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お飾り聖女と氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第一章 床磨きの聖女

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第5話 生贄の姫は、推しの領地へ嫁ぐ(ニ)




 その夜、物置小屋の戸口に、麻布の包みが置かれていた。中には、硬いパンの端が三つ。厨房の料理長が、毎晩、足早に置いていく包みだ。


 端っこなのは、たぶん、それより上等なものを持ち出せば、あの人が叱られるからだ。叱られない分だけを、毎晩。


 口をきいたことは、一度もない。その人の名前も知らない。大きな背中と、杉林の暗がりに消えていく足音だけを、十年、知っている。


 今夜の包みには、パンの端のほかに、小さな白い塊がひとつ入っていた。親指の先ほどの、岩塩のかけらだった。一度も言葉を残したことのない人が、今夜、塩を入れた。


「……ありがとうございます」


 杉林の暗がりに向かって、私は深く頭を下げた。


『あの男はな、今夜、厨房で、塩の壺の前に四半刻立っておった』


「四半刻も」


『塩は厨房長の管理じゃからのう。一かけらでも減れば、帳簿が合わん』


 手のひらの白いかけらが、急に重くなった。


『……あの男は、帳簿を、自分の給金で合わせることにした』


「……名前を、教えてくださいますか」


『言わん。名はな、人から聞くより、本人の口から聞くほうが、ずっと重い。それまで、わしが預かっておく』


 杉林の暗がりを、もう一度見る。大きな背中は、もうどこにもない。


「……いつか、あの人の口から、聞けますように」


 王都で、誰かのために祈ったのは、それが最後になった。


 岩塩のかけらを、麻袋のいちばん底にしまう。その隣に、今日濯いで乾かした絹の布を、四つに畳んで置いた。十年分の持ち物は、袋の底の半分も埋めなかった。


 小屋の土間の、いちばん光の当たる場所に膝をついた。毎晩磨いてきた場所だ。


「神さま。今日は、いろいろありました」


『うむ。踏まれた手の甲と、塩と、北行きとな』


 右手を、膝の上に出してみる。腫れは朝よりひどくなって、指の付け根まで張って熱い。擦りむけたところに、細い筋が三本、赤く残っている。


「はい。……それから、陛下が、杉林のほうを見ていらっしゃいました」


『……うむ』


 神さまは、しばらく黙っていらした。小屋の板の隙間から、杉林を渡る風の音がする。


『セラや。それは、わしが知っておる。お主がいつか、自分で知る日が来るかもしれん。今は、まだじゃ』


「はい」


 それ以上は訊かなかった。七年のあいだに覚えたことがある。神さまが答えてくださらないことは、たいてい、私がまだ受け取れないものなのだ。


『……ひとつだけ、言うておく。今日、あの広間で、お主を見んかった者が一人おる』


 陛下ですか、とは訊かなかった。


『見んかったのはな、見ることが、できんかったからじゃ』


 杉林の風が、もう一度、板の隙間を鳴らした。


『見なかったのと、見られなかったのは、違う。……それだけ、覚えておけ』


    *


 出発は、翌朝の夜明け前だった。見送りは誰もいない。


 荷物は、麻の袋がひとつ。着替えの修道服がもう一枚と、欠けた木の櫛と、硬いパンの端が三つ、岩塩のかけらがひとつ、絹の布が一枚。大事なものは、袋の底に入れる。袖に入れておくのは、鳥にやる麦だけだ。袖のものは落とすことがあるけれど、袋の底のものは落とさない。


 大聖堂の裏門を出る前に、一度だけ、あの白い回廊に立ち寄った。昨日泥水をぶちまけられたところは、夜のうちにもう一度磨き直しておいた。まだ暗い回廊の中で、大理石がほのかに光っている。


 三本目の柱の脇の窓へ歩いていく。窓枠の右端の、継いだ石の色の薄いところに、麦の粒が置いてあった。


 私のものではない。袖の麦は、昨日、全部やってしまった。私のより粒が揃っていなくて、殻のついたままのものや、粟や、何の種かわからないものまで混じっている。穀物庫の床ではなく、鶏小屋の床から拾ってきた粒だった。


 色の薄い石に手を置くと、夜明け前なのに、そこだけ少し温かかった。


 回廊の奥の柱の陰で、小さな衣擦れの音がした。私はそちらを見ずに、床のほうへ一度だけ言った。


「……ノア」


 名前を一つ床に置いて、窓のほうへ歩いた。しゃがんで鳩を待つ、いつもの場所へ。


 どこからか、百合の匂いがした。


「お世話になりました。……ちゃんと光ってくれて、ありがとう」


 床に向かって小さくお辞儀をした。それから、窓枠に向かって、もう一度。


『律儀じゃのう、お主は。床に礼を言う王女など、見たことがないわい』


「だって、この床はいつも正直でしたから。磨いた分だけ光って、磨かなかった日は曇るんです。人間より、ずっとわかりやすいです」


『……それは、わしへの当てつけかのう』


「まさか。神さまは、床の次に正直です」


『床の次か。……格付けされたのは、久しぶりじゃ。……まあ、よい』


 神さまは、それから少しだけ声を落とした。


『のう、セラ。あの鳩の麦はな、これから毎朝、あの子が置く』


「ノアが」


『昨日の夕方、厨房のいちばん奥の婆に、麦をくれと頼んだ。何にする、と訊かれて、「鳩にやる」と答えた』


「……笑われませんでしたか」


『笑われた。あの子は、言い直さなんだ』


 回廊の窓の外が、ほんの少し青くなりはじめている。窓枠の、殻のついたままの麦を見た。


『笑われるとわかっていて本当のことを言うのはな、麦ひとつかみより、ずっと重い。わしは、それも、覚えておるよ』


 膝を抱えて待ったけれど、鳩は来なかった。夜明けが早すぎたのだと思う。膝が冷えてきたころ、立ち上がって、裏門を出た。


 坂を少し下りたところで、一度だけ振り返った。大聖堂の東の壁に、朝いちばんの光が当たりはじめている。三本目の柱の窓の右端に、小さな薄茶色の影が、体を右に傾けて降りた。


 こつ、こつ。ここまで聞こえるはずのない音が、聞こえた気がした。あの子の麦だった。


 私は前を向いて、荷馬車の待つ門のほうへ歩き出した。


 このときの私は、まだ知らなかった。原作にたった三行しか書かれていなかった花嫁の前に、あの氷の辺境伯が、膝をつく日が来るなんて。


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