第7話 生贄の姫は、推しの領地へ嫁ぐ(三)
用意された馬車は、王女の輿入れにしては、ずいぶん慎ましいものだった。
いや、慎ましいという言い方は優しすぎる。幌はところどころ破れ、窓に硝子は嵌まっていない。車輪が石を踏むたびに座席の板がガタンと跳ねて、私のお尻も一緒に跳ねた。
護衛は王都の兵士が四人。髭の隊長がベルント、いちばん若いのがロルフ。あとの二人は名乗らなかった。
ベルントは最初の日に一度だけ「王女さま」と言って、それきり私を「おい」としか呼ばない。
それでも旅は、思っていたよりずっと快適だった。
『ほれ、足元を温めておくぞい。二週間、こんな隙間風の中で震えておっては、北に着く前に体を壊す』
出発して半日もしないうちに、神さまが私の足元に、目に見えない小さな温もりを置いてくださった。膝から下が、冬の日のこたつに潜り込んだときのように、じんわり温かい。私は心の中で、それを「あったか神力ストーブ」と名付けた。
『もう少し品のある名前にならんかのう。三百年前の神殿では、わしの力は「聖なる息吹」と呼ばれておったんじゃが』
(ストーブのほうが、実感があります)
『実感、な。三百年前、最初にわしのことを「あたたかい」と言うたのは、床を磨いておった娘じゃった。神官ではない』
(それを、神官さまたちが「聖なる息吹」と呼ぶようになったんですか)
『そうじゃ。百年もたつうちにな。言葉が立派になるほど、あたたかい、のほうは痩せていった』
(痩せた、んですか)
『ストーブでよい。痩せておらん』
三日目の朝から、烏が一羽、馬車についてくる。
最初は、気のせいだと思った。烏は、どこにでもいる。けれど四日目も五日目も、同じ烏だった。
右の翼の先に、白い羽が一本混じっている。それが目印だ。
烏は馬車の後ろを、少し離れて飛ぶ。馬車が止まると道端の木に止まり、動くとまた飛ぶ。朝から夕方まで。夜はどこかへ消えて、朝にはまた現れる。
「なんだ、あの烏。気味が悪いな」
ロルフが馬上から振り返って言った。
「三日も同じ烏がついてくるなんて、縁起が悪いぜ。生贄を運んでるから、死神が嗅ぎつけたんじゃねえのか」
「黙って歩け、ロルフ」
ベルントは、そう言ったきり。
私は幌の破れ目から烏を見ていた。
烏は賢い。理由もなく三日も馬車を追ったりしない。餌があるか、巣があるか。巣なら動かない。だから、餌だ。
馬車が止まったとき、後ろに回ってみた。荷台の下、車軸のあたり。何もない。
それから馬を見た。二頭の首に、燕麦の袋が下がっている。歩きながら食べられるように。
右の馬の袋の底に、小さな穴が開いていた。歩くたびに燕麦が、ぱらり、ぱらりと道に落ちる。ほんの数粒ずつ。
けれど三日分なら、烏一羽の腹を満たすには十分だ。
「あの、ベルントさん。右の馬の燕麦の袋に、穴が開いています。底のほうに。烏は、それを拾って食べているんだと思います」
ベルントは、私の顔を見た。それから馬に近寄って、袋の底を指で探る。穴を見つけて、髭の下で、口が一度だけ動いた。
「三日、気づかなかった」
「馬車の後ろからだと、落ちるのが見えました。前からは、見えないと思います」
ベルントは腰の革袋から糸と針を出して、その場で穴を縫う。手慣れた縫い方だ。兵士は自分の靴も服も、自分で繕う。
縫い終えると、何も言わずに馬に戻った。
けれどその日の夕方、野営の火の前で、ベルントは私の分の干し肉を、ほかの三人と同じ大きさに切った。
前の日までは、半分。
その晩から、名乗らなかった二人の兵士が、私を「烏の王女さま」と呼ぶようになった。烏の謎を解いた王女さま、ということらしい。
からかい半分の呼び名だ。
けれど、そう呼ぶとき、二人は私の顔を見た。王都では、誰も見なかった顔を。
「おい」よりは、ずっといい。
ロルフだけは、鼻で笑って、一度もその名では呼ばなかった。
烏は、翌朝から来なかった。
私は幌の破れ目から、後ろの空を、いつもより長く見つめる。
『あの烏はな、この先の峠で、今年生まれた雛を三羽育てておる。三日分の燕麦は、雛の腹に入った』
「そうですか。なら、よかったです」
『お主が穴を見つけたことで、烏は餌を失うた』
「……はい」
『じゃが、馬は燕麦を失わずに済んだ。お主は穴を見つけて、隊長は縫うた。どちらも、それでよい』
「神さまは、烏と馬と、どちらの味方なんですか」
『両方じゃ』
「両方の味方は、できないと思います」
『できる。両方、わしが創ったからのう。ただ、片方だけを見るより、少し重い』
「重いのは」
『わしが持つ。お主は、穴を見つければよい』
窓のない窓から見える景色は、日ごとに、少しずつ色を変えていく。
最初の数日は、刈り入れの終わった麦畑。それから、葉を落とした白樺の林。白い幹が灰色の空に向かって何百本も並び、馬車が進むと、幹と幹のあいだから光が、ぱ、ぱ、ぱ、と瞬いた。
十日を過ぎたあたりから、道端に白いものが混じり始めた。
最初は、日陰の溝に残った、薄汚れた白。次の日は、木の根元に丸く。その次の日には、畑がまるごと白い布をかけられたように眠っていて、その次の日には、世界はほとんど白と灰色だけになった。
雪が、降っていた。
幌の破れ目から、左手を出してみる。
右手は、まだ出せない。腫れはだいぶ引いたけれど、甲のあざが、紫から黄色に変わりかけている。握ると、まだ少し痛む。
手のひらに、雪が落ちてくる。
小さな白い粒だと思っていたものが、落ちた瞬間、ちゃんと形を持っている。六つの角。細かい枝。その枝から、さらに細かい枝。
息をのむあいだに、それは私の体温で消えて、ただの水の粒になった。
次の一片にも、六つの角。けれど、さっきとは違う形。
(全部、違う)
前世でも雪は見た。けれど見たのは、傘の上と、駅のホームと、汚れた歩道の上だけだ。手のひらの上で一片ずつ形が違うのを確かめたことは、一度もない。
『雪はな』
神さまの声がした。
『わしが創ったものの中で、いちばん静かなものじゃ。ひとつとして、同じ形がない』
「さっきのも、その前のも」
『うむ。一年にこの空から落ちる雪の数を、お主は想像もできんじゃろう。じゃが、その中に同じものは、二つとない』
手のひらの水の粒が、冷たい。
『わしは、ひとつひとつ、覚えておる』
「全部、ですか」
『全部じゃ。名はないがな。名のないものも、わしは覚えておる。お主の手に落ちて消えた、さっきの二つもな』
吐く息が白い。空気が、きんと澄んでいる。兵士たちは毛皮の外套を何枚も重ねて、ずっと震えながら悪態をついている。
ロルフは十二日目に指先を凍傷にしかけて、ベルントに雪で揉まれて泣いていた。
私は隙間風の吹き込む座席でパンをかじりながら、胸がどきどきして仕方がない。
震えていないのが私だけだということには、少し、後ろめたさもある。
この雪を、私は知っている。正確には、文字で読んで、何度も何度も想像した雪だ。
『雪嶺の白竜戦記』の一巻、最初の一行。――北の雪は、音を包む。
本当だった。
馬車の車輪の音さえ、降りしきる雪の中に吸い込まれて、どこか遠くで鳴っているように聞こえる。兵士の悪態も、馬の鼻息も、雪がひとつずつ、静かに包んでいく。
残るのは、幌に雪が触れる、さらさら、という、絹を撫でるような音だけ。
夜、野営の火が落ちてから、一度、幌の外に出た。
雪はやんでいた。
空に、月。
月の光が雪原に落ちて、雪原がそれをそのまま空へ返している。地面が光っているのだ。
北に、山があった。
昼は雲に隠れていた稜線が、月の下で、初めて全部見えた。
頂だけが白い。月を真上から受けて、雪が、雪より白く光っている。
光の届かないところから、山肌は青くなる。稜線の影に入った中腹で青は深くなり、裾は夜と同じ色に沈んで、雪原の青白さに溶けていく。
白と、青。その境目は、刷毛を一度だけ引いたように、迷いがない。
息を吸うと、冷たさが胸の奥まで一直線に届く。なのに、目が離せなかった。冷たいものが、こんなにきれいでいいのだろうか。
どこまでも、しんとしている。何もない静けさではない。何かが息をひそめている静けさだ。
雪の下で、草も、根も、虫も、眠ったまま春を待っている。そういう静けさ。
前世の私が、一行の文字から何度も思い描いた景色が、今、目の前にある。
「神さま。私、ここに来られて、よかったです」
『うむ。わしも、お主をここに連れて来られて、よかった』
『……いや、連れて来たのは荷馬車じゃったな。わしは、足を温めただけじゃ』
「神さま、そういうところですよ」
『どういうところじゃ』
「床の次に正直な、ところです」
十三日目の夜、野営の火の前で、ロルフが言った。
「なあ、おい。お前、寒くねえのか。俺は毛皮を三枚着てるのに、歯が鳴って止まらねえ。お前は麻の修道服一枚だ。なんで震えてねえんだ」
「推しの……いえ、北へ行けるのが嬉しくて。胸がいっぱいで」
「胸がいっぱいで、体が温まるかよ」
ロルフは鼻を鳴らす。それから少し黙って、言った。
「気味の悪い女だ。でも、まあ、烏のことは助かった」
それだけ。それだけだったけれど、ロルフは翌朝、私の麻袋を、荷台のいちばん風の当たらない場所に、黙って移した。
ガタゴトと揺られること、二週間。
「おい、王女様よ。降りな」
馬車がぎしりと音を立てて止まり、幌の外から、ベルントの不機嫌な声がした。
「ここから先はアイゼンベルク辺境伯領の関所だ。俺たちはこれ以上行かねえ。行けと言われても行かねえぞ。あの人食い竜の縄張りに、一歩だって入ってたまるか」
もう一度降りろと言われる前に、麻袋を抱えて馬車を降りた。
見渡すかぎり、白い雪原。
その向こうに、切り立った白銀の山並みが、空を支える柱のように連なっている。山の頂は、雲より白い。雲は灰色で、山だけが、空のいちばん高いところで、自分の光で光っていた。
道の先には、雪に半分埋もれた石造りの関所の門が見える。
「あの、こんなところで降ろすんですか。門まで、まだずいぶん距離が――」
「知るかよ。門まで送ったら、俺たちが辺境伯領に入ったことになるだろうが。それがどういうことか、王都の人間なら誰でも知ってる」
ロルフが馬車の上から、私の足元に唾を吐いた。
「生贄も哀れなもんだな。せいぜい魔獣の糞にでもなるんだな!」
言ってから、ロルフは私の顔を見た。ほんの一瞬。それから、目を逸らした。
ベルントは、何も言わない。手綱を握ったまま、雪の中の私を見ている。馬の吐く白い息が、二度、三度、風にちぎれた。
それから革袋から何かを取り出して、雪の上に放った。
干し肉が、一切れ。
「道中の残りだ。要らねえなら、烏にでもやれ」
笑い声と一緒に馬車は向きを変え、雪を蹴散らしながら、来た道を一目散に戻っていった。あっという間に、車輪の跡だけを残して見えなくなる。
私は雪の中にひとり取り残されて、修道服の肩に積もった雪を、ぽんぽんと払った。それから、雪の上の干し肉を拾って、麻袋に入れた。
「あの人たち、帰りの道、ちゃんとわかるんでしょうか。来るときも二回、道に迷ってましたけど」
『吹雪になる前に峠を越えられればよいがのう。わしはあやつらの隣にも座るが、道案内まではせん』
「隣には、座るんですね」
『座る。……あの隊長のことも、覚えておくよ。「干し肉を一切れ、雪に放った」とな』
「放った、で、いいんですか」
『渡した、とは言えん。あの男は渡さなかった。放った』
「……はい」
『じゃが、放ったことは放ったことじゃ。わしの帳面は、事実しか書かん』
「ロルフさんの唾は」
『書いてある。あれも事実じゃ。わしの帳面は、良いことだけを書く帳面ではない』
「……」
『じゃがな、あの若者は、唾を吐いたあとで、お主の顔を見た。それも、書いた』
雪の上に、馬車の轍が、二本、まっすぐ南へ延びている。
『事実は、少しずつ増える。あの二人の帳面には、今日、一行ずつ増えた』
雪原に、私はひとりで立っている。
けれど、ひとりではなかった。
風が雪の表面をさらさらと撫でて、細かい雪煙を白い蛇のように走らせていく。その向こうで、山並みが黙って私を見ていた。
そのときだった。
ザッ、ザッ、と。雪を踏みしめる、重く規則正しい音が、雪煙の向こうから近づいてきた。
白い帳の中から、黒い影がいくつも浮かび上がる。漆黒の軍馬に跨った、十騎ほどの一団だった。




