、私は言いました」
扉の向こうで、何かが動いた気がした。
返事は、ない。
『セラや』
西棟に戻る廊下で、神さまがおっしゃった。
『今日のことをな、お主は、後戻りだと思っておるか』
(……少しだけ、思っています)
『わしは、思わん』
神さまの声は、いつもと同じ高さだった。
『途中で、口を閉じた。今は、火のない部屋で、自分を嫌っておる』
(自分を嫌うのも、ですか)
『うむ。鏡の中におった頃は、できなんだことじゃ。嫌えるのは、鏡の外に出たからじゃ』
(痛そうです)
『痛い』
廊下の窓の外で、雪が音もなく降っている。
『明日、そこから出てくるかどうかは、あの子が決める。わしは、扉の外におる。お主の椀の隣じゃ』
◆ ジュリアン
翌朝、椀は扉の前にあった。冷めて膜が張っている。食べた。冷めたスープは、まずい。それでも食べた。
薪小屋へ行く。ハインツが黙って、乾いた薪をひと抱え渡してくる。俺も何も言わない。戻る途中の回廊で、昨日の娘とすれ違った。
娘は壁際に寄って、頭を下げる。桶を抱える手に、力が入っている。
俺は足を止めた。
何か言うべきだと思った。何を言えばいいのかは、わからない。「すまなかった」という言葉は、頭の中にはある。喉まで来ない。口に、その形がない。
代わりに、出てきたのは、これだった。
「……昨日の靴は、乾いた」
娘が顔を上げる。
「は、はい」
「それだけだ」
薪を抱えて、歩き出す。
自分でも、何を言ったのかわからない。謝罪ではない。ただ、昨日の水はもう乾いた、という報告だ。けれど娘は俺の背中に小さな声で言った。
「……よかったです」
部屋に戻って、火を組む。細いのから。ついてから、太いのを。
一度で、ついた。
ぱちぱちと鳴る火の前で手を温める。
その夜、真夜中に、寒くて目が覚めた。暖炉の火が小さくなっている。起き上がって、いちばん太い薪を奥に押しこむ。火がまた大きくなる。
それで、終わりのはずだった。
鼻の奥に、別の匂いが来た。
薪の煙ではない。もっと乾いて、もっと甘い。藁の焦げる匂いだ。扉を開ける。回廊の先、大広間のほうから、細い煙が床を這ってくる。
大広間には藁が敷いてある。二百人が、その上で眠っている。
気づいたら、裸足で回廊を走っていた。
大広間の大きな暖炉の前。熾火が一つ爆ぜて飛んだのだろう。敷き藁の端が黒く焦げて、赤い点が三つ四つ広がっている。
そのすぐ先で、子どもが一人眠っていた。知っている顔だった。回廊で「あれ、おれの村の麦だった」と言った子だ。
叫ぼうとした。
声が出ない。王都の声なら、いくらでも出るのに。誰を呼べばいいのか、わからない。二百人の誰の名前も、俺は知らない。
知っている名は、数えるほどしかない。ハインツ。トビアス。それから、妹。
どれも、この広間にはいない。
俺は膝をついた。
燃えている藁を、手で掴んだ。
熱い、と思ったのは、掴んだあとだった。掴んだまま暖炉へ投げこむ。もう一つ。もう一つ。手のひらで赤い点を押しつぶす。藁の上を、膝で這って。
大広間の床に、這いつくばっている。妹が、泥水の中で、そうしていたように。
最後の赤い点が、消えた。
煙の匂いだけが、残っている。
子どもが薄く目を開けた。
「……だれ」
「寝ていろ」
子どもは目をこすって、また閉じた。夢だと思ったのだろう。膝をついたまま、自分の手を見た。手のひらが赤く、ところどころ白くふくれている。
痛い。
痛い、と思って、思い出した。王都の回廊で最後に靴の裏でねじった手のことを。妹の右手を。部屋に戻って、裂いたシャツで手を巻いた。
誰も、見ていない。
朝まで眠れなかった。手のひらが、ずっと脈を打っていた。
◆ アンナ
次の朝、ルーカスが、変な夢を見たと言う。
「あの人が、大広間にいた。夜中に。おれの頭のとこで、這ってた。髪が、火で、ぴかぴかしてた」
「夢だよ」
そう言って、あたしは大広間の床を掃きにいく。暖炉の前の敷き藁が、ひとところ黒く焦げていた。焦げた藁の上に、膝をついたような跡が二つ。ルーカスの寝床のすぐ手前だった。
夢じゃなかった。
あたしは焦げた藁を掃き集めて、竈に放りこんだ。残りの敷き藁は、暖炉から一歩下げた。井戸端で言いふらす話じゃない。言うなら、本人にだ。
その日の昼、あたしはあの男の部屋の前に立った。手には焼きたての黒パンをひとつ。オットーは「やめとけ」と言った。マルタさんは黙っている。エルザは「好きにしな」と言った。ルーカスは、あたしの前掛けを握ってついてくる。
扉を、叩く。
「――霜降り村の、アンナだ。オットーの女房で、ルーカスの母親だ。開けなくてもいい。聞いてくれれば」
扉の向こうで、火の音がする。乾いた薪の、ぱちぱちという音。
「ゆうべ、大広間の火を消したのは、あんただろ。ルーカスの寝床の、すぐ手前だった。藁に、膝の跡が残ってたよ」
前掛けを握るルーカスの手に、力がこもった。
「母親として、礼を言う。ありがとう。礼は、礼だ」
息をひとつ吸った。
「あんたが大広間でぶちまけた麦は、うちの村の麦だ。去年の秋に、あたしと亭主と、村の連中で刈った。ルーカスも、束を運んだ」
扉の向こうで、火が、ぱちりと鳴った。
「あれを見て、あたしは、あんたを許してない。今も、許してない。これから許すかどうかも、わからない」
扉は、開かない。
「ただね。あんたが今食べてるスープの大麦も、うちの村の麦だ。それから、このパンも」
あたしはパンを扉の前の床に置く。
「ぶちまけた麦と、食べてる麦が、同じ畑のものだってことは、教えといたほうがいいと思った。許すのとは、別の話だ」
ルーカスの手を引いて廊下を戻る途中で、ルーカスが言った。
「母ちゃん。あれ、夢じゃなかったの」
「夢じゃないよ。でも、あんたとあたしだけの話にしときな。あの人は、誰にも見られないようにやったんだから」
「……うん」
歩きながら、ルーカスは、もうひとつ訊いた。
「母ちゃん。あの人、食べるかな」
「知らないよ。食べるも食べないも、あの人が決めることだ」
「食べたら、ちょっとは、許す?」
あたしは考える。
「食べたら、次のパンを焼くかどうか、考える。許すのは、もっとずっと先の話だよ。あたしはね、あんたの父ちゃんが自分を許すのに九年かかったのを見てきたんだ」
翌朝、扉の前のパンは、なくなっていた。あたしは次のパンを焼くかどうか、考えている。
まだ、決めていない。
◆ ジュリアン
その夜、扉の前にパンがあった。黒くて硬い。王都の厨房なら、下働きでも手をつけない色のパンだ。拾い上げると、思っていたより重い。巻いた布の下で、手のひらがずきずきと鳴った。
――ゆうべ、大広間の火を消したのは、あんただろ。
――ぶちまけた麦と、食べてる麦が、同じ畑のものだってことは、教えといたほうがいいと思った。
昼に扉ごしに聞いた声が、まだ耳に残っている。誰も、見ていないと思っていた。礼なら、王都で毎日言われた。何もしていない日にも。
したことに礼を言われたのは、初めてだった。大広間の床に麦が散った音を、思い出す。妹が一粒ずつ拾っていた指を。北の兵たちが膝をついて拾っていた背中を。
その麦を、俺は、床にぶちまけた。
パンを、ちぎる。口に入れる。
噛む。麦の味がする。かすかに、甘い。噛むほど、甘くなる。
飲みこむのに、時間がかかった。
喉が詰まっていたからだ。
残りを全部食べる。床に落ちたくずも、一つずつ指で拾った。




