第6話 閑話 柱の陰
監督役、というのをやらされることになった。
冬の初め。司祭さまは僕の名前を呼ばないで「そこの」と言う。そこの、お前。東の回廊の床磨きの娘を見ておけ。さぼっていたら報告しろ。
それだけ言って、行ってしまった。
見習いは十四人いる。僕は秋に来たいちばん新しいやつで、背の順でも祈りの順でもいちばん後ろだ。年上は「新入り」と呼ぶ。司祭さまは「そこの」。いちばん後ろのやつに、誰でもいい仕事が回ってくる。それはもう慣れた。
僕はノア。十二歳。
この聖堂で、最後に名前で呼ばれたのは、秋に母さんが門の前で呼んだときだ。それから、一度もない。
母さんは僕の名前を呼んだあと、しゃがんで、僕の目をのぞきこんだ。
灰色がかった、緑の目。おじいちゃんにそっくりだと、母さんはいつも言う。おじいちゃんは自分の目のことを、オリーブの葉の裏の色だ、と言っていたそうだ。
オリーブなんて、見たことがない。王都の冬に、そんな木は生えていない。
母さんは立ち上がって、僕の髪をそっと撫でてから、帰っていった。坂の下で、一度だけ振り返った。
最初の日、柱の陰から見た。
娘は日の出前から床を磨いていた。麻布を頭に巻いて、雑巾を絞って、四つん這いで石を撫でる。一枚拭くと少し下がって、また拭く。
その前に、井戸から水を汲んでくる。真鍮の桶を二つ。両手に提げて、体を左右に揺らしながら、回廊の端から端まで。
さぼっている、とは言えなかった。
報告することがない。帰ればよかった。でも帰ったら帰ったで、「見てきたか」と訊かれる。だから見ていた。石の床が白くなっていくのを、ただ。
朝のお祈りより長い。足が冷える。
三日目に、鳩を見つけた。
窓枠の右端。足の悪い山鳩が一羽、体を傾けて座っている。娘は雑巾を置いて、袖から小さな包みを出して、何かをその石に載せた。それから少し離れて、しゃがんだ。
鳩が食べ終わるまで、動かない。
なにをしているんだろう。
訊きに出ていけばよかったのかもしれない。でも、僕は監督役だ。見習いの服を着たやつが柱の陰から出てきたら、あの人はきっと、司祭さまに言いつけに来たと思う。
穀物庫の麦を、鳩にやっているんだと思った。見つかったら、叱られるのはあの人だ。
だから、出ていけなかった。それに、なんて言えばいいのかも分からなかった。
十日目のことだ。蹴られるのを見た。
殿下が来た。金糸の靴。後ろに王妃さまと、扇を持った人たち。
なにか言う前に、靴が娘の脇腹に入った。
ドスッ、と鳴った。桶が転がって、泥水が白い床にばっと広がる。娘はそのまま転がって、額を床につけた。
起きない。
殿下がなにか言っている。犬、と聞こえた。扇の人たちが笑う。娘はまだ起きない。
死んだのかと思った。
違う。唇が動いている。
なにを言っているのかは分からない。お祈りかと思った。でも、祈りの言葉なら見習いは全部覚えさせられる。あれは、知らない祈りだった。
殿下たちがいなくなって、少ししてから、娘はゆっくり起き上がった。
脇腹を押さえて、それから雑巾を拾って、泥水を拭き始める。誰にも頼まずに。誰も来なかったから。
僕も、行かなかった。
殿下が戻ってきたらどうしよう、と思ったからだ。それと、行ってなにを言えばいいのか、分からなかったからだ。
僕は柱にしがみついていた。手のひらが石に貼りついて離れない。
その夜、寝床で何度も思い出した。思い出すたび、手のひらが痛んだ。柱を掴んでいただけなのに。
二十日目の夜、年上の見習いたちに呼ばれた。
三人。いつも祈りの列のいちばん前にいる連中だ。
「お前、床磨きの監督だろ」
「……うん」
「明日の朝、あいつの桶を隠せ。雑巾も。水が汲めなきゃ床は磨けない。磨けてなきゃ、さぼったことになる。お前が司祭さまに言えばいい」
三人で笑った。不吉な子が叱られるところを見よう、と言った。目を見たら何かがうつる子だ、と。
「監督役なんだから、ちゃんと役目をやれよ」
それだけ言って、三人は寝床へ戻っていく。
僕は、返事をしなかった。
しなかったけれど、断りもしなかった。断れば、明日から僕がいちばん後ろでもいられなくなる。
夜が明ける前に、回廊へ行った。
桶は、いつもの場所にあった。三本目の柱の根元。雑巾が縁にかけてある。
持ち上げた。空の桶は軽い。
隠すなら、どこにでも隠せる。物置の裏。階段の下。誰にも見つからない。
持ったまま、立っていた。
あの人は、この桶を毎朝、水を入れて二つ提げてくる。体を左右に揺らしながら。それを見てきた。二十日、見てきたのだ。
気がついたら、井戸のところにいた。
縄が冷たい。滑車が鳴る。冬の井戸の水は、指を入れると痛い。桶を上げるのに、思ったよりずっと時間がかかった。あの人は、これを毎朝二つ。
水を張った桶を、元の場所に戻した。雑巾も縁にかける。
誰も見ていない。それでも、置いたあとで急いで柱の陰に隠れた。
なにをしているんだろう、僕は。
隠せと言われて、汲んでしまった。言われたことの、逆だ。どう説明すればいいのか分からない。年上の三人になにを言われるかも、分からない。
でも、桶は空にできなかった。
娘が来た。
いつものように、両手に桶を提げて。二つ。
そして、三本目の柱の根元の桶を見た。
止まった。
なにも言わない。自分の桶を置いて、しゃがんで、水の入った桶を覗きこむ。手を入れる。水の冷たさで、汲んだばかりだと分かったのだと思う。
周りを見た。回廊には誰もいない。僕は、柱の陰で息を止めていた。
娘は、誰にも訊かない。
その代わり、しゃがんだまま、床のほうを見て言った。
「神さま。桶に、水が入っていました」
ひとりで話しているのは、何度も見た。でも、聞き取れる近さで聞いたのは、初めてだ。
「誰でしょう。……監督役の子、かな」
僕は、動けない。
「いちばん後ろの、小さい子です。いつも柱のところで、寒そうにしています」
僕のことだった。
「あの子、司祭さまに『そこの』って呼ばれて、はい、って答えるんです。年上の子には『新入り』って。名前、あるはずなのに。私は知りません」
知らない。
あの人は、僕の名前を知らない。知らないまま、僕の話を神さまにしている。
「私も、ドブネズミとか、お飾りとか、そういうので呼ばれるので。慣れてはいるんですけど、ちょっとだけ、疲れます。あの子も、たぶん」
回廊の高い窓の向こうで、空が、少しだけ白くなった。
「神さまは、知っていますよね。今日一度だけ、誰かがあの子の名前を呼んでくれますように」
息が、できなくなった。
この聖堂で、僕の名前を知っている人はいない。あの人も、知らない。
知らないのに、いちばん下にいる人が、床にしゃがんで、名前も知らない僕のために、神さまに頼んでいる。自分の桶の話ではなく。
膝が抜けた。
柱の陰に座り込んで、口を押さえた。声を出したら、聞こえてしまう。聞こえたら、あの人はきっと、もうここで話さなくなる。
手のひらが濡れていた。柱を掴んでいたからではなかった。
娘は、汲んであった桶から床を磨き始める。自分で汲んできた二つは、そのまま置いてある。
磨きながら、一度だけ、小さく言った。
「ありがとう」
誰に言ったのかは、分からない。
分からないまま、僕はそれを、もらった。
その日、年上の三人には「隠したけど、あいつ別のを持ってきた」と言った。
嘘だ。そのくらいの嘘なら、いつも言っている。
三人は舌打ちして、それで終わった。僕はいちばん後ろのままでいられた。
三十日目。殿下が、また来た。
蹴り。桶が跳ねる。泥水。
娘は額を床につけて、唇を動かす。お祈りじゃなかった。数えているのだ。何度も見て、やっと分かった。いち、に、さん。五つ数えたら起きる。いつもそうだ。
でも今日は、殿下が起きるのを待たなかった。
殿下は蹴ったあと、いつも回廊の奥を見る。王妃さまが立っているほうを。褒めてほしい犬みたいな顔で。
王妃さまは、見ていない。扇の陰で、自分の靴を見ている。
殿下の顔が変わる。
金糸の靴が戻ってきて、娘の右手の上に下りた。ぐり、と靴底がねじられる。血が泥水と混ざるのを、柱の陰から見た。
五つ数えても、終わらないことがあるのだ。
それを、その日初めて知った。
殿下がいなくなったあと、僕は柱の陰から出た。
出るつもりは、なかったのに。足が先に動いたのだ。
「……それ。昼までに、消えるのか」
声がひっくり返りそうになった。
娘が、顔を上げた。
目が、合う。
初めてだった。三十日、見ていたのに。いつも下を向いていたから、一度もなかった。
菫色。不吉な色だと、誰かが言っていた。目を見たらなにかがうつる、と。
綺麗だ、と思った。うつるなら、うつればいい。
なにがうつるのかは、知らない。
「たぶん。水で薄めれば、色は落ちます。血の跡は、乾く前なら」
娘はそれだけ言って、また下を向いた。
「そうか」
それしか言えなくて、柱の陰に戻った。
なんだよ、消えるのか、って。
あの人は、名前も知らない僕のために神さまに頼んでくれた。僕は、床の染みのことしか言えなかった。
ふと、懐の麻布に気づく。朝、洗い場でもらった新しいものだ。まだ何も拭いていない。
もう一度、出ていった。
渡すことはできなかった。渡すには目を見なきゃいけない。だから床に置いた。
「余ってた」
嘘だ。見習いに配られる布は一枚だけで、次は春まで来ない。なくしたら叱られる。
でも、そう言わないと置けなかった。
柱の向こうへ歩きながら、後ろで、布を拾う音を聞いた。振り向かない。
振り向いたら、置いたことが、僕のものになってしまう気がした。
その日の夕方、厨房へ行った。
いちばん奥の、いちばん年寄りの下働きの人が、鶏の餌桶に手を入れている。皺だらけの手が、殻つきの麦をかき混ぜている。
「ひとつかみ、ください」
自分で言ってから驚いた。誰かに何かを頼んだのは、ここに来てから初めてだった。
その人がこちらを見る。
「何にする」
しまった、と思う。見習いが鳩に餌をやる。冬の穀物を、鳥にくれる。笑われる。絶対に笑われる。
でも、あの人は、床にしゃがんで僕のために頼んだ。誰も見ていないところで。
「鳩にやる」
その人は笑った。
歯の欠けた口で、大きく、遠慮なく。厨房の火がその顔を赤くしていた。
「鳩に! 見習いが、鳩に!」
僕は黙っている。言い直さない。
言い直せば、たぶんもらえた。「豆を煮ようと思って」とか。「司祭さまに言われて」とか。そのくらいの嘘なら、いつも言っている。十日前にも言った。
言わなかった。
あの人が神さまに話すとき、嘘を言わないのを、聞いてしまったからだ。
笑い終わると、その人は餌桶に蓋をした。
「餌桶のはやれん。鶏の分だ」
そうか、と思う。どうしてか、手のひらがひどく軽い。
「鶏小屋の床に、こぼれたのがある。殻つきだが、鳩は殻ごと呑む。拾っていけ」
その人は、餌桶の蓋を、皺だらけの手で、とん、と叩いた。
「……あの窓の鳩なら、左の足が悪い。右端に置け。あたしが教えたんだ、あの子に。鶏に言うふりでな。パンはやるなって」
なにも言えなかった。
この人も、見ていたのだ。
「あの子のは、穀物庫の床に落ちたのを拾ったやつだ。週に一度、床を掃くときにな。掃いて捨てるはずの麦を、ひと粒ずつ袖に溜めてた。一週間で、ひとつまみだ」
ひとつまみ。
僕がいまもらおうとしていたひとつかみより、ずっと少ない。それを一週間かけて。
鶏小屋の床は暗くて、糞の匂いがした。
しゃがんで、指で粒を探す。殻つきの麦と、粟と、何の種か分からないものが混じっている。鶏が寄ってきて、手をつつかれた。ひとつかみ集めるのに、ずいぶんかかった。
あの人も、こうやって拾っていたのだ。穀物庫の床で、ひと粒ずつ、一週間。
三十日見ていて、知らなかったことが、また一つ増えた。
夜が明ける前に、回廊へ行く。
あの人はもう来ない、と聞いていた。侍従が二人来て、連れていったと。北へ嫁ぐのだと誰かが言った。生贄だ、とも。
生贄が何かは、よく知らない。羊をそう呼ぶのは知っている。
窓枠の右端。色の薄い石。
その石だけ、なぜか少し温かかった。
僕は粒を置いた。あの人のより多くて、あの人のより汚い。それでも置いた。
少し離れて、しゃがむ。
あの人と同じ距離、のつもりだった。
鳩はまだ来ない。夜明けが早すぎたのだと思う。
しゃがんだまま待った。膝が冷えていく。石の床というのは、こんなに冷たいものだったのか。あの人は毎朝、この上を四つん這いで進んでいたのか。
三十日見ていて、これも知らなかった。
しゃがんでみるまで、分からなかった。
床のほうを、見る。あの人がいつも話していた、床の高さ。
言ってみようか、と思った。あの人がしていたように。
でも、なにを言えばいいのか分からなかった。神さまに話したことなんて、決まった祈りの言葉以外、一度もない。
だから、名前だけ言った。
「……ノアです」
あの人は、神さまは知っていますよね、と言った。知っているなら、言っても仕様がない。
でも、誰かに言うのは、初めてだった。
膝が痛くなってきたころ、どこからか、百合の匂いがした。
この回廊に花はない。冬に百合は咲かない。
けれど確かに匂った。甘くて、澄んでいて、この寒さの中でそこだけ春みたいに。
誰か香を焚いたのかな、と思う。それ以上は考えない。
考える前に、足音がした。回廊の入り口。麻布を頭に巻いた、小さな影。
僕は柱の陰に隠れた。
隠れてから、少しだけ顔を出す。
あの人は、三本目の柱まで来て、止まった。
窓枠を見ている。粒に気づいたのだと思う。白い息が、ひとつ、ふたつ。それでも、動かない。
それから、こちらを見ないで、言った。
「……ノア」
それだけ。
訊きもしないし、探しもしない。柱のほうを見もしない。名前を一つ床に置いて、そのまま窓のほうへ歩いていった。しゃがんで、鳩を待つ、いつもの場所へ。
どうして知っているのか、分からなかった。この聖堂で、誰も口にしない名前だ。母さんが門の前で呼んでから、一度も。
分からないまま、僕はそれを、もらった。
二度目だった。
柱の陰で、口を押さえる。あの朝と同じに。手のひらが、また濡れた。
百合の匂いは、まだしていた。
名前を呼ばれたあとも、ずっと。




