第1話 お飾り聖女は、今日も床を磨いている(一)
母は、足首に鈴をつけて踊る人だったそうだ。私を産んだその夜に、死んだ。
生まれてから十七年。私の名前をやさしく呼ぶ人は、この王都に、ひとりもいない。
――神さまの、ほかには。
*
「おい、床磨き」
振り向くより先に、ドスッ、と重い衝撃が脇腹を深くえぐった。
いつものことだ。
蹴られたのだと頭ではわかっていても、体のほうはどうにもならない。抱えていた真鍮の手桶が腕からすっぽ抜けて、ガランと二度跳ね、私は冬の朝の冷たい大理石の上に転がった。濁った水が白い回廊に広がって、床に打ちつけた頬まで這ってくる。
声は出なかった。息の吸い方を忘れて、喉がヒュッと鳴っただけだ。
十点満点で、六点。
踏み込みの溜めはよかったし、腰も入っていた。減点は軸足だ。ずれたのは床が滑ったからで、床が滑るのは、さっき私が雑巾で拭いたからだ。つまり半分は私のせいなので、殿下に文句を言う筋合いはない。
痛い。痛すぎて、いっそ笑えてくる。
でも、笑ってはいけない。笑えば生意気。呻けば芝居。すぐに起き上がれば反抗。どれを選んでも同じものがもう一度飛んでくることを、私は十年かけて、身にしみて覚えた。
だから額を泥水につけたまま、心の中で五つ数える。数え終わってから、下を向いたままゆっくり起きる。それがいちばん早く終わる方法だ。
いち。
息が、戻ってきた。
に。
蹴りだけは、年々うまくなる。
さん。
し。
金糸の長靴が、回廊の奥を向いた。
ご。
悲劇のヒロインには、ならない。殿下が書いた台本どおりに泣いてあげるほど、私は親切ではないのだ。
私は下を向いたまま、ゆっくりと体を起こした。
「ほら見ろよ、母上。今日も床に這いつくばって、泥を撫で回してるぜ。お飾り聖女様は」
頭の上から、聞き飽きた声が降ってきた。
「大聖堂の床が光ってるのは、こいつの唯一の取り柄だ。……いや、取り柄と言うのも褒めすぎか。犬だって、教えれば床くらい舐める」
(講評。声量は十分。ただ、言い回しが先週と同じ)
この国の第一王子、ジュリアン殿下。二十歳。
殿下は私を蹴ったあと、必ず母親のほうを見る。何年か前に、そのことに気づいた。犬に芸をさせた子どもが、褒めてほしくて大人の顔を見上げるのと、同じ目だ。
それが少し可哀想に見えてしまうのは、蹴られている側の余裕なんかではない。誰かに見てほしい子どもの目なら、私もよく知っているからだ。
回廊の奥で、王妃エレオノーラさまは殿下を見ていなかった。扇の陰で、自分の靴の先を見ている。
その手前、二本目の柱の陰に、小さな影がひとつあった。見習い僧の服の裾だけが見えて、すぐに引っこんでしまう。
長靴が、また、こちらを向いた。
「おい、聞いてんのかセラ! 返事もできねえのか、このウスノロ! 母上が見ていらっしゃるんだぞ。少しは泣いてみせろよ。みっともなく、な!」
怒鳴り声と一緒に、金糸の長靴が、今度は私の右手の上に下りてきた。
ぐり、と体重がかかる。靴底が左右にねじられて、床の目地の砂利が手の甲の薄い皮膚を裂いていく。滲んだ血が泥水と混ざって、白い大理石の目地が赤黒くなっていった。
ああ、せっかく磨いたところなのに。
そのとき私が思ったのは、そんなことだった。
「ジュリアン、そのくらいになさい」
幾重にも重ねた絹の擦れる音と、むせるほど甘い香水の匂いが近づいてきた。後ろには、扇を持った侍女が三人ついている。
王妃さまは宝石を縫いこんだドレスの裾を少しだけ持ち上げて、私から大きく距離を取って立ち止まった。道端で死んだネズミを見つけたときの、あの避け方。
「そんな薄汚いものに触れては、靴が汚れます。帝国から取り寄せた金糸ですよ」
「は、はい、母上」
殿下は、ようやく私の手から足をどけた。従者が駆け寄ってかがみこみ、絹の布で長靴の先を拭っていく。殿下はそのあいだも、自分の靴ではなく、母親の顔を見ている。
母親は、その顔を見なかった。
従者が立ち上がろうとしたとき、殿下はその手から布を取り上げて、ひらりと泥水の上に落とした。
「おいドブネズミ。その泥水、ひとつ残らず舐めて綺麗にしとけよ。布はくれてやる。お前に触った靴を拭いた布なんざ、二度と使えねえ」
侍女たちが扇で口元を隠して、くすくすと笑う。笑い声が、回廊の高い天井へ広がっていく。
王妃さまは笑わずに、扇をぱちりと閉じて、窓の外を見た。
「行きましょう。午後は、帝国の使節との茶会です。ジュリアン、あなたは口を開かないこと。笑っていればよろしい」
「……はい、母上」
殿下の声が、少しだけ小さくなる。
今日も、泣かなかった。
足音と笑い声が回廊の向こうへ遠ざかって、遠くで扉の閉まる音がする。甘い香水の匂いだけが、まだ空気の中に残っていた。そこまで確かめてから、大きく息を吐く。
「はあ。痛かった」
口に出してみると、なんだか少しすっきりした。
点をつけるのは、前世で覚えた、理不尽をやり過ごすためのコツだ。蹴ったほうに点をつけていれば、私は蹴られている娘ではなく、審査する側でいられる。
脇腹をかばいながら、四つん這いになって、泥だらけの膝を立てた。ひとつ動くたびに、肋骨がいちいち文句を言ってくる。
右手を目の前に持ち上げてみると、甲が赤紫に腫れていて、指を曲げただけでずきんと手首まで痛みが走った。骨は、たぶん大丈夫。ひびくらいは、入っているかもしれないけれど。
泥水の中に、さっきの絹の布が沈んでいた。拾い上げると、薄くて、指に吸いつくようだった。麻しか触ったことのない手でも、本物の絹だとわかる。
(くれる、って言った)
水で濯げば、まだ使える。何に使うかは、まだ決めていない。
私はそれを固く絞って、袖の中にしまった。厨房の料理長さんがパンを包んでくれた、麻布の隣に。
殿下から頂いた、生まれて初めてのものだ。泥の中から拾ったものだということは、考えないことにした。
袖の中で、絹はすぐに冷たくなった。
*
蹴られた拍子に、頭に巻いた麻布がずれていた。腫れた右手は使えないので、左手だけで結び直す。髪がひと筋もこぼれていないか、指先で確かめてから。
私の名前は、セラという。宮廷の記録簿には「セラフィーナ」と書かれているらしいけれど、その名前で呼ばれたことは一度もない。
一応、この国の第一王女だ。一応、というのが、大事なところだ。
母は、旅の一座の踊り子。王さまが一度だけ見初めて、王城の西の端の部屋に住まわせた。母はそこで私を産んで、その夜のうちに、いなくなった。
母について知っていることは、あの鈴と、もうひとつ。厨房でいちばん年寄りの下働きの女の人が、一度だけ教えてくれた。「あんた、生き写しだよ。その布さえ、なけりゃね」と。
私が母から受け継いだのは、夜明け前の空の色をした薄い灰紫の髪と、菫色の瞳だった。王都では、これを「不吉な色」と呼ぶ。だから私は、頭に麻布を巻いて、顔を隠して生きてきた。
それでも王家が私を手放さなかったのは、母の血筋が、神の声を聞いた初代の聖女につながっているからだ。その直系の娘は、生まれながらに最高位の聖女になる――はずだった。
七歳の日、大聖堂の『神聖測定の間』で、神力を量る測定器の針は、ぴくりとも動かなかった。五度測り直しても、零。その日から、私は『神に見放された欠陥品』になった。
それから十年。王女という身分は名前だけで、持っているのは、麻の修道服が一枚と、残り物のパンだけ。日の出から日暮れまで、大聖堂の床を磨いて暮らしている。冬の朝の大理石は、手のひらが張りつきそうなほど冷たい。夏の昼は、閉めきった回廊に、埃の匂いがこもる。
聖女の血筋に生まれながら、何の力もない、お飾りの聖女。
それが、私だ。
――と、王都の人たちは思っている。
本当の持ち物は、三つある。
丈夫な足腰。前世の記憶。それから、十歳の冬から私に話しかけてくださる、神さま。
*
ふわり、と風が吹いた。
窓はどこも開いていないのに、足元の大理石から、すうっと冷たさが引いていく。よく晴れた春の午後に、日だまりへ腰を下ろしたときのような温もりだった。
鼻先をくすぐるのは、甘くて、どこまでも澄んだ百合の香り。残っていた香水の匂いは、あっという間に消えてしまった。
『やあやあ、セラ。今日もまた、ずいぶん元気に踏まれておったのう。あばらは折れておらんかい?』
頭の真ん中に、のんびりとした声がぽわんと響いた。縁側で渋いお茶をすすりながら、通りがかりの子どもに飴玉を配っていそうな、近所のおじいちゃんの声だ。
この声の主こそが、この世界をお創りになった、唯一の神さまご本人である。
と、ご本人はおっしゃっている。少なくとも私は、十歳の冬から、ずっとそれを信じている。
「見てらしたんですか。今日も絶好調に理不尽でしたよ」
私は、腫れた右手をひらひらと振ってみせた。
「あばらは折れていません。ひびは入っているかもしれませんけど。右の三本目あたりが、きしきし言っています」
『三本目か。先月は四本目じゃったのう』
「はい。蹴りの位置が、少し上がりました。殿下、背が伸びたんでしょうか」
『伸びとらん。靴の踵が高うなった。母親に「背が低い」と言われたのが去年の秋で、あれから靴屋が三度、呼ばれておる』
「それは、ちょっと、可哀想ですね」
『うむ。わしも、少しそう思う。じゃが、それとお主のあばらは、別の話じゃ』
誰もいない回廊で宙に向かって話しているのだから、はたから見れば、頭のおかしな娘だろう。見習い僧に見られたら、また『不吉な子』の噂がひとつ増えるに違いない。でも、私にとっては、これがごく当たり前の毎日だった。
「今日も、殿下に言われました。神に見放された欠陥品、って」
『見放した覚えは、ないんじゃがのう』
いつもの返事だ。何十回聞いても、この返事を聞くと、私は少しだけ笑ってしまう。
殿下が私を何と呼んでも、神さまは一度も、私を欠陥品とは呼ばなかった。
神さまは、あの測定の日のことを話すとき、針の話はなさらない。いつも、私の首の後ろの話をなさる。糊の効いた白いドレスの襟で、赤くなっていた首の後ろ。あの日、わしは隣で、ずっとそこを見ておった、と。
そのことを思い出すと、体の底がほんのりと温かくなって、膝が立った。左手にも、ちゃんと力が入る。
痛いことは、痛い。それでも、立てる。今までずっと、そうだった。
高窓から差す光が、ちょうど私の手元まで届いていた。腫れた右手の上で、色ガラスの赤と金が、小さく揺れている。ほどけかけた麻布の端から、灰紫の髪がひと筋こぼれて、その光の中で淡くきらめいた。
「いいんですよ、神さま。あの出来の悪い測定器のおかげで、誰にも邪魔されずに、前世を思い出してからずっと『推し活の準備』に専念できたんですもの。それに」
私は、床に広がった泥水を見る。
「神さまが、ここにいらっしゃるって、知っていますから。回廊の床の高さに」
『……うむ』
声が、少しだけ揺れた気がする。
『雲の上にも、おるよ。じゃが、あそこからでは、お主の首の後ろが見えん』
私は左手で雑巾を拾って、泥水を拭きはじめた。昼の祈祷までに回廊が乾いていなかったら、また叱られてしまう。雑巾を滑らせるたびに、床は少しずつ白さを取り戻していく。
いつも通りの朝に、戻ろうとしていた。
けれど神さまは、ふいに、いつもと違う声でおっしゃった。
『セラや』
「はい」
『今日のが、最後じゃ』
「何が、ですか」
『あの金糸の靴の、蹴りじゃ。お主は、二度と、あの床に頬をつけん。それだけは、わしが決めた』
雑巾を持つ手が、止まった。
「10月18日に、読みやすく整えました」




