第3話 お飾り聖女は、今日も床を磨いている(三)
――生贄として、嫁がせる。
神さまは、明日の天気を言うような声で、そうおっしゃった。
握りしめていた雑巾から、ぽたり、とひとしずく、泥水が落ちる。回廊の静けさの中で、その小さな音だけがやけに大きく響いた。
北の、氷竜辺境伯。
ヴィルフリート・フォン・アイゼンベルク。
頭の中で、その名前がゆっくりと形になる。
(……待って)
(待ってください。北の氷竜辺境伯って、閣下ですよね。……じゃあ、あの「王家の娘」は。三行だけの、名前のない花嫁は)
雑巾を握ったまま、私は固まった。
(私、だった。本当に、私だった。推しの? お嫁さん? ……いえ、生贄ですけど。生贄ですけど!)
閣下は世間では、血も涙もない冷酷な男だと恐れられている。
けれど私は知っている。あの人が、九年、眠らない夜に、誰かの名前を数えつづけていることを。誰にも、それを言わずに。
前世の私が、ページをめくるたびに何度も泣いた、あの物語の主人公。私の、生涯の最推し。
腫れた右手の痛みも、脇腹の痛みも、どこかへ飛んでいった。胸の奥で、ぽっと小さな火が灯る。
――ついに、この日が来たのだ。
生贄、という言葉の重さは、あとで拾うことにした。
『ふむ。「生贄」と聞いて、頬のゆるむ娘があるかのう』
「だって、神さま」
『わかっておる。わかっておるとも』
声が、少しだけ静かになる。
『あの者らはな、お主を北へ送って、氷の辺境伯に凍らせてもらうつもりでおる。ところが、あの者らは、ふたつ知らん』
「何をですか」
『ひとつ。生贄にされる娘が、この国でいちばん幸せな顔をしておる、ということ』
「もうひとつは」
『凍らせるはずの男のほうが、実は、いちばん凍えておる、ということじゃ』
「神さま」
『うむ』
「北の城にも、山鳩はいますか」
『おるよ。北の山鳩は、こちらのよりひとまわり丸い、寒いからのう。それから北には、鳩より大きくてもっと丸い生き物もおる』
「もっと丸い」
『灰色じゃ。名は、まだ言わん。名をつけた男が、名をつけるのが下手でな、それ以来、一度も何にも名をつけておらん』
「神さま、今日は、ずいぶん先のことばかりおっしゃいますね」
『年寄りはな、先の話が好きなのじゃ。過ぎたことは全部覚えておるから、話しても面白うない』
私は、窓枠を見た。
足の曲がった山鳩は、まだそこにいた。朝日はもう高くなって、石は温まりきっているはずなのに、飛ばずにこちらを見ている。袖の中の包みを開いてみたけれど、麦は、もう残っていなかった。
それでも、鳩は飛ばない。
『あの鳩はな』
神さまの声が、窓枠のほうを向いた気がした。
『お主が北へ行ったあと、誰があの窓に麦を置くのか。わしは知っておる。じゃが、それは、その者が自分で決めることじゃ』
「だから、おっしゃらない」
『わしが決めたのではないからのう。……三十日、柱の陰から見ておった子じゃ。あるいは、な』
「神さま」
『うむ』
「『ずっと、そばにおった』って。最初の夜も、そうおっしゃいました。ずっと、って、いつからですか」
訊いてしまってから、雑巾を握り直した。
こういうことは、訊かないことにしている。母のことも、生まれた夜のことも。訊いて、なにもなかったと分かるより、訊かないほうが楽だからだ。
十年かけて、私はそういうふうに自分を作ってきた。
百合の香りだけが、回廊にゆっくりと濃くなっていく。
『お主が、まだ、母の腹の中におった頃からじゃ』
息が、止まった。
『お主の母はな、身重になっても、踊るのをやめんかった。誰も見ておらん部屋で、ひとりでな。足首に鈴をつけて』
鈴。
厨房の人が教えてくれた、母の鈴。その音を、私は聞いたことがない。
誰も見ていない部屋で、ひとりで。――その部屋に、この声の主はいたのだ。
『お主は、その鈴の音に合わせて、腹の中で蹴っておった。拍子が、いつも、少しだけ遅れておった』
いち、に、さん。
今朝も数えた。床に額をつけて。
私はいつも、拍子から少し遅れて起き上がる。殿下の靴が来て、桶が跳ねて、それから、遅れて、私。
生まれる前から、そうだったのか。
「……母は」
声が、思ったより小さく出た。
「遅れるのを、怒りませんでしたか」
自分でも、なぜそんなことを訊いたのか分からない。母のことを訊いていいのだと、思ったことがなかった。
『怒るものか』
神さまの声が、少し笑う。
『遅れるたびに、腹に手を当てて笑っておった。「のろまさん」と呼んでな。踊りの拍子を、わざと遅らせてやることもあった。お主が追いつけるように』
床に置いた手が、動かなくなる。
のろまさん。
記録簿の長い名前より前に、私には呼び名があった。
それを知っている人は、この世にもういない。いないと思っていた。
この十年、合わせてきたのは、いつも私のほうだ。床磨きの速さも、起き上がる間も、声を出さない間も。遅れれば蹴られるから、遅れないように、遅れても分からないように。
そんな私に、拍子を遅らせてくれた人がいた。私がまだ、誰にも測られていない頃に。
母が死んだあと、私には乳母がついたそうだ。三人とも、逃げた。産毛が、日ごとにあの色になっていったので。
四人目は、逃げなかった。誰だったのかは、知らない。私が三つになった春に、来なくなった。
その人も、私のために、拍子を遅らせてくれたのだろうか。
「神さま」
『うむ』
「母が死んだ夜。神さまは、どこにいらしたんですか」
訊いてはいけないことだと、分かっていた。訊いた。
神さまは、すぐには答えない。
『床の高さに、おった』
静かな声だった。
『何もかもを止めてやれるわけではない。それは、お主も、もう知っておろう』
「……はい」
十年の床が、それを知っている。
『じゃが、ひとりで死なせはせんかった』
神さまの声が、ひとつ、低くなる。
『あの夜、あの部屋で、お主の母の手を握っておった者がおる。熱い手じゃった。最後まで、お主の名を呼ぼうとしておった』
目の奥が、熱くなる。
『それにな。お主が生まれた夜に、わしはもう一つ、聞いたものがある』
「聞いたもの」
『それは、まだ言わん。お主が自分の帳面を持ったとき、言う』
喉の奥が、ひくりと鳴った。
なにか言わないと、こぼれる。
「……ずるいです」
言えたのは、それだけだった。冗談にしないと、続きが言えなかった。
『神は、たいてい、ずるい。じゃから、床の高さにおる』
私は雑巾を桶にかけて、立ち上がる。
目の奥が熱い。鼻の奥まで熱い。
今泣いたら、きっと止まらなくなる。だから、泣かなかった。
その代わり、腹に手を当てた。
あの人がしていたように。少しだけ、遅れて。
掌の下が、温かい。
十歳の冬から、ずっとそこにある温かさだ。神さまが温めてくださっているのだと、私はそれを、当たり前のことのように思ってきた。
同じ場所に、手を当てていた人がいる。
私が追いつくのを、待っていた人がいる。
掌を離さずに、立っていた。高窓の外を、雲がひとつ、ゆっくりと流れていく。
窓枠に、手を伸ばす。
鳩は、逃げなかった。
ひと冬、一度も触れさせてくれなかった小さな体が、私の指先のすぐそばにいた。傾いた足で、じっと立って。
私は、触れない。
触れる代わりに、言った。
「行ってきます」
鳩は、鳴かなかった。ひと冬、一度も鳴かなかったのと同じに。
ただ、傾いた体で一度だけ私のほうへ首を伸ばして、それから、飛び立った。
東の空へ。北ではなかった。
けれど、私は北へ行く。
三度目の鳩のように、戻らないつもりで。
回廊の床は、もう乾いていた。私が磨いたところは、朝日を受けて白く光っている。
昼の祈祷の鐘が、鳴り始めた。
その鐘の音にまじって、回廊の向こうから、急ぎ足の靴音が近づいてくる。誰かが、私を探していた。




