第8話 生贄の姫は、推しの領地へ嫁ぐ(四)
蹄の音が、止まった。
雪煙が、ゆっくりと落ちていく。
最初に見えたのは、黒だった。漆黒の軍馬。その上の、濃紺のマント。
それから、雪の白の中で、ひとつだけ光るもの。
銀縁の、眼鏡。
その縁に、雪がひとつ載って、溶けずに残っている。
息を、吸うのを忘れていた。
顔が見える前に、指が見えた。手綱を握る黒い革手袋。隙というものが、指の先まで、どこにもない。
それから、顔。
プラチナブロンドの髪を一筋の乱れもなく撫でつけて、眼鏡の奥の琥珀色の目は、よく研いだ刃物の色をしていた。
整っている、という言葉では足りない。整えられている、のほうが近い。誰かのために、一分の隙も残さず。
誰のために、かは、知っている。
(……っ)
頭の中で、前世の記憶の引き出しが、音を立てていっせいに開いた。
ギルバート・フォン・アルスター。
ヴィルフリート閣下の乳兄弟。辺境伯領の政務と諜報のすべてを取り仕切る、首席従者。冷徹にして有能。
主君への忠誠は、ほとんど信仰に近い。主君に害をなす者には、あの綺麗な顔のまま、眉ひとつ動かさずに刃を向ける人。
原作では「最強のナンバーツー」と呼ばれ、人気投票ではいつも閣下のすぐ下にいた。
布団の中で、何十回、この人の登場の頁を開いたか。頁の角が、一箇所だけ、丸くなっていた。
その人が今、雪の向こうで、私を見ている。
「貴女が、王都から捨てられたセラ王女ですか」
声は、思っていたより低かった。
雪道の風で、頭に巻いていた麻布が肩まで落ちている。私は慌てて巻き直そうとして、手を止めた。その目が、荷馬車と、破れた幌と、泥だらけの靴とを、順番に値踏みしていって――最後に、私の顔で、止まったからだ。
ほんの一瞬。
眼鏡を押し上げかけた指が、宙で止まった。眉が動かない。まばたきもしない。雪がその銀縁の上に、一つ、二つと載って、溶けもせずに残っていた。
それから、自分の手を叱るように、指はいつもの速さを取り戻して、眼鏡に届く。
『ほう。あの若者、今、お主の顔を見て、言葉を一つ落としたぞ。拾うかどうかは、あの若者次第じゃ』
(泥、ついてますか)
『ついておる。じゃが、落としたのは、泥のせいではない』
ギルバートさまは馬を降りた。礼は、とらない。
「王都の連中も、ずいぶんと舐めた真似をしてくれたものだ。王女の輿入れと聞いていたので、私は儀礼上、十騎を連れて迎えに出ました」
眼鏡の奥の目が、破れた幌を、もう一度だけ見る。
「それが、幌の破れた荷馬車一台と、泥まみれの小娘一人。しかも護衛は、こちらの顔も見ずに逃げ帰った。侮辱として、これほど手の込んだものは、私も初めて見ました」
自分の修道服を見下ろす。確かに、泥まみれだ。反論のしようがない。
「閣下から言いつかっております。『王都の回し者に割く馬車はない。城まで二里、自力で歩かせろ』と。お聞きになりましたか。二里です」
ギルバートさまの視線が、私の靴に落ちる。つま先の縫い目が、ほつれている。
「この雪の中を、その靴で。私は止めませんし、手も貸しません。途中で倒れたなら、そこに置いていきます。凍え死んだ王女を王都へ送り返すのは面倒ですが、生きた王女を城に入れるよりは、まだましですから」
(講評。声の低さ、十点。意地悪の手の込みよう、九点。靴まで見たのは、満点)
二里。この雪の中を、つぎはぎの修道服一枚で。
普通に考えれば、城に着く前に凍えて動けなくなる。初手から、全力でこちらの心を折りにきている。
――さすがです、と私は思った。
原作のギルバートさまも、閣下のもとに近づく者には、まず徹底的に冷たく当たって、その人間の本性を試す。泣き叫ぶか、逃げ出すか、媚びるか。
そうやって主君の周りから危ういものを一つ残らず取り除いてきた人だ。これは、この人なりの誠実さなのだ。主君に対しての、だけれど。
「……はい」
答えてから、もうひとつ、口が勝手に動いた。
「二週間、座りっぱなしでしたので。歩けるのは、ありがたいです」
嘘ではない。足は、なまっていた。
言わなかったこともある。雪景色の中の銀縁眼鏡は、本の挿絵より、ずっと絵になる、ということ。
言えば怪しまれる。言わなくても、私が知っていれば足りる。
雪原に、沈黙が落ちた。
その完璧に整った眉間に、ぴくり、と一本、皺が寄った。泣くか、喚くか、縋るか。そのどれかを待っていた顔だ。
後ろの騎士たちが、互いに顔を見合わせている。
「……貴女は今、自分が何を言われたのか、理解しているのですか。私は貴女を歓迎しないと言ったのです。この領地の誰一人、貴女を歓迎しない。それを、よく覚えておきなさい」
言い捨てると、彼はさっと馬に跨り、手綱を返した。騎士たちも続く。誰も、私に手を貸そうとはしなかった。
雪は、脛の半ばまであった。
軍馬は脚が長い。蹄の跡は残るけれど、踏み固めるほどではなくて、私が足を入れると、沈む。引き抜いて、また一歩。
吹きつける雪が、蹄の跡をすぐに埋めていく。
『ほれ、セラ。背中に追い風を吹かせておくぞい。足の下も、少し締めておこう。あの若者の意地悪に、お主が付き合ってやる義理はない』
ふわり、と背中に、春の風が吹いた。
踏み出した足が、沈まない。足の下の雪だけが、氷の手前まで締まって、さくり、と音を立てて受け止める。踏んだところだけ。前を見ても後ろを見ても、雪は雪のままだった。
「神さま、ありがとうございます。でも、いいんですか。ギルバートさまは、私を試していらっしゃるんですよ」
『試すのは、あの若者の勝手じゃ。お主が凍えんのも、わしの勝手じゃ』
「勝手、なんですね」
『うむ。それにな、あの若者は、お主が倒れるのを見たいのではない。お主が何者かを知りたいだけじゃ。凍えさせずとも、それは伝わる』
「そういうものですか」
『そういうものじゃ』
「神さま。どうして私だけ、寒くないんでしょう。ストーブは足元だけなのに」
『さあのう』
「さあのう、って」
『寒くないのは、お主の体が丈夫だからではないよ。……今は、それだけじゃ』
私は首をかしげる。神さまは、それきり何もおっしゃらなかった。
『ま、いっそ、すきっぷでもしていきなされ』
「スキップはさすがに怪しまれますよ。ただでさえ、回し者だと思われているのに」
そう言いつつも、足が勝手に弾んでしまうのは、止められない。
だって、ここは北の大地なのだ。閣下が生まれ育ち、たった一人で守り続けてきた土地。
道は、針葉樹の林の中へ入っていった。
木々は枝という枝に雪を載せて、重たそうに、けれど折れずに立っていた。枝の先の雪は日を受けて、ところどころ、硝子の粉をまぶしたように光る。
林の中は外より静かで、空気は冷えた泉の水のように澄んでいた。風は木に遮られ、雪が枝から落ちる、ぽす、という音だけが、あちこちで小さく鳴っている。
ときどきその音と一緒に、軽くなった枝が、ぱっと跳ね上がった。木が、長く止めていた息を吐いたみたいに。
そして、木々の切れ目から、それが見えた。
凍った滝。
高い岩壁の上から落ちてくる水が、落ちる途中で、そのまま止まってしまったように見えた。太い水の柱が何十本も束になって、青白く、透き通って、岩壁に貼りついている。
落ちる途中の水滴のひとつひとつが透明な玉になって、柱の表面に無数についていた。日が差すと、その玉の中で光が砕けて、滝全体が内側から薄青く燃えるように見える。
私は、立ち止まった。
本の中の、一行の滝。字で読んだ滝は、頭の中でただ「白くて大きい」だけだった。
本物は白くない。青くて、透明で、中に光を閉じ込めていて、そして、今にも動き出しそうなのに動かない。時間がここだけ、そっと手を止めている。
(本物だ)
喉の奥が、少し、痛くなった。
道端の古い石の道標には、擦り切れかけた文字で「アイゼンベルク城まで一里半」。冷たくて、ざらざらしていて、ちゃんとそこにある。
道標の脇の、雪をかぶった針葉樹の枝に、山鳩が二羽、寄り添って止まっていた。
王都のより、ひとまわり丸い。羽を膨らませて毛玉のようになって、身を寄せ合っている。首の青い縞が、雪の白の中でよく見えた。神さまの言った通りだ。
麻袋の底から、麻布の包みを出す。北へ持ってきた麦の粒。雪の上にひとつまみ置いて、三歩、下がった。
山鳩はしばらく私を見ている。王都の一羽が慣れるまで、ひと冬かかった。だから降りてこなくても、それでいい。
けれど、大きいほうが先に降りてきた。
「北の山鳩は、王都のより、人を怖がらないんですね」
『冬が長いからのう。怖がっておっては、腹が減る。北の生き物はな、人も獣も、寒さの前では意地を張っておられんのじゃ。人のほうが、獣より、少し時間がかかるがな』
二羽が麦をついばみ終えるまで、そこに立っていた。食べ終えた二羽は、また同じ枝に戻って身を寄せ合う。つがいなのだ。
「神さま。二羽、ですね」
『うむ。二羽じゃ』
「十歳の冬に、書庫の床を磨いていて、開いたままの本を読んだことがあるんです。古い掟の本で。子が生まれたら、聖堂に羊を一頭お供えしなさい。羊が買えない家は、山鳩を二羽でいい、って」
『よう覚えておるのう』
「羊を買えない家のことまで、ちゃんと書いてあるんですね」
『わしが羊をもらって、何にする。あれはな、貧しい者が戸口で足を止めんように、書かせた一行じゃ。「羊を持たん者は来るな」と読まれては、困るからのう』
それから、少しだけ、声がやわらかくなった。
『わしが欲しいのは、羊のほうではない。羊を連れてくる、その子のほうじゃ』
枝の上で、二羽が身を寄せ合っている。
羊も山鳩も、私は一度も持っていたことがない。
それでも十歳の冬、神さまのほうから、物置小屋に来てくださった。
前を行く軍馬の列は、ずいぶん先まで進んでいる。けれど、その列から一騎だけ離れて、こちらへ引き返してくる黒い影があった。
雪の下には、木の根がある。
道標から少し進んだところで、右足が雪の中の何かに引っかかった。針葉樹の根だ。体が前に泳ぐ。
転ぶ、と思った瞬間、腕を強くつかまれた。
黒い革手袋。馬上から伸びた手が、私の二の腕を修道服ごとつかんでいる。革越しなのに、指の形がわかるほど強い。
顔を上げると、すぐ上に銀縁の眼鏡。
引き返してきた一騎は、この人だった。私が鳩に麦をやっているあいだ、先頭から見ていたのだ。
そして転びかけた瞬間、考えるより先に手が出た。たぶん。
眼鏡の奥の琥珀色の目が、私を見ている。ほんの一瞬。
近い。馬上から身を乗り出しているせいで、白い息が、私の頬にかかる。革と、雪と、少しだけ、インクの匂いがした。
それからその手が、火に触れたようにぱっと離れた。
「手は貸さないと、言ったはずです」
ギルバートさまは自分の革手袋を見ている。私の袖の雪で、濡れていた。
「はい。今のは、私が勝手につかまれました。ギルバートさまは、貸していません」
「違う。私が――」
言いかけて、口を閉じる。眼鏡を押し上げる指先が、少し震えていた。寒さのせいだと、彼はきっと言うだろう。
「……歩けますか」
それが、この人が私に向けて言った、初めての、意地悪ではない言葉。
「はい。歩けます。ありがとうございます」
顔を上げたら、目が合った。
今度は、一瞬ではなかった。
眼鏡の奥の目が、私の顔から、ほどけた髪へ、それからまた顔へ戻ってくる。雪が一片、私の睫毛に載って、溶けた。
先に目を逸らしたのは、ギルバートさまのほうだった。
革手袋の指が、上がる。
私の髪のほうへ。ほどけて肩に落ちた、灰紫のひと筋のほうへ。
雪を払おうとしたのだと思う。
指は、髪に触れる、ひと息手前で止まった。
止まったまま、ほんの少しのあいだ、宙にあった。
それから、手綱のほうへ戻っていく。
「……髪に、雪が」
「はい」
「払っておきなさい。冷えます」
それだけ言って、手綱を返す。列の先頭へ、少し速すぎる速さで戻っていく。
マントの襟から覗く耳が、雪の中で赤い。
冷えます、と言った人の耳のほうが、ずっと赤かった。
私は、つかまれた二の腕を、そっと押さえた。修道服の上から、まだ指の形が残っている気がする。
(……人気投票で二位の方の、握力)
(この袖、しばらく洗わないでおこうかしら)
『ほう』
楽しそうな声だ。
『あの若者、今、自分の手が何をしたのか、わかっておらんぞ。わかるのは、ずっとあとじゃ』
(神さま、それはどういう)
『さあのう。わしは、人の心の中のことは、本人が気づく前には、言わんことにしておる。気づく前に言うとな、人は、それを自分のものと思わんようになる』
お読みいただき、ありがとうございます。
銀縁眼鏡の首席従者、ギルバートさま登場
凍った滝と、つがいの山鳩。
北の雪景色も、どうぞ一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。
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