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お飾り聖女と氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第一章 床磨きの聖女

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第2話 お飾り聖女は、今日も床を磨いている(二)



「神さま。今の、どういう意味ですか」

『うむ』

「うむ、じゃなくて」

『答える。答えるが、先に鳩じゃ。お主が遅かったから、あれは待っておる』


 私は顔を上げた。


 東の回廊の、三本目の柱の脇の窓。その石の枠の右端に、山鳩がいた。


 薄茶色の羽に、鱗のような黒い模様。首には、青と白の細い縞。人の足元をうろつく街の鳩とは違う、用心深い鳥だ。


 それなのにこの一羽だけは、ひと冬、毎朝この窓枠に来る。


 左の足が、少し曲がっている。折れたところが、変なふうにくっついたのだろう。止まるとき、いつも体が右に傾く。


 いつもは、私が三本目の柱に着く頃に、ばさりと降りてくる。今日は私が遅れたので、鳩のほうが先に来て、傾いた体でじっと待っていた。


 私は雑巾を桶の縁にかけて、袖の中から麻布の小さな包みを取り出した。中には、麦の粒がひとつまみ入っている。


 穀物庫の床掃除は、週に一度の私の仕事だ。床板の隙間に落ちた麦は、本当なら捨てるもの。それをひと粒ずつ拾って、袖の包みに溜めている。


 パンをやってはいけないと教えてくれたのは、厨房のいちばん年寄りの下働きの女の人だった。


「鳥の腹は人の腹とは違う。パンは腹の中でふくれて、鳥を弱らせる。やるなら、粒のままの麦だ」


 鶏に向かって、私に聞こえるところで、そう言ってくれたのだ。


 私に向かって言ったのではなかった。それでも、あれは私に教えてくれたのだと思っている。


 窓枠の右端に、指先で麦を置いて、少し離れてしゃがむ。


 山鳩は首を傾げて私を見てから、傾いた体で二歩跳ねて、麦をついばんだ。小さな嘴が、こつ、こつ、と石を叩く。


「今日は、遅くなってごめんね」


 山鳩は答えない。ひと冬、一度も鳴いたことがない。


 雄の山鳩は、朝、屋根の上で長々と歌う。だからこの子は、たぶん雌だ。


 食べ終わると、山鳩は羽をふくらませて、まん丸くなった。丸くなると、首の青い縞が、少しだけ広がる。


 その丸さを見たくて、三本目の柱まで急ぐ朝もあった。


 大聖堂には、窓が百以上ある。もっと暖かい場所も、餌の多い場所もある。それなのにこの一羽は、この窓の右端にしか来ない。


 理由は、ひと冬かけて見つけた。右端の石だけ、色が薄いのだ。


 昔割れたところを、違う石で継いだのだろう。その石は日を吸うのが早くて、朝いちばんに温まる。


 足の悪い鳩は、いちばん早く温まる場所を、ちゃんと知っていた。


「賢いね、あなた」


 鳩の向こうに、灰色の空が広がっていた。北は、あちらだ。


    *


 ――十歳の冬に、私は一度、死にかけたことがある。


 隙間風の吹きこむ物置小屋で、ひどい熱を出した。誰も、来ない。


 薄い毛布にくるまって、天井の染みを数えた。七つ。八つ目を探しているうちに、目の前が暗くなった。


 怖いときに数を数える癖は、たぶん、あのとき始まった。


 ああ、私はここで死ぬのかもしれない。


 そう思った瞬間、頭の中に、見たことのない景色が流れこんできた。


 四角いビルが立ち並ぶ街。夜遅くまで明かりの消えない職場。


 満員の電車。終電間際のコンビニで買ったおにぎりと、ぬるくなったお茶。


 疲れきって帰り着いた狭い部屋で、布団の中でこっそり開いた、一冊の本。


『雪嶺の白竜戦記』。


 心をすり減らしていた前世の私が、何度も読み返した物語だった。北の雪と、氷の城と、誰にも心を開かない辺境伯の物語。


 あの本を開いているあいだだけは、上司の声も、鳴りやまない電話も、忘れていられた。


 三日ぶりに熱が引いて目を覚ましたとき、私はすべてを理解していた。ここは、あの小説の世界なのだ、と。


 百合の香りと一緒に、神さまが初めて声をかけてくださったのも、その夜のことだった。


 その夜から、小屋の寒さは、私の体の底までは届かない。


 ――すまんのう。ずっと、そばにおったんじゃよ。


 それが、最初の言葉だった。「ずっと」がいつからなのか、私はまだ一度も訊いていない。


 それから七年、神さまは私に、祈りの文句をひとつも教えなかった。教わったのは、たとえば、こういうことだ。


『顔を見せてもらえんのなら、手を見よ。手は、嘘が下手じゃ』

『名を覚えよ。名を呼ばれん者はな、だんだん、自分が誰じゃったか分からんようになる』


 嫌な人の名前は覚えたくないです、と、一度だけ言い返したことがある。


『覚えんでよい。それは、わしが覚えておる。お主は、覚えたい名が来た日に、覚えよ。それまで、空けておけ』


 だから私の中には、空けたままの場所がある。七年間、まだ誰も入っていない。


 そのかわり、毎晩ひとつだけ、決まって口にすることがある。物置小屋の土間で、薄い毛布にくるまって、北のほうを向いて。


「閣下が、今夜は、眠れていますように」


 原作の閣下は、眠らない人だった。夜が更けても、執務室の灯りが消えない人だった。


 会ったこともない人のために祈るなんて、おかしなことかもしれない。けれど、この世界のどこかに、あの人は本当にいるのだ。それなら、誰か一人くらい、あの人の眠りを祈っていてもいいと思う。


 それが、私の推し活の、いちばん最初だった。


 そうわかってしまえば、毎日の見え方も、少し変わる。前世で理不尽な上司と終わらない残業に耐えた私は、怒鳴られることにも、悲しいかな、すっかり慣れていた。


 床磨きと水汲みのおかげで、足腰だけは丈夫だ。硬いパンも、冷たい井戸水も平気だ。物語の舞台の北の大地は、一年の半分以上が雪と氷に閉ざされている。


 物語の中で、閣下のもとへは、王家から一人の花嫁が送られてくる。


 名前は書かれていない。「王家の娘」とだけ。三ヶ月で城を追い出されて、それきり物語から消えてしまう、三行だけの人だ。


 私のことかもしれないし、違うかもしれない。


 ……まさかね、と思う。思いながら、硬いパンをかじって、冷たい井戸水で顔を洗う。


 だからこれは全部、そこで生きるための準備運動。


 少なくとも私は、そう思うことにしている。


『準備運動、のう』

「何ですか」

『いや。お主が「準備」と呼んでおるものを、わしは別の名で呼んでおる、というだけじゃ。教えんぞ。教えると、お主は照れて、床を磨く手が速うなる』


 鳩が、羽をふくらませたまま、首を傾げてこちらを見ている。


『よう見ておるのう、セラ。あの石はな、百二十年前に落雷で割れて、麓の石屋が継いだものじゃ』

「石屋さん」

『「色が合わん、色が合わん」と、三日、飯が喉を通らんほど気にしておった。継ぎ目がわからんように、と、わしに山鳩を二羽、供えていきおった』

「二羽」

『うむ。継ぎ目は、いまだに丸見えじゃ。願いは、そのままの形では聞いてやれんかった』

「でも、百二十年たって」

『その石の上に、足の悪い山鳩が座っておる。石屋は知らん。鳩も知らん。知っておるのは、お主とわしだけじゃ』

「神さま。それ、遠回りが過ぎませんか」

『わしの仕事は、たいていそれじゃよ。近道を通ると、人間は「奇跡じゃ」と騒いで、わしをまた高いところへ担ぎ上げようとする。担ぎ上げられるとな、高いところから下りられんようになる。下りられんと、お主の隣に、座れんじゃろう』


 神さまは、ふと思い出したように付け足した。


『ついでに言うとな。「色が合わん」と三日悩んだあの男は、名を、ヨルクという。誰も覚えておらん。石屋の孫の孫すら、もう知らん』

「でも、神さまは覚えていらっしゃる」

『うむ』

「ヨルクさん」

『今、この世で、二人になった』


 私は、色の薄い石を見る。名前を口にしただけなのに、その石が、さっきより少しだけ、他人ではなくなった気がした。


『それにな、セラ。鳩は、昔からわしの印じゃ。大昔、大水で世界じゅうが沈んだとき、箱舟の男が、水が引いたかどうかを確かめるために鳩を放った』

「本で読みました。三度目の鳩は、戻らなかったんですよね。帰る場所を見つけたから」

『そうじゃ。あの男はな、三度目に鳩が戻らなんだとき、初めて泣いた』

「悲しくて、ですか」

『嬉しくてじゃ。戻ってこん、ということは、鳥の住める場所が、もう一度できたということじゃからのう』

「戻らないのが、いい知らせだったんですね」

『そうじゃ。覚えておくとよい。戻ってこん者は、見捨てたのではないことがある』


    *


 泥水を拭き終えて、回廊が乾きはじめた頃、柱の陰から小さな足音がした。


 監督役の子だ。十二歳くらい。


 私がさぼっていたら司祭さまに報告するよう、この冬から言いつけられている。さっきも、二本目の柱の陰にいた。


 痩せていて、見習いの服の袖が指の先まで来ている。黒い短い髪。頬にはまだ子どもの丸みがあるのに、鼻筋だけが先に大人になりかけていた。


 目が、動かない。子どもの目はよく動くものなのに、この子の目は、動かずに、じっと見る。


 名前は知らない。司祭さまは「そこの」と呼び、年上の見習いたちは「新入り」と呼ぶ。秋に来た子で、祈りの列では、いつもいちばん後ろにいる。


 その子は、私ではなく、床を見ていた。乾きかけた大理石の、赤黒い染みのあたりを。


「……それ。昼までに、消えるのか」


 私は顔を上げた。


 目が合う。見習いの子は、目を逸らさなかった。この目を見て逸らさない人を、私は神さまのほかに知らない。


 高窓から、冬の朝の光が、二人のあいだの床に、細く落ちている。


「たぶん。水で薄めれば、色は落ちます。血の跡は、乾く前なら」

「そうか」


 それだけ言って、その子は柱の陰に消えた。


 雑巾をひと往復させたころ、戻ってきた。手に、乾いた麻布を一枚持っている。私の雑巾より、ずっときれいな布だ。


 その子は、それを床に置いた。私に渡したのではなく、床に、置いたのだ。


「余ってた」


 それだけ言って、今度は本当に行ってしまった。


 見習いに配られる布は、一枚だけ。次は春まで来ない。余るはずがなかった。


 拾って、膝の上に置く。端が、きちんと揃えて畳んである。


 動けなかった。


『あの子はな』


 神さまの声がする。


『お主が山鳩に麦をやるのを、三十日、柱の陰から見ておった』

「はい。たぶん、知っていました。桶に水が入っていた朝から」

『あれも、あの子じゃ。今日の布もな』


 私はもう一度、膝の上の麻布を見た。


『お主は、足の悪い鳩に麦を置いた。あの子は、蹴られたお主に、水と布を置いた。同じことじゃ』

「私は、鳩にしていただけです」

『鳩でも人でも、形は同じじゃよ。いちばん後ろにおる者のところへ、誰も見ておらん朝に、頼まれもせんのに降りていく。あの子は、その形を、お主から覚えた』


 神さまの声が、少しだけ嬉しそうになる。


『それはな、わしの仕事なんじゃ。この回廊で、わしの仕事をする者が、今朝、二人になった』

「二人」

『お主と、あの子じゃ』

「……神さまって、偉い方なのに、低いところがお好きなんですね」

『好きじゃのう。だいたい、しゃがんでおる』


 ちっとも偉そうじゃない、楽しそうな声だった。


 もらったのは、布ではなかった。


『それでな、セラ。あの子の名じゃが』

「はい」

『あの子の名は、ノアという』


 私は、顔を上げる。


 神さまの声が、そこで少しだけ、遠くなった。古い歌の一節を、口ずさむときのように。


『……良い名じゃ。わしは、この名を、何度か呼んだことがある』

「箱舟の人、ですか」

『それもある』


 神さまは、何かを思い出したように、くすりと笑った。


『あの子の家の者はな、昔から、よう数える。それから、気になる者がおると、柱の陰から、じっと見ておる』

「……三十日、ですもんね」

『うむ。わしは、ああいう子の名を、呼んでやりたくなるのじゃよ』


 神さまの声が、少しだけ低くなる。


『司祭は「そこの」、見習いどもは「新入り」じゃ。この聖堂には、あの子を名で呼ぶ者がおらん』

「秋から、ずっと、ですか」

『ずっとじゃ。名を呼ばれん冬というのは、長いぞ。子どもにとってはな』

「……でも、神さまは」

『うむ。わしは、覚えておる。ヨルクと、同じにな』

「……ノア」


 誰もいない回廊で、言ってみた。その名前は石の床に落ちて、少しだけ響く。


『うむ。これで、あの子の名を口にした者が、この冬、一人できた』


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


『それでな、セラ。覚えたい名が来た日に覚えよ、と、わしは言うたな』

「はい」

『今日、二つ来たのう。石屋と、あの子じゃ。七年空けておいた場所に、初めて入った』

「……はい」

『書きとめておくとよい。人の手は、わしと違うて、忘れるからのう』

「帳面、ですか」

『お主の帳面には、まだ誰も載っておらん。じゃが、その帳面は、いずれ、ある者の帳面と並ぶ』

「ある者、って」

『言わん。ひとつだけ言うなら、その者の帳面には、十二の名しか載っておらん。九年、増えておらん』


 私には、何のことかわからない。わからないのに、なぜか胸のどこかに、その言葉を書きとめておいた。


 紙は、まだない。炭のかけらなら、竈の脇にある。今夜、麻袋の底の、絹の布の隣にでも書こう。


 ヨルク。ノア。


 二人、載った。


 空けておいた場所が埋まるというのは、思っていたよりずっと、あたたかいことだった。


    *


「それで、神さま。さっきの『最後』の話ですけど」


 雑巾を絞ると、茶色く濁った水が、ぽたぽたと石の上に落ちる。


「エレオノーラさまとジュリアン殿下、ここに来る前に、廊下の隅で何かこそこそ話していましたよね。『帝国』とか『使節』とか、聞こえました」


 絞った雑巾を、もう一度、桶に浸す。


「それから王妃さまが、殿下に『口を開くな』って。いつものことですけど、今日は、いつもより念を押していた気がして」


 神さまは、すぐには答えなかった。高窓のほうで、山鳩が一度、羽を鳴らす。


 それから、ほんの少し悪戯っぽい声がした。悪戯っぽいのに、どこか痛むような声。


『うむ。いよいよ、あの者らの企みが、動きはじめるぞ』

「動きはじめる?」

『北の氷竜辺境伯のもとへ、お主を「生贄」として嫁がせる。その手筈が、とうとう整ったそうじゃ』


 私の手が、止まった。


読んでくださって、ありがとうございます。


『覚えんでよい。それは、わしが覚えておる』


柱の陰から見ていた男の子の名前に、少しだけつながる短編があります。


『余命十日の薬草姫は、十五年後の梨を植える』


数えるのが得意な苗屋さんと、鈍すぎるお嬢様のお話です。こちらだけでも読めます。作者名から、のぞいてみてください。

URLはこちら

https://ncode.syosetu.com/n5185mw/

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