第10話 氷の辺境伯は、腹の虫に嘘をつけない(一)
螺旋階段は、長かった。
石段は一段ごとに少しずつ冷たくなっていくようで、五十段を数えたあたりで、吐く息が白くなった。壁の燭台の火が、私たちの影を長く伸ばしたり、縮めたりする。その二つの影の後ろに、もうひとつ、低くて大きな影がついてきていた。
灰色の犬は、一段ずつ、私と同じ速さで上ってくる。年老いた犬の足取りだ。けれど、一度も止まらない。
「グラウ」
ギルバートさまが階段の途中で振り返る。
「戻れ。お前がついていく相手は、そちらではないだろう」
犬は声のほうを一度見て、それから私を見る。そして、そのまま次の一段を上った。
眼鏡を押し上げて、深く息を吐く音がした。
「九年、閣下が『来い』と言えば来ましたし、『戻れ』と言えば戻りました。私が言っても、動いたことは一度もありません。ですから、今のは、私の失言です。無視してください」
「ギルバートさまも、グラウに餌をあげていらっしゃるんですよね」
「毎朝。尾を振られたことは、一度もありませんが」
「それでも、毎朝」
ギルバートさまは、階段を上る足を、ほんの一瞬だけ止める。
「……貴女は、人のことを、よく見すぎます」
「床を磨いていると、見えるようになるんです。誰にも見られない仕事を、毎朝続けている人のことは」
それきり何も言わずに、また上り始める。ただ、その背中が、さっきより少しだけ、まっすぐになった気がした。
犬の爪が石段を叩く音が、私たちの後ろから、こつ、こつ、とついてくる。
最上階の踊り場に着く、その手前で、爪の音が速くなった。
灰色の犬が、私の脇をすり抜けて、ギルバートさまも追い越していく。重い樫の扉の前で立ち止まると、鼻先で、ぐい、と押した。
慣れた仕草だった。何百回も、何千回も、そうしてきた犬の。
扉が、開いた。
犬は、中へは入らない。開いた扉の脇に座って、私を振り返る。
ここだ、と言うように。
ギルバートさまが、扉の取っ手に伸ばしかけた手を、そのまま宙で止めていた。
執務室は、息が白くなるほど凍てついている。
広い部屋だった。壁一面の書架には革表紙の帳簿や地図の束がぎっしりと詰め込まれている。
天井は高く、窓は大きく、そして暖炉は、あった。あったけれど、燃えているのは申し訳程度の小さな火だけだ。太い薪が一本、半分だけ燃えて、あとは灰。
(この広さの部屋に、薪一本)
薪を惜しんでいるのか。それとも、この部屋の主が、暖かさそのものを遠ざけているのか。私はそれを、頭の隅に置いた。
そして、部屋の奥。大きな窓の前に、その人は立っていた。
黒檀の机の向こう、窓際。こちらに半分背を向けて、窓から入る最後の光に、書状を一枚かざしている。
「閣下。お連れしました」
ギルバートさまが扉の内側で足を止める。
「そこで待たせろ」
振り向きもせずに、その人は言った。書状から目も上げない。
ギルバートさまは黙って一礼し、扉の脇に控える。慣れた動きだった。
王都からの使いは、まず待たせる。原作の閣下も、そうだった。急ぎの用で来た者ほど、長く待たせる。待たされて苛立つ者は、それだけで底が知れるから。
私は、苛立たなかった。
扉のすぐ内側、その斜め後ろに立ったまま、その人を、ただ見ていることができたから。
最初に目に入ったのは、背中の線だった。
背が、高い。大きな窓の半分が、その肩でふさがっている。黒い軍装の上着は、喉元の釦まで、きっちりと留めてあった。
広い肩から細い腰へ、一本の線がまっすぐに落ちていく。若い樅の木のようだった。雪を載せても、しならない。
息が白くなるこの部屋で、外套は着ていない。寒いのは、この人も同じはずなのに。
閣下が、書状を一枚めくった。紙の擦れる音が、静かな部屋に大きく響く。まだ、こちらを見ない。
夕暮れの最後の光が、その輪郭だけを、薄い金で縁取っていた。
銀灰色の髪は額から後ろへ撫でつけてあって、光の加減で、銀にも、灰にも、月の色にも見える。一筋だけが、こめかみに落ちていた。髪を直すことに、一瞬でも時間を使わない人の一筋だ。それが、ひどく、よく似合っていた。
閣下が、書状を窓のほうへ少し傾けた。横顔が、光に浮かぶ。
(……若い)
挿絵の閣下は、いつも吹雪の中で、もっと年上に見えた。けれど、この人は、まだ二十五なのだ。
まっすぐに通った鼻筋。頬から顎へ、ためらいのない一息で引かれた線。頬骨のあたりだけが雪の照り返しに焼けて、うっすらと陽の色をしている。
白粉のような王都の白さではない。冬の外に立ち続ける人の肌だ。襟に隠れた首筋のきわだけが白く、そこに、少年の名残のような細い硬さがあった。
新雪の朝の空気のような人だった。冷たくて、澄んでいて、吸いこむと、胸のいちばん奥まで、まっすぐに届く。
その澄んだ顔に、影が二つだけ差している。
眉間に一本、二十五の顔には似合わない皺。伏せた長い睫毛の下に、薄く青い影。眠っていない人の影だ。
指先が、書状の一行一行を、確かめるようになぞっていた。一字も読み落とさない人の読み方だった。自分にも、たぶん他人にも、一字の読み落としも許さない人の。
ただ、一枚目の三行目のあたりで、その指が、二度、戻った。
その手の甲に、古い傷跡が白く走っている。手首にも、もう一本。細く、まっすぐな傷。
原作には書かれていなかった傷だった。
息をのむほど、凛々しい人だった。
ギルバートさまは、きれいな顔をしている。誰かのために、一分の隙もなく整えられた顔だ。
この人は、違う。外套を着ない頑なさも、直さない髪も、眉間の皺も、目の下の影も、欠けたところのはずなのに、ひとつでも欠けたら、この人ではなくなる。
足りないところまで含めて、完璧だった。
暖炉の薪が、ことりと崩れた。どれくらい、こうしていたのだろう。閣下は、まだ二枚目を読んでいる。
ヴィルフリート・フォン・アイゼンベルク辺境伯。
(本物だ)
そう思ったとき、自分が息をしていなかったことに気づいた。たぶん、背中の線を見た、あのときから。
そっと、吸いこむ。凍った空気が、胸の奥まで、痛いほど冷たかった。
(顔面国宝。ここに、降臨)
――と、思おうとした。
前世の私なら、そう思って、それで済んだ。けれど、胸の中で起きていることは、推しに会えた嬉しさとは、少し違っていた。
今見たもののほとんどが、本には、書いていなかったのだ。
十年、頁の中で知っていたはずの人が、頁に書かれていないもので、できていた。
知らない人だ、と思う。
知らないのに、ずっと前から、この人を待っていた気がした。
挨拶のカーテシーも忘れて、私はただ突っ立っていた。この日のために、十年練習してきたのに。
二枚目の最後の行を、指がなぞり終えた。
書状が、折り畳まれる音。
閣下が、振り向いた。
振り向いた目が最初に捉えたのは、私ではない。私の足元だった。
灰色の犬が、私の脇にどっしりと座っている。
その目の色が、初めて、正面から見えた。
アイスブルー。冬の湖の、いちばん深いところの色。射抜く、という言葉が、これほど文字どおりに似合う目を、私は知らない。
閣下の眉が、ほんのわずかに動く。
「グラウ」
低い声。チェロのいちばん低い弦をゆっくりと弓で撫でたような声が、石壁に響いて、部屋の空気を震わせる。
「来い」
犬は閣下を見る。長いあいだ。それから尻尾を石の床の上で一度だけ、ゆっくりと掃いた。
そして、動かない。
執務室に沈黙が落ちる。
閣下はそれ以上、犬を呼ばなかった。呼んで来ないものを二度呼ぶ人ではないのだ。原作の閣下も、そうだった。命令は一度。二度目は、命令ではなく懇願になるから。
閣下の視線が、犬から、上がってくる。泥だらけの靴。雪の染みた修道服の裾。胸に抱えた麻袋。
それから、私の顔で、止まった。
長い雪道で、頭に巻いていた布はとうに解けていた。人に顔を見られることに、私は、慣れていない。
閣下は、私の目を、見た。
いち。
に。
さん。
数えていたのは、私のほうだった。怖いときに数を数える、十歳の冬からの癖。
怖かったのではない。ただ、息の仕方がわからなくなっていた。
その三つのあいだ、閣下は何もしない。眉も動かさず、姿勢も変えず、ただ、見ていた。
けれど、折り畳んだ書状を持つ指が、一度だけ、紙の端を、きゅっと押さえた。指の関節が、白くなる。
それから、何もなかったように目を逸らし、窓際から机へ歩いて、書状をその上に置く。
胸の奥の小さな火が、ぽっと灯るのではなく、音もなく、奥のほうまで燃え移っていった。
推し、という言葉を探す。十年、この人のためだけに使ってきた言葉だ。
入りきらなかった。
頁の中のあの人より、目の前のこの人のほうが、ずっと、ずるい。
(……神さま。これは、だめなやつです)
『ほう。何がだめなんじゃ』
(なんでもないです)
『そうか。なら、わしもなんでもないことを言うておこう。あの子のほうも、今、三つ数えるあいだ、息をしておらんかった。それだけじゃ』
(泥、ついてますか)
『ついておる。じゃが、あの子が息を止めたのは、泥のほうではない』
神さまの声が、少し低くなった。
『あの子はな、九年、人の顔を、ようよう見んようにしてきた。顔を覚えれば、名が知りたくなる。名を覚えれば、失くしたときに、名の分だけ痛む』
(……グラウの、名前のときと、同じ)
『うむ。あの冬に、あの子はそれを知った。じゃから、名の手前の、顔のところで、戸を閉めてきたのじゃ』
暖炉の薪が、ひとつ、小さく爆ぜた。
『……その戸を、今、お主の顔が、一度、叩いた』
(……泥、ついてますか)
『お主は、そういうところじゃ』
「先に、言っておく」
閣下は机に両手をつき、わずかに身を乗り出す。暖炉の小さな火が、その背中の向こうから長い影を投げかけて、私の足元を暗く覆う。
「王都の浅知恵など、とうに承知している。持参金条約で鉱山を半分。拒めば帝国軍。王妃の考えそうなことだ。あの女は、二十年前から、同じ手しか使わない。犬を手なずけて城に入り込む手は、初めてだがな」
「あの、犬を手なずけたわけでは――」
「貴様を引き取ったのは、政略のためだ。妻として遇する気はない。――愛することも、金輪際あり得ないと思え」
一語一語を、石に刻むような言い方だった。
「受諾書に、署名はしない。王都の紙一枚で、妻を持つ気はない。三ヶ月、貴様は妻でも客でもない。王都からの預かりものだ。城の隅で、目につかないようにしていろ。期限が来たら、王都へ返す。その先で貴様の首がどうなろうと、私の知ったことではない」
足元で、灰色の犬が、ゆっくりと伏せた。
泥だらけの私の靴の上に、顎を載せて。
閣下の目が、一瞬だけ、そこへ落ちた。




