第60話 王子は、火のつけ方を知らなかった
◆ ジュリアン
六日目に、部屋を出た。
理由は、たいしてない。暖炉の薪が切れて、誰も足しに来なかったからだ。王都なら鈴を鳴らせば誰かが来る。ここには鈴がない。三日目に、やっと気づいた。
扉の外には、毎晩椀とパンの端が置かれる。パンの端だけは食べた。硬くて塩気がなくて、王都なら豚に回すような端っこだ。誰も見ていないから食べた。椀には手をつけない。あの女の作ったものなど、誰が食べるか。
四日目に、自分で薪を足そうとして太いのをいきなり載せ、火を消した。その夜は寒くて、毛布にくるまったまま扉のほうをずっと見ていた。匂いがする。麦と蕪と塩の匂い。
食べた。腹が減っていたからだ。食べながら、これを運んできたのが誰なのかを思った。俺が十年、靴の裏で踏んでいた妹が、毎晩この扉の前まで来て、椀を置いて帰っていく。
椀を、扉の前に戻す。洗わない。洗い方を、知らない。廊下に出たのは、薪小屋を探すためだった。
回廊の角で、山羊にぶつかる。
「邪魔だ、退け」
言ってから、気づいた。山羊に向かって言っている。山羊は退かない。こちらを見て口を動かしている。俺は山羊の脇を、自分で通った。
その先で、子どもが一人、こちらを見ていた。九つか十くらいの男の子だ。
「何だ」
男の子は答えない。じっと見ている。やがて、言った。
「あんた、大広間で、麦をぶちまけた人?」
足が、動かなくなる。
「そうだ」
「あれ、おれの村の麦だった。霜降り村の。おれの父ちゃんと母ちゃんが、去年の秋に刈ったやつ」
男の子はそう言って、走っていく。俺はその場に立っていた。回廊の壁に鏡はない。今の自分がどんな顔をしているのか、わからないまま、薪小屋へ歩いた。
薪小屋では、ハインツが斧で薪を割っていた。俺を見て、手を休める。
「殿下。薪ですか」
「薪を、くれ」
ハインツは割りかけの薪を脇によけ、小屋の奥の、去年から積んである黒っぽい山から、ひと抱えを俺の腕に載せた。
「殿下、割りたてのは駄目です。水を吸ってて、煙ばっかり出て燃えねえ。こっちの、去年割って乾かしたやつを。一晩もたせるなら、これでも足りねえくらいですぜ。夕方、もういっぺん取りに来てください」
思っていたより重い。薪の束を抱え直す。
「熾火の上に、細いのから組んで、火がついてから太いのを載せる。いきなり太いのを載せると、消えます。昨日、消えたでしょう」
「知っている」
知らなかった。
ハインツは黙って斧を取り上げた。俺は両腕いっぱいの薪を抱えて、廊下で二度落として二度拾って、部屋に戻った。
火は、二度、消えた。
三度目に、ついた。
◆ トビアス
殿下が薪小屋に来るようになった。毎朝。ハインツさんに乾いた薪をひと抱えもらって、部屋に戻る。それだけ。誰とも口をきかない。夕方にはもうひと抱え取りに来る。一晩分にはそれでもまだ足りないらしくて、朝はいつも火が落ちている。
おれは殿下が怖い。
大広間で聖女さまの胸にスープをかけて、椀を床に落とした人だ。あの音を、おれはまだ覚えてる。
「トビアス。あの人は王都で、誰にも薪の組み方を教わらなかったんだ」
薪小屋の前で、オットー叔父さんが言う。斧を振り下ろす合間に。
「なんで、そんなことがわかるの」
「ハインツが言ってた。二度消して、三度目でやっとついたって。うちのルーカスなんか、九つで、一度で組むのにな」
叔父さんは斧を下ろして、息をつく。
「あの人は二十年、火を組んでもらう側だったんだ」
叔父さんが、おれの顔を見た。
「あの人がお前を怖がらせたのは、本当だ。忘れなくていい。ただな、二十になるまで火のつけ方を教わらなかった人でもある」
その隣で弓兵のディルクが、砥石で矢じりを研ぎながら鼻で笑う。
「オットーのおっさんは、人がよすぎるんだよ。あの手合いは変わらねえ。王族ってのはな、生まれたときから頭の中に鏡が入ってんだ。ちょっと火を組んだくらいで何が変わる。峠で妹を庇ったのだって、旗色が悪いと見て寝返っただけだろ」
「かもしれんな」
叔父さんは否定しない。
「かもしれん。俺にはわからん。だから、見てる」
ディルクは矢じりを陽に透かして、黙って研ぎ直した。叔父さんは斧を薪に立てかけて、大広間のほうを顎で示す。
「それより、トビアス。大広間の敷き藁、暖炉に寄せすぎだ。夜は皆、暖かいほうへ寄っていく。藁も一緒に寄る。明日、一歩下げとけ」
「うん」
おれはうなずいた。
その夜、おれは殿下の部屋の前を通った。扉の下から、煙の匂いがする。火が消えかけている匂い。湿った薪が、しゅうしゅう言っている音も。
おれは通り過ぎた。三歩歩いて、引き返した。扉を叩いた。
「何だ」
「薪。組み直したほうがいい。消えかけてる。しゅうしゅう言ってる」
扉が開いて、殿下が立っている。金髪はぼさぼさで、王都の人には見えない。それなのに顔だけは腹が立つほど整っていた。睫毛が長い。目の形が、聖女さまと同じだ。
おれは目を逸らした。
「お前は」
「トビアス。聖女さまに、凍えた手を、握ってもらった」
殿下はおれの手を見た。指に残った、凍傷の跡を。そして、扉をもう少し開ける。
「……組め」
おれは部屋に入って、熾火の上に薪を組み直した。細いのを先に。ついたら太いのを、こう。空気の通る隙間を、こう。夜中に足すぶんは、暖炉の脇の手の届くところに積んでおく。
「朝まで持たせるなら、寝る前にいちばん太いのを二本、奥に入れとく。それでも一回は起きて足さないと、消える。叔父さんは、いつも真夜中に一度起きる」
殿下は後ろで黙って見ている。
火が、ついた。乾いた薪の、ぱちぱちという音。
「明日も、来るのか」
殿下が訊く。
おれは考えて、言った。
「来ない。自分で、組んで」
殿下は、怒りもしなかった。
部屋を出て廊下を戻りながら、おれは自分の手を見た。聖女さまに、握ってもらった手。
今夜、殿下の火を組んだ手。
大広間の藁のことは、すっかり忘れていた。
◆ ジュリアン
八日目の朝、火は落ちている。
トビアスの言った通りに、太いのを二本、奥に入れて寝た。真夜中に起きるつもりで。
起きなかった。
目を覚ますと、窓が明るくて、暖炉は灰だけだ。
「……くそ」
寒い。腹が立つ。誰に腹が立っているのか、自分でもわからない。トビアスにか。ハインツにか。真夜中に起きられなかった自分にか。
薪小屋へ行こうとして、廊下に出る。回廊の途中で、下働きの娘が一人、水の入った桶を運んでいた。十六くらいの痩せた娘だ。俺と目が合って壁際に寄る。
桶が、俺の膝に当たった。
水が革の靴にかかる。
「――何をしている!」
声が出た。王都で出してきた声。体が、それを覚えている。
「見えないのか、目の前が! 下がっていろと言われなかったのか、王族が通るときは!」
娘の顔が、白くなっていく。
桶を抱えたままその場に崩れるように膝をついて、頭を下げる。桶を持つ手が細かく揺れている。妹が大聖堂の回廊で、泥水の中に頬をつけていた姿と同じだ。息を止めて頭を低くして、次に来るものを待っている。
俺の口は、まだ開いている。次の言葉が喉に用意されている。「ドブネズミ」「無能」――そういう言葉が、何年分もそこに積んであった。
閉じた。
何も言わずに、娘の脇を通り過ぎる。薪小屋には行かない。部屋に戻って扉を閉めて、冷えた暖炉の前に座った。
「くそ」
さっきと同じ言葉。腹の立つ相手だけが、はっきりした。
自分だ。
峠で母上に逆らった。兵に名前を訊いた。火を組んだ。妹の椀を食べた。そんなものは、何の役にも立たなかった。娘が桶をぶつけただけで、王都の声が喉から勝手に出てくる。
その日、俺は部屋から出なかった。薪小屋にも行かない。夕方、ハインツが薪を持ってきて扉の前に置いていく音がする。取りに出なかった。
火のない部屋で、毛布にくるまって、壁を見ている。
鏡は、ない。
それでも、自分の顔が、見えた気がした。扉の下の隙間から、廊下の冷えた空気が入ってくる。その中に白い花の匂いが混じっていた。峠の天幕で嗅いだのと同じ匂いだった。
見には、行かなかった。
扉の鍵は、掛けなかった。
――――
読んでくださって、ありがとうございます。
「……組め」
次回、火のつかない部屋に、燃える藁を持った人が来ます。
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