第4話 生贄の姫は、推しの領地へ嫁ぐ(一)
王城の絨毯は、靴が沈んだ。
私を連れに来た侍従は、二人。名前は、言わない。
回廊の泥水を拭き終えたところで、何の説明もなく、両腕をつかまれた。大聖堂の裏門から王城の通用口まで、一度も止まらずに歩く。
腫れた右手をつかまれたときは、声が出そうになった。飲み込む。こういうとき、痛がると、相手はだいたい喜ぶ。
王城の中は、暖かかった。
暖かすぎて、少し息苦しいくらいだ。回廊のあちこちに火鉢が置かれ、炭の匂いがする。
壁には金の燭台。床には緋色の絨毯。
私の泥だらけの靴が、その絨毯に、一歩ごとに薄い茶色の跡を残していく。侍従の一人が、それを見て舌打ちをした。
「跡がつくな。……あとで女中に磨かせろ」
「石の床なら、私が磨きますけれど」
侍従は私の顔を見て、それから何も言わずに歩く速さを上げた。
回廊の角で、若い女中が一人、絨毯の端に膝をついて、ブラシで毛足を起こしている。目が合う。女中はすぐに目を伏せた。
その膝には、麻布があてがってあった。私と、同じように。
(……ここの床は、この人が磨いているんだ)
それだけのことで、絨毯に沈む足が、少し、軽くなった。
謁見の間に足を踏み入れるのは、生まれて初めてだった。
天井には、星をそのまま閉じ込めたような水晶のシャンデリア。足元には、靴が沈み込むほど毛足の長い緋色の絨毯。壁という壁に、金の装飾。
どこを見ても、目がちかちかする。
大聖堂の壁画と、同じ金だ。同じ職人が貼ったのかもしれない。
広間の奥、数段高い場所に玉座がある。そこに座っているのが、国王陛下――私の父だった。
父の顔をこんなに近くで見るのも、たぶん初めてだ。思っていたより白髪が多く、思っていたより疲れた顔をしていた。陛下は一度だけ私のほうへ目を向けて、すぐに、窓の外へ視線を逸らした。
窓の向こうには王城の南の庭と、その先に、黒々とした杉林。
大聖堂の裏手の、あの杉林。私の物置小屋がある、あの。
陛下は、そちらを見ていた。私を見るのを避けて、たまたま窓を見たのか。それとも、窓の向こうの何かを見ていたのか。
わからないまま、私はそのことを頭の隅に置いた。
玉座のまわりには、青い顔をした財務官たちが並んでいる。いちばん前の老人は、帳簿の束を三つ抱えて、眼鏡を額に上げたり下ろしたりしていた。
その隣に、扇を手にしたエレオノーラさま。
そして、今朝と同じ金糸の長靴を履いて、ふんぞり返るように立っている、ジュリアン殿下。
殿下の靴の先は、もうすっかり綺麗になっていた。
「よう、セラ。床磨きの途中で悪かったな。泥のまま来てもらったのは、貴様にはそのほうが似合うと思ったからだ。侍従に着替えさせろと言われたんだが、俺が止めた」
殿下は、自分の言葉に、自分でにやりとする。
「ドブネズミに絹を着せたら、絹が可哀想だろう?」
殿下は言い終えてから、周りの貴族たちにちらりと目をやった。自分の台詞がちゃんと聞かれているかを確かめる目だ。
貴族たちが、くすくすと笑う。殿下の口の端が、満足そうに上がる。
それから殿下は、母親のほうを見る。
エレオノーラさまは、扇を見ている。
殿下の口の端が、ほんの少しだけ下がった。
「……貴様に、王家のために命を捨てる栄誉を与えてやる」
仰々しい手つきで、殿下は羊皮紙を広げる。
「北の果て、魔獣ひしめく白銀の氷竜辺境伯領。その当主、ヴィルフリート・フォン・アイゼンベルク。あの偏屈で凶暴な狂竜のもとへ、貴様を降嫁させることが決まった!」
殿下は、羊皮紙を私の鼻先に突きつけた。
「……嬉しいだろう? 生まれて初めて、王女らしい仕事だぜ」
貴族たちのあいだから、憐れむような、面白がるような、湿った笑い声が漏れる。
けれど私の心臓は、まったく別の理由でどくんと跳ねていた。
――ヴィルフリート・フォン・アイゼンベルク。
さっき神さまから聞いたばかりなのに、人の口から、正式な宣告として聞くと、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
前世の私が、終電の車内で何度も読み返した物語の、その主人公。
孤高で、不器用で、誰よりも気高い人。
十年あまり、あの物置小屋で耐えてきたのは、この日のためだったのだ。
「おい、何を黙ってる。喜ぶなよ、無能」
私の沈黙を恐怖と受け取ったのか、殿下は愉快そうに口の端を吊り上げた。
「この婚姻には『三ヶ月』の期限がある。三ヶ月以内にあの男が婚姻受諾書に署名しなければ、貴様は王家の名に泥を塗った不敬の罪で、即刻死刑だ」
殿下は、指で自分の首を、すっと横に切ってみせた。
「……ま、あの猜疑心の塊のような男が、王都の出来損ないを受け入れるはずもないがな! 首が転がるのが先か、雪の中へ叩き出されて凍え死ぬのが先か。俺は賭けをしてもいい」
三ヶ月。
原作の花嫁が、城を追い出されるまでの時間。
物語から「消える」というのは、こういうことだったのかもしれない。
首の後ろが、少しだけ冷たくなった。
「殿下、恐れながら」
財務官の老人が、眼鏡を額に上げたまま、おずおずと口を挟んだ。
「賭けの前に、数字を。……北へ送る馬車の費用でございますが、王女殿下の輿入れとして規定の額を出しますと、金貨で百二十枚。これは現在の国庫では、その、大変に、厳しい額でして」
「ベンノ。誰が輿入れの規定を守れと言った」
エレオノーラさまが扇を閉じる。
「馬車は、荷馬車で結構です。護衛は四人。王女ではなく、生贄を運ぶのですから」
「……は。かしこまりました。荷馬車一台、護衛四人。金貨、八枚ほどで」
ベンノという老人は、帳簿に何かを書きつける。手が、少し震えている。
私を生贄と呼んだ言葉にではなく、金貨百二十枚が八枚に減ったことに震えているのだと思った。それはそれで、この人なりの正直さだ。
『……違うぞ、セラ』
神さまが、小さくおっしゃった。
『あの老人は、百二十枚が惜しくて震えておるのではない。百二十枚が痛いのは本当じゃが、あの老人は五十年、痛い数字を書き続けてきた』
『……震えておるのはな、「八枚」と王妃が口にしたからじゃ』
(八枚、と)
『この部屋には、貴族が三十人おる。三十人の口から、今夜のうちに、王都の商人へ伝わる。王家が、王女の輿入れに八枚しか出せなかった、と』
ベンノの羽根ペンが、帳簿の上で止まっている。
『明日から、誰も王家に貸さん。あの老人は、それを知っておる』
(……王妃さまは、知らないんですか)
『知っておる。知っていて、言うた。……あの女はな、お主を安く送り出すことで、氷の辺境伯を怒らせたいのじゃ』
(怒らせて、どうするんですか)
『怒って追い返せば、王家に大義ができる。八枚は、貧しさではない。餌じゃよ』
私は、扇の陰の横顔を見た。何も、読めない。読めないように、二十年かけて作られた顔だった。
ぱちり、と扇の音。
「ジュリアン。あなたの賭けの話は、誰も聞いていませんよ」
氷の粒を転がすような声だった。怒鳴らない。声を荒らげない。ただ、一語一語をきれいに揃えて置いていく。
「セラ。一度だけ、教えてさしあげます」
扇が、ゆっくりと開く。
「国庫は、帝国への備えで、底が見えています。帝国は、金貨か、竜晶鉱山か、どちらかを差し出せと言ってきました。差し出さねば、国境を越える、と」
ああ、と私は思った。今朝の『帝国』と『使節』。午後の茶会とは、きっとそのことだったのだ。
「そこで、北の辺境伯領です」
エレオノーラさまの目が、宝石のように光った。
「あの男があなたを受け入れれば、持参金の誓約で、北の【古代竜晶鉱山】の採掘権を半分いただきます。拒んで追い出せば――」
「『王女を不当に辱め、王家に反逆した』として、帝国軍を引き込んで、辺境伯領ごと叩き潰す! 鉱山も領地も丸ごと帝国に差し出せば、王都は安泰というわけだ!」
殿下が、下品な音を立てて、膝を打つ。
「どうだセラ、貴様の首ひとつで、この国が救われるんだぜ。光栄だろう?」
受け入れれば、骨抜きにされる。
拒めば、叩き潰される。
どちらに転んでも、辺境伯家は、王家が生き延びるための生贄になる。私はその毒杯を運ぶための、ただの盆というわけだ。
なるほど、よくできている。
玉座の上で、陛下の指が、肘掛けの上で一度だけ動いた。握ろうとして、握らなかった、というふうに。
私はそれを見た。何を意味するのかは、わからなかった。
「わかったか、セラ! 貴様の役目は、北で無様に冷遇され、怯え、三ヶ月後にあの男に叩き出されることだ。せいぜい王家のために、惨めに死んでこい!」
貴族たちの笑い声が、今度ははっきりと広間に響き渡る。
私はうつむいて、両手で修道服の裾を握りしめた。肩が、小刻みに震える。
周りからは、怯えて泣きそうな哀れな娘に見えただろう。実際のところ、私は口元が勝手に持ち上がるのを、奥歯を噛みしめてこらえていた。
(……すごい。悪役の方々の政治スキームとして、ほとんど満点では……?)
原作でも、王家は北の辺境伯家をじわじわと追い詰めていく。けれど、ここまで露骨に、しかも本人たちの口から全部説明してもらえるとは思っていなかった。
親切だ。とても親切だ。
それに、なにより。
(王家のお金で、推しの住む土地まで連れて行ってもらえるんですよね……? これって、実質、交通費無料の聖地巡礼では……? 金貨八枚ですけど)
『セラや』
頭の真ん中で、ぽわんと声がした。
『声には出ておらんが、顔に出とるぞ。うつむいておるから誰にも見えておらんが、今のお主、悪だくみをしておる代官の顔じゃ。王女の顔ではない』
(すみません、神さま。ちょっとだけ待ってください。表情筋の再起動に時間がかかっています)
『さいきどう。……まあ、よい。それより、聞いたか。「三ヶ月」じゃ』
(はい。三ヶ月で、私の首が)
『あの王子はな、自分で自分の首に縄をかけたことに、気づいておらん』
(殿下の、首に?)
『期限を切るということはな、期限の中で起きたことは、全部、期限を切った者の責任になる、ということじゃ』
扇の陰で、エレオノーラさまの目が、一度だけ、息子のほうへ動く。
『あの子の母親は、気づいておる。じゃから今、扇を見ておる』
私はひとつ深く息を吸って、心の中でそっと尋ねた。
(ねえ、神さま。もしも……もしもですよ。三ヶ月のうちに、あの方が本当の意味で受諾書に署名してくださったら、どうなるんでしょう)
『どうなるも何も、あの者らの企みは根っこから崩れるのう』
神さまは、お茶をひと口すするような間を置いて、のんびりと続ける。
『それにな。北の竜晶鉱山は、じつは、もうじき魔力が枯れる』
(え)
『あの者らが奪い合っておるのは、中身の減りかけた古い壺じゃよ。王妃も王子も、それを知らん。帝国も知らん』
広間のどこかで、誰かが、まだくすくす笑っている。
『じゃがな。あの山の奥には、わしが大昔に建てた小さな部屋が眠っておる。三百年、誰も入っておらん』
(鉱山が枯れるのは、知っています。原作の最終巻で、そうなりますから。でも、山の奥の部屋なんて、一行も――)
『じゃろうな。あの本にはな、書いておらんことが、いくつもある』
私は、ぎゅっと目をつぶる。
(……神さま。それはもう、勝ち確というやつでは。その部屋から、すごい結晶が)
『出ん』
神さまは、あっさりおっしゃる。
『あそこから出るものはな、売っても、パン一つ買えん。皇帝は欲しがらん。王妃は、見ても気づかん。……じゃが、あの子には、要る。鉱山より、ずっとな』
(……勝ち確じゃ、ないんですね)
『鉱山の話なら、負けじゃ。枯れるものは、枯れる』
(……)
『じゃが、あの子の心のほうは、勝ち負けの話ではない。鉱山より、ずっと深いところに埋まっておる』
(掘るのは、私ですか)
『うむ。お主の仕事じゃ。わしは、掘る道具は貸さん。手で掘れ』
(……はい)
『手で掘る者にはな、ひとつだけ良いことがある。掘っておるあいだに、土のほうが、その手を覚える』
胸の奥に灯った小さな火が、ぱちぱちと燃え広がっていく。
私はゆっくりと顔を上げた。
「かしこまりました。国王陛下、王妃さま、ジュリアン殿下」
泥の染みた修道服の裾を、指先でそっとつまむ。右足を引く。背筋を伸ばす。膝を、深く折る。
神さまに教わりながら、物置小屋の中で、誰に見せるあてもなく、何百回と練習してきたカーテシーだった。
見せる相手は、この人たちではなかったけれど。
「不肖セラ、全身全霊をもって、北の辺境伯閣下のもとへ参ります」
顔を上げると、自然と笑顔になっている。今度は、こらえる必要のない笑顔だった。
原作の閣下は、最後の巻まで、誰にも名前を呼ばれない人だった。
だから、私は行く。
あの人の名前を、呼びに。
広間の笑い声が、ぴたりと止んだ。
ジュリアン殿下は、道端で喋り出した石ころでも見るような目で私を見て、一歩後ずさる。
その顔を見て、ふと思い出した。十年前、測定の間の隅で、母親の袖を握って針を見ていた金糸の上着の男の子。
笑っていなかった。ただ、怯えたような顔をしていた。
あの顔と今の顔は、少し似ている。
エレオノーラさまの扇が、ほんのわずかに揺れる。ベンノは眼鏡を額に上げたまま、下ろすのを忘れている。
「……気味の悪い娘。行きなさい。明朝、夜明け前に発つのです。見送りは要りません」
玉座の上の父だけが、窓の外を見つめたまま、最後まで私のほうを振り向かない。
杉林のほうを。




