第59話 閣下は峠で、求婚したことになっていた
◆ セラ
峠から戻って、三日が経った。城に着いた日、閣下は城門の内側で、ようやく私の手を離した。そのとき門番のカールさんが、直立不動のまま雪の上に槍を落とす。オットーさんがそれを拾って、無言でカールさんに返す。
ルッツは薪小屋の前で、斧を持ったまま、口を開けて立っている。その夜から、城じゅうが、その話をしている。朝、井戸端で聞いた話では、閣下は峠で私の手を取った。昼、洗濯場で聞いた話では、閣下は峠で私を抱き上げた。
夕方、厨房で山羊の乳を搾りながらアンナさんが聞いてきた話では、閣下は峠で三千五百人の前で、片膝をついて求婚したことになっていた。
「してません」
「膝は、ついたんだろ」
「……隣に、ついてくださいました」
「手は」
「……握りました」
「なら、だいたい合ってるじゃないか」
推しに三千五百人の前で、求婚されたことになっている。前世の私が聞いたら、布団から転げ落ちる。今世の私は、山羊の前で、転げ落ちそうなのをこらえている。アンナさんは、山羊の乳を搾る手を止めない。
七つの村の人たちは、まだ城にいる。雪がゆるむまで、あとひと月はかかる。大広間には藁が敷きつめられたままで、夜になると、山羊と鶏と二百人の寝息が城じゅうの石壁を温めている。朝、回廊を歩くと、山羊の匂いと焼きたてのパンの匂いがいっしょに流れてくる。
大広間の暖炉には今、薪が十二本組んである。九年、五本の城だった。執務室の暖炉の前には、椅子が二脚になっていた。暖炉にいちばん近いほうに、私は毎晩、スープが冷めるまで座っている。もう一脚に、ギルバートさまはまだ座らない。
峠から戻った夜、執務室で、ギルバートさまの帳簿が開いたまま机に置いてある。見るつもりはなかった。けれど、いちばん新しい行が目に入る。銀貨、十八枚。閣下の取り分より。パヴェル殿の年季証文、買い戻し。
その横の、返済の欄だけが、空いていた。
「書き忘れですか」
ギルバートさまは黙って帳簿を閉じる。眼鏡を押し上げただけだった。パヴェルさんは、侯爵の金の像を担いでいた人だ。自分では自分を買い戻せなかった人。
その人の借りを、閣下が、黙って払った。閉じた帳簿の革の表紙を見ながら、私は、礼拝堂で聞いた『わしが払うた』を思い出していた。
「……推し変は、しません」
口から出ていた。ギルバートさまが、閉じたばかりの帳簿をもう一度開いて、余白に一行書き足した。
兄は客室にいる。侯爵が使っていた広い部屋ではなく、その隣の、もっと小さな部屋。暖炉はあるし、薪も積んである。けれど兄は三日間、その部屋から一歩も出てこなかった。
王家の軍は、峠の翌日に王都へ帰った。五百人のうち、四百九十六人が。残った四人は、ハインツさんと、その仲間。
「殿下が、帰らねえって言うんですよ」
城門の脇で、ハインツさんは革の帽子を脱いで鼻の頭を掻きながら言った。二十六、七の、日焼けした顔の人だ。
「そんで、俺たちはもう、給金も二月出てねえし、王都に帰ったところでまた借用証を一枚握らされて、はい解散、ってのがオチでしょう。だったらここで薪でも割らせてもらったほうが、まだ腹がふくれる。いや、その、聖女さまのパンが目当てってわけじゃなくて。いや、ちょっとはあるんですが」
「どうして、殿下のそばに残ろうと思ったんですか」
私が訊くと、ハインツさんは帽子を両手でくるくる回して、少し考える。
「俺、王都の南の村の出でしてね。三年前に借金のかたに兵隊に取られて、それからずっと、殿下の護衛の末席にいたんです」
帽子が、手の中で一回転する。
「三年。殿下は、俺の顔を見たこともなかった。俺だけじゃなくて五百人、誰の顔も。それが峠の吹雪の夜に、いきなり『お前、名前は』って訊いてきた。三年で初めてですよ。貴族に名前を訊かれたことなんて、生まれてこのかたねえ」
ハインツさんは帽子をかぶり直す。
「まあ、それだけっす。ただ、あの人がこの先どうなるのか、ちょっと見ておきたくなった。それだけです」
オットーさんはそのやりとりを聞きながら、何も言わずに四人の顔を順番に眺めている。それから、顎で鍛冶場の裏を示す。
「薪小屋は、あっちだ。斧は三本ある」
そう言って、先に歩き出す。四人は顔を見合わせてから、ぞろぞろとその背中についていった。その夜、私は兄の部屋の前にスープの椀を置いた。扉を叩く。
「お兄さま。スープです。大麦と蕪の、冷めないうちに、召し上がってください」
返事はない。扉の向こうで、火がしゅうしゅうと鳴っている。湿った薪の音。誰も組み直していないのだ。
椀を扉の前の床に置く。隣に、パンの端を一つ。料理長さんが十年、私の戸口に置いてくれたのと同じ硬い端っこを。それから、西棟へ戻った。
翌朝、椀はそのままそこにある。スープは冷めきって、表面に薄い膜。パンの端だけが、なくなっていた。私は椀を下げて、厨房で温め直して、自分で飲んだ。
『セラや。焦るでないぞ』
竈の前にしゃがんでいると、百合の香りが、煙の匂いに混じって来る。
『あの子は、峠で戸口を開けた。それは本当じゃ』
(でも、出てきません)
『開けるのと、出てくるのとは、別じゃ。蛹の殻を切ってやった蝶はな、羽が伸びん』
(……殻の中で、もがいているんですね)
『もがくのも、羽を伸ばすうちじゃ。七つの冬から、鏡の中で育った子じゃからのう。ちと、時間がかかる』
私は温め直したスープをひと口飲んだ。塩が、足りない。その日の夕方、厨房の床を磨いていると、扉のところに閣下が立っていた。手には小さな陶器の壺。新しい壺だ。
「減っただろう」
「まだ、半分あります」
「作った。マルタの棚の、最後のひと握りで。夜に、時間があった」
閣下は壺を調理台の上に置く。それから、置いた手をそこに留めたまま、動かない。
「閣下。峠で、訊きたいことがあるとおっしゃいました」
「ああ」
「訊かないんですか」
閣下は調理台の木目を見ている。
「今は、時期が悪い」
「悪い、というのは」
「お前の兄が、三日、部屋から出てこない。城には二百人の村人がいる。ギルバートは薪の帳簿を書き換えた。マルタは塩壺を二つに増やした。そういうときに訊くことでは、ない」
「わかりました」
「わかるな」
閣下は眉を寄せる。
「いえ、あの、わかりました、と言ったほうが、閣下が楽かと思って」
「……楽では、ない」
(……照れた推し、致死量です)
閣下は壺から手を離して、厨房を出ていった。出ていく直前に、雑巾を持った私の手を上から握った。濡れた手を、気にもせずに。ぽとり、と雑巾が落ちた。
(……今の、なに)
拾わなきゃ、と思うのに体が動かない。濡れた手の甲が、閣下の手の形のまま温かい。手なら、峠でもう何度も握られている。三千五百人の前で握られて、城の門まで離してもらえなかったくらいだ。
それなのに、厨房の隅で雑巾ごと握られるほうがずっと胸に来るのは、どうしてだろう。たぶん、あれは、誰に見せるための手でもなかったからだ。手の甲をもう片方の手で、そっと包んだ。温かいのが、逃げてしまわないように。
『のう、セラ』
(……はい)
『あの子はな、昨夜、「訊きたいこと」を、十七回、口の中で練習しておった』
(十七回)
『十七回じゃ。そして、十七回とも、途中でやめた』
雑巾を拾って、握ったまま、しばらく竈の前に立っていた。十七回。峠で、三千五百人の前に、一人で立った人が。
(十七回。……解釈一致です。いえ、解釈を超えています)
私は竈の火に向かって、こっそり笑ってしまった。四日目の夜も、椀は扉の前に残った。パンの端だけが毎朝、消えた。五日目の朝、椀は空になっている。洗われてはいない。底に大麦が二粒、乾いてこびりついている。紙片もない。
それでも私は、その椀を両手で持ったまま底の二粒を見つめて、厨房の隅に立っていた。
◆ マルタ
あたしはあの男にパンを出す気はない。四十年、この竈を守ってきた。あたしの厨房から出た麦を大広間の床にぶちまけて、「一粒残らず拾え」と言った男だ。あのときの陶器の割れる音を、あたしは忘れちゃいない。
閣下が「殿下の分も、椀を出せ」と言ったとき、あたしは黙って椀を置いた。閣下の言うことだ。置く。けれどあたしの手であの男の椀に匙を入れるのは、それとは別の話だ。
「マルタさん」
五日目の朝、お姫さんが、空の椀を持って厨房の戸口に立っていた。
「兄が、食べました。全部じゃありませんけど。二粒、残ってました」
「そうかい。そりゃ結構なことだね」
あたしは粥の鍋から目を離さずに言う。
「マルタさんのスープです」
「あたしのスープじゃないよ。あんたが温め直したんだろう。温め直したら、それはもう温め直した者のスープだ。あたしはね、あの男のために火を起こしたことなんか、一度もない」
お姫さんは困った顔をする。それから椀の底の大麦の粒を指でつまんで、自分の口に入れた。あの子は、麦を粗末にしない。最初の日からずっと変わらない。
「マルタさん。兄は、七つのときから、鏡の中にいたんです。鏡しかない部屋で」
「知らないよ、そんなことは。あたしが知ってるのは、あの男があたしの麦を床にぶちまけたってことだけだ。鏡だろうが何だろうが、麦は麦だ」
「はい。知らなくていいことです。マルタさんが兄を許さなくても、いいことだと思います」
お姫さんは椀を洗い場に置く。
「ただ、私は、兄にスープを運びます。それだけです」
あたしは返事をしない。鍋をかき回す。そのとき、厨房の奥からアンナが顔を出す。霜降り村の、オットーの女房だ。この冬あたしの竈を三つとも使い倒している、腕のいい女だ。
「マルタさん。あの男が食べてるスープの大麦ね、あれ、うちの村の麦だよ。去年の秋に刈ったやつ」
「知ってるよ。だから何だい」
「何でもないさ」
アンナは粉だらけの手を前掛けで拭く。
「大広間でぶちまけられたのも、うちの村の麦だった。オットーがその話をしてから、ルーカスがずっと言ってた。『おれの村の麦だった』って」
アンナは鍋の湯気の向こうで、肩をすくめる。
「だから、あの男が今食べてるスープも、うちの村の麦だってことを、いつか言ってやろうと思ってるだけさ。許すとか許さないとかじゃなくてね。麦の出どころは、教えといたほうがいい」
あたしは鼻を鳴らす。けれどその夜、お姫さんが兄の椀にスープをよそうとき、あたしは隣に立っていて、塩壺からひとつまみ落とした。お姫さんは何も言わなかった。あたしも、何も言わない。
許したわけじゃない。あたしの竈から出るスープには、塩が入っているべきだ。それだけのことだ。
◆ エルザ
洗濯場に、あの男のシャツが回ってきたのは、六日目の朝だった。襟に煤。袖口は灰だらけで、焦げ穴が二つ。火の扱い方を知らない人間が、薪の中に手を突っこんだ跡だ。
あたしはそれを竿の端に引っかけた。洗わずに。昼すぎ、聖女さまが来る。黙ってシャツを外して、隅の桶に水を張る。
あたしは自分のシーツを叩いていた。ばん、ばん、と。いつもより強く。聖女さまが襟を指でこする。煤は水に溶けずに、指に移るだけだ。何度こすっても。
見ていられない。
「灰汁。石鹸の隣の壺」
そう言って、シーツに戻る。ばん。聖女さまは礼を言わなかった。言われたら、あたしは壺を蹴飛ばしていたと思う。
あの男は大広間で、聖女さまの胸にスープをぶちまけて笑った。あたしは、あの場にいた。嫌いだ。今日も。たぶん、明日も。
焦げ穴は、繕ってやらなかった。
◆ ルッツ
俺は薪小屋で、薪を割っている。峠から帰った日から、ずっとだ。オットーさんが「腕が治ったなら割れ」と言ったからだ。それは本当だ。腕は治った。
でも、たぶん、それだけじゃない。城門の内側で、閣下が王女さまの手を離すのを、俺は見た。三千五百人の前から城の門まで、ずっと握っていた手を。それを見たとき、俺は斧を持ったまま動けなかった。
悔しいとか、そういうのじゃない。いや、たぶん、少しはある。でもそれより先に思ったのは、別のことだった。
――ああ、そうか。あれが、当たり前になるのか。
王女さまが朝、井戸に来なくなる日が、いつか来る。俺が水を汲む必要がなくなる日が。
「ルッツ。手が止まってる」
オットーさんが隣で、薪を割りながら言う。
「はい」
「お前、あれだな」
「何すか」
「いや。何でもない」
オットーさんは斧を下ろした。それから、割った薪を、脇に積んだ。
「俺の甥は、まだ十五だ。あいつも、王女さまの隣に座りたがる。お前は二十歳だ。あいつよりは、わかってるだろ」
「何を、ですか」
「隣に座るのと、水を汲むのは、違うってことだ」
オットーさんは俺を見なかった。斧を見ている。
「水を汲む役目ってのはな、誰かの隣に座るより長く続く。俺は九年、閣下に何も言われずに薪を運んできた。閣下は一度も、俺に礼を言わない。それでいい。俺は、運ぶ役目なんだ」
「オットーさん」
「お前は、水を汲め。治ったんだろ、肩」
「はい」
俺は斧を握り直した。翌朝、俺は井戸に行った。桶を二つ汲んだ。厨房の戸口に置いて、何も言わずに帰った。
王女さまは、たぶん誰が汲んだかわかっている。前に「命令で」と三度言ったのを、覚えているだろうから。それで、いい。いや、よくない。よくないけど、それでいい。
両方、本当だ。
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読んでくださって、ありがとうございます。
「してません」
次回、閣下が、王子の部屋の前に立ちます。
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