第9話 生贄の姫は、推しの領地へ嫁ぐ(五)
半里ほど進んだところで、先頭のギルバートさまが馬の足をゆるめた。
振り返る。
さっき私の腕をつかんだ右手が、手綱の上で、握ったり開いたりしていた。眼鏡の奥の目が、私の足元へ落ちて、それから顔へ上がってくる。
まだ、ついてきているか。
たぶん、それだけを確かめている顔だった。
私は、小さく頭を下げる。手を振るのは、やめておいた。振ったら、あの人はきっと、前を向いてしまう。
あの人は何も言わなかった。けれど前を向いたあとも、馬の足は、ゆるめたままだった。
息は、少しも上がっていない。頬は青ざめるどころか、ほんのりと温かい。修道服の裾を雪だらけにしながら、軍馬の一団に遅れもせずについてくる泥まみれの王女を、後ろの騎士たちが、ちらちらと見ている。
「おい。あの王女、俺たちより元気じゃねえか? 俺、さっきから鼻が凍ってんだけど」
「黙れ、ヘルマン。……いや、俺もそう思う。それにあの女、さっき道標のところで、山鳩に麦をやってたぞ。この寒さの中で、立ち止まって。山鳩だぞ。あいつら、人が三十歩以内に近づいたら飛ぶんだ」
「山鳩に? 王都の王女ってのは、みんなああなのか」
「知るか。俺は王都の王女を、あれしか見たことがねえ」
先頭の馬が、また少し、下がってきた。今度は、私の横に並ぶところまで。
「……貴女は、寒くないのですか」
前を見たまま、言った。
「私は先ほどから、革手袋の中の指先が感覚を失いかけているのですが。貴女の靴は雪が染みこんでいるはずだ。修道服は麻だ。羊毛ですらない。理屈が、通りません」
「推しの……いえ。閣下の領地ですので。胸がいっぱいで、寒さのほうが、入る場所がないんです」
「おし……?」
眼鏡を押し上げる指先が、かすかに止まった。
右手の林の切れ目から、さっきの凍った滝が、もう一度だけ見えた。遠くなって、青い糸のように細い。
「あの」
声が、小さくなった。
「さっきの滝は……もしかして、『竜の涙の滝』ですか。春になると溶けて、虹が出るという」
ギルバートさまが、初めてこちらを向いた。
「どうして、その名を知っているのです。あれは領内の者しか呼ばない古い名だ。王都の地図には『北の第三滝』としか載っていない。私は王都の地図を三種類、確認したことがある」
あ、と思った。
その目から戸惑いが消え、代わりに、獲物を見定める猛禽のような、鋭くて静かな光が浮かんだ。
――しまった。前世の本で読んだ名前を、そのまま口にしてしまった。
私はぱちぱちと二度まばたきをして、にっこりと笑ってみせる。
「王都の大聖堂の書庫で、昔の巡礼記を読んだことがあるんです。北の美しい景色の話が、たくさん書いてありました。滝の名前も、たぶん、そこに」
嘘ではない。書庫の床も、私が磨いていたのだから。巡礼記に竜の涙の滝のことが書いてあったかどうかは、ええと、覚えていないけれど。
『セラや。隠してよいものは、隠してよい。じゃが、口裏は、合わせんぞ』
(はい)
『ただな、二百年前の巡礼記に、確かにその名は出ておる。書庫の奥から三番目の棚、上から二段目。お主が一度も開いたことのない棚じゃがな。本があるからというて、読んだことにはならん。読んだ気がするが覚えておらん、と、そのまま言え。あの若者はな、嘘より、そちらのほうを信じる』
ギルバートさまは、長いあいだ私の顔をじっと見つめていた。
「巡礼記、ですか。その書庫の棚の位置を、あとで伺ってもよろしいですか。王都の大聖堂には、私も一度、行ったことがありますので」
「はい。ぜひ。ただ、あの、正直に言うと、どの本だったかは覚えていないんです。床を磨いていると、開いたままの本が、いくつも目に入るので。読んだ気がする、というくらいで」
言ってしまってから、これでは怪しさが増しただけではないかと思った。けれど、あの目から、猛禽の光が、少しだけ引いた。
「覚えていない、と言うのですね。読んだ、と言い切るのではなく」
「はい。覚えていないので」
「……そうですか」
やがて彼はふいと視線を逸らし、何も言わずに馬を進めた。けれど、それから城に着くまでのあいだ、彼は何度も、何度も、私のほうを振り返った。
振り返るたびに、馬の足が、少しゆるんだ。
日が傾くころ、林が切れた。
目の前に、広い斜面がひらけた。雪は、もう白くなかった。夕日が低く差しこんで、斜面ぜんたいが、焼きたてのパンの皮のような色に光っている。空は西のほうから順に、杏の色、薔薇の色、それから熟れる前のすももの色へと移っていき、そのいちばん高いところに、星がひとつだけ、針で突いた穴のように出ていた。
風が止んで、雪の匂いがした。冷たいのに、どこか甘い。洗いたての敷布を、日向に干したときのような匂いだった。
そして、坂の上に、城があった。
見えた、というより、そこにあった。ずっと前からそこにあって、私が顔を上げるのを、黙って待っていたみたいに。
切り立った黒い岩山が、そのまま空へ伸びて、城壁になっている。どこまでが山で、どこからが城なのか、わからない。尖塔がいくつも夕空へ突き出して、その先だけが、まだ日を受けて赤く燃えていた。窓の灯りは、数えるほどしかない。
私は、この城を知っているはずだった。
前世の布団の中で、何百回、思い浮かべただろう。挿絵の線をなぞって、塔の数を数えて、閣下の部屋の窓はどれだろうと、指で探した。目を閉じれば、いつでも行けた城だ。
けれど、坂の下に立って、わかった。
私が思い浮かべてきたのは、この城の影だった。壁に映った影を見て、城を知った気になっていたのだ。
本物は、大きかった。高さのことではない。重さのことだ。この城は何百年もここに立って、何百回の冬を、一度も譲らずに受けとめてきた。その重さが、坂の下の私の胸まで、まっすぐに届いてくる。
自分が、ひどく小さく思えた。
なのに、少しも怖くなかった。小さいことが、こんなに嬉しかったのは、生まれて初めてだった。
――北の城は、優しくない。けれど、決して崩れない。
一巻の終わり近くの、あの一行。何度読んでも、半分しかわからなかった一行の、残りの半分が、今、坂の上から降ってきた。
城門の上で、角笛が一度、低く鳴った。音は雪原を渡って山にぶつかり、少し小さくなって、もう一度、こちらへ帰ってきた。
重々しい軋みを上げて、巨大な城門がゆっくりと開いていく。
門の内側には、辺境伯家の私兵たちがずらりと並んで待ち構えていた。王都から送られてきた生贄の姫が、どんな顔で怯えているのか。それを見物しようと、皆どこか意地の悪い期待を浮かべている。
そして、その兵士たちの足元に、一匹の犬がいた。
大きな犬だった。狼と見間違えそうなほど大きい。背中は灰と黒が混ざって、雪を載せたまま、少しも解かさずにいる。胸だけが白い。顔の下半分も白くて、夕暮れの中で、そこだけぼんやりと明るかった。
左の目が白く濁っていて、右の耳は半分ちぎれている。年老いた犬だ。それでも門の内側の真ん中に、どっしりと座って、琥珀色の右目で、こちらを見ていた。
(鳩より大きくて、もっと丸い、灰色の)
『うむ。あれじゃ』
「グラウ。下がっていろ」
門番らしい若い兵士が、犬に言った。犬は、動かない。
ギルバートさまの馬に続いて、私は門をくぐる。
兵士たちの目が、その後ろを探した。王家の紋の馬車を。絹の外套を。泣き腫らした顔の姫を。
馬車は、来ない。
「……おい。姫は」
「あれじゃねえのか」
「あれ?」
継ぎの当たった修道服。裾は膝まで雪と泥。胸に、麻袋が一つ。歩いて来た。二里の雪道を、軍馬の後ろから。
「嘘だろ。王女だぞ。王都は、あれを、歩かせたのか」
「荷馬車は関所の手前で帰っちまったって、先触れが」
「だからって」
意地の悪い期待の顔が、一つ、また一つと、困った顔に変わっていく。見物に来たものと、来たものが、違った。
犬が、立ち上がる。
兵士たちがざわめいた。「おい、グラウが動いたぞ」「まずいな、あの女、噛まれるぞ」「去年、新入りが袖を食いちぎられたんだぞ」
犬は、ゆっくり歩いてくる。後ろ脚が、少し硬い。一歩ごとに、腰が一度、ためらう。年寄りの歩き方だった。
私は、麻袋を下ろす。
それから、雪の上に、膝をついた。
犬を見下ろしたまま待つのは、なんだか違う気がした。十年、床の高さにいたのだ。見下ろされる高さのほうが、私には、よく知っている高さだ。
犬が、私の前で止まる。
膝をついた私と、犬の目の高さが、ちょうど同じになった。濁った左目と、澄んだ右目。澄んだほうの目の奥に、私が映っている。泥だらけの、小さな私が。
犬は、麻袋の匂いを嗅がなかった。
私の手を、嗅いだ。
腫れて、傷の残っている右手の甲を。回廊で踏まれた手。王都の誰も、見ようとしなかった手。
鼻先が、傷の上で止まった。
それから、一度だけ、舐めた。
温かい。
喉の奥が、痛くなった。
それから、私の肩のあたりの、何もない空気を、しばらく嗅いでいる。
犬は、そのまま、額を、私の胸に押しつけてきた。
大きな頭の重さが、全部、こちらへ来る。倒れないように、私は両腕で、その首を抱いた。抱いたというより、抱きとめる。
誰かに寄りかかられたのは、生まれて初めてだった。
寄りかかるのは、いつも私のほうだと思っていたのに。柱に。床に。神さまに。寄りかかられる側に回ることが、自分にあるとは、思っていなかった。
首の毛に、顔が埋まった。
外側の毛は、硬い。雪と風を弾くための、まっすぐな毛だ。頬に当たると、少しちくちくする。
けれど、その奥に指を入れると、違った。
柔らかいものが、ぎっしり詰まっている。綿を、何重にも押し込んだみたいに。指が、第二関節まで、音もなく沈んでいく。沈んだ先が、温かい。冬の朝、起きたばかりの布団の中に残っている温もりのように。
胸の白い毛は、襟巻きのように厚かった。そこに顔を寄せると、雪の匂いがした。それから、干し草と、竈の煙と、古い革の匂い。この城の、冬の匂い。
犬の息が、耳元で、ふう、と鳴った。
大きな尾が、雪の上を、ゆっくり一度、掃く。箒みたいに重たい尾だった。掃いたあとの雪に、扇の形の跡が残る。
「……あったかい」
声が、少しだけ、震えた。
閣下も、こうしてこの首に顔を埋めたことがあるのだろうか。
このぬくもりは、あの人の、何を温めてきたのだろう。




