第11話 氷の辺境伯は、腹の虫に嘘をつけない(二)
胸の、どこか奥で、音がした。
愛することはない。前世で、軽く千回は読んだ台詞だ。原作いちばんの名場面。読むたびに、閣下の孤独を思って泣いた。
けれど、あの頃の私は、頁のこちら側。言われる側ではなかった。
今は、言われる側にいる。さっき、推しという言葉に入りきらなかった、この人に。
刺さった。思っていたより、ずっと奥に。
斜め後ろのギルバートさまは、冷ややかな顔のまま、私を見ていた。けれど、その目は、関所の雪原で私を値踏みしたときの目とは、少し違っていた。ここまで言われれば、この娘の正体も、さすがに見えるだろう。そう、確かめようとしている目だった。
(十点満点で――)
気づいたら、点をつけ始めていた。回廊で覚えた、痛いものを軽くする技。
急いで、推しを見る目に戻った。
冷遇。威圧。そして、あの伝説の「愛することはない」。
声が、低すぎた。低すぎて、耳ではなく、胸の骨に直接響いた。「思え」の最後の一音が、まだ部屋のどこかに残っている。眉間の皺の深さ。机についた手の、指の開き方。暖炉の火が、その肩の輪郭だけを赤く縁取っている。
(……満点。満点に冷たくて、満点に、かっこいい。減点が、ひとつも、見つからない)
減点を探しているあいだは、「愛することはない」が胸のどこに刺さったのかを、見ないで済む。
私は胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。喉の奥から、何かがこみ上げてくる。泣きそうなのか、叫びそうなのか、自分でもわからなかった。
だから、叫ぶほうを選んだ。
「……っ」
「泣くなら、外で泣け。泣いても、条件は変わらない――」
「生の、お声……」
「…………」
閣下の言葉が、止まった。
「本物です。ありがとうございます、生きていてよかった……! かっこいいです、かっこよすぎます……! 今の『あり得ないと思え』のところ、声の低さも、眉間の皺の寄り方も、影の落ち方も、本当に、本当に完璧でした! 十点満点で、十点です! 大変恐縮なのですが、もう一度だけ、同じお言葉をいただくことは」
言い終えてから、しまった、と思った。もう一度言ってください、なんて。王都なら、この一言で、次の蹴りが飛んでくる。
けれど、閣下の顔には、怒りも、呆れも、浮かんでいなかった。
眉ひとつ動かさずに、私を見ている。その目が一度だけ、私の顔から、胸の前で握りしめた両手へ落ちて、また顔へ戻った。
目の奥で、何かが測り直されているのがわかる。値段を付け直すときの目ではない。もっと静かな、雪の深さを杖で測るときのような目。
「戯れ言だな」
低く、閣下は言う。
「だが、恐怖を隠すための戯れ言ではない。貴様の目は、揺れていない。震えてもいない」
アイスブルーの目が、一度だけ、細くなった。
その目が、私の肩に落ちる。二里の雪道で積もった雪は、とうに溶けて、麻の修道服を少し湿らせているだけだった。この部屋は、息が白くなるほど冷えているのに。
閣下は、何か言いかけて、やめた。
「よそから来て、私の前で震えなかった者は、二人しか知らない。グラウと、峠で私を殺しに来た帝国の軍団長だ。あれだけが、生きて帰った」
「光栄です」
「光栄ではない。厄介だと言っている」
後ろで、眼鏡がかちり、と鳴る。
「閣下。恐れながら」
ギルバートさまが一歩、前に出る。
「報告いたします。関所から城まで二里の雪道、この者は一度も遅れず、泣き言も言いませんでした。領内の者しか呼ばぬ竜の涙の滝の名を知っていたのは、不審です。ただ――間者にしては、隠し方が下手すぎます。そのうえ――」
ギルバートさまの視線が、私の足元に落ちる。閣下の目も、それを追った。
「……見ればわかる。そいつが、私のところへ誰かを連れてきたのは、初めてだ」
「私の目では、白とも黒とも判じかねます。ですので、グラウの鼻の判断を、併せてご報告いたします」
その声は、いつもの冷たさのままだった。けれど、その報告は、私を突き出すためのものではない。
私は、ぽかんとしてその横顔を見た。横顔は、こちらを向かなかった。
「それで。貴様は、何だ」
閣下が、訊く。
「王妃の駒か。それとも、王妃が捨てた駒か」
「どちらも、たぶん、少し違います」
私は、言葉を探した。
「私のことは、どうぞ部屋の隅の空気か、壁の染みだとでも思ってください。同じお城の空気を吸わせていただけるだけで、私にはもう十分すぎるくらいですので。掃除も洗濯も水汲みも、大聖堂で十年やっておりましたから、お邪魔はいたしません」
「壁の染み、か」
閣下は、低く繰り返した。
「王都の王女は、自分をそう呼ぶのか」
「王女ではなく、床磨きです。十年、大聖堂の床を磨いていました」
閣下の視線が、私の手に落ちる。
腫れた右手を、私は袖の中へ引っこめた。見られたくなかった。
閣下の目は、袖のほうへ一度だけ動いて、それから、左手で止まる。何も言わずに、しばらく見ている。
「両手の指の付け根に、たこがある。左のほうが、厚い。雑巾を絞る手だ。嘘は、口には書ける。手には、書けない」
自分の左手を見た。十年分のたこが、確かにそこにある。誰かにそれを言われたのは、初めてだった。
顔を見せてもらえんのなら、手を見よ。手は、嘘が下手じゃ――神さまが、物置小屋で私に教えてくださった言葉だ。
同じことを知っている人が、ここにもいた。
『あの子はな』
静かな声がした。
『兵の手を、見てきた。剣を握る手、薪を割る手、凍えた手。人の手だけは、あの子は、見間違えん。お主の手を見て、あの子は今、王都の話を、半分、疑うのをやめた』
けれど閣下は、半分しか、やめない。
「戯言は、そこまでにしろ」
声は上がらない。眉ひとつ動かない。ただ、一語ずつ、机の上に並べて置くような言い方だった。
「手にたこがあろうと、犬が懐こうと、王都から来た者を、私は信じない。泣き落としが効かないと踏んで、床磨きの娘を寄越す。奇をてらって、こちらの警戒を解く。あの王妃なら、それくらいのことは考える。犬まで使ってな」
アイスブルーの目が、まっすぐに私を射た。
「嘘は、要らない。この城に、嘘を置く場所はない」
「王妃さまは、私にそんな高度なことは期待していらっしゃいませんし、私もそんなに器用ではありません。グラウも、たぶん、干し肉が欲しかっただけです。私はただ――」
言いかけて、少しだけ言葉を選んだ。
選んで、選びきれなかった。
「――神さまがお創りになったものの中で、こんなにまっすぐなものを、私は見たことがありません! いえ、あの、お顔も、お声も、窓際のお立ち姿も、全部まとめて北の国宝に指定すべきなのですが、それはいったん置いておいて。……閣下は、ご自分だけ、暖かくなさらないんですね。この広いお部屋に薪が一本で、外套もお召しにならない。書状は、一行も読み飛ばさない。……そういう方を、こんなに近くで見られて。嬉しくて、胸が震えているだけです」
閣下の動きが、止まった。
ほんの一瞬。凍った湖の表面を、風がかすめていったくらいの、ごく小さな揺らぎだった。
それから閣下は、ふいと、顔を背けた。窓のほうへ。
窓の外は、もう暗い。見るものなど、何もないはずだった。
自分だけ暖まらないことも、一行も読み飛ばさないことも、この人にとっては、きっと当たり前すぎることなのだ。
言われ慣れていないことを言われると、人は、どこを見ればいいのか分からなくなる。門で「きれいだ」と言われたときの私も、そうだった。
長い沈黙のあと、窓のほうを向いたまま、閣下が言う。
「……神、だと」
さっきより、ほんの少しだけ低い声。怒っている声ではない。何かを、胸の奥へ押し戻すような声だった。
「この北の地に、神などいない。九年前の冬に、確かめた。……王都の大司祭どもが金の壁画の前で拝んでいるものなら、あるだろうがな。あれは神ではない。金だ」
私は何も言わなかった。言うべき言葉が、まだ見つからなかったからだ。
『うむ』
頭の真ん中で、神さまの小さな声。
『あの子は、そう言い続けておる。言われるたびに、わしは、あの子の戸を、一度、余分に叩く。それだけじゃ。腹は立たん。「おらん」と言う者はな、たいてい、「おってほしかった」者じゃからのう』
靴の上の犬の頭が、ずしりと重くなる。寝息のような、長い鼻息。
閣下の目が、また、そこに落ちた。
「もういい」
額を押さえて、閣下は椅子へ腰を下ろす。
「西棟に部屋を用意させる。ギルバート、案内は不要だ。この者なら、城の壁を撫でながら勝手にたどり着く。グラウ。お前は、残れ」
犬は閣下を見る。
そして、動かない。
「……そうか」
閣下は、低く言った。少しして、もう一度。
「……そうか」
閣下は、犬から目を逸らした。窓の外を見る。それから、こめかみに落ちていた髪の一筋を、指で、後ろへ撫でつけた。
髪を直すことに、一瞬でも時間を使わない人が。
私は、それを見逃さなかった。顔は動かない。声も動かない。指だけが、動いた。
(手なずけた、と言われた当の犬は、私の靴の上で、寝そうになっている)
「はい。お時間をいただき、ありがとうございました。あ、閣下、最後にひとつだけ」
「言え」
「夕食は、もう召し上がりましたか?」
閣下は机の上の書類から目を上げない。
「食べていない。見ての通り、執務が山積みだ。北の冬は、帳簿のほうが魔獣より手強い」
「帳簿は、お腹の空いた方には、もっと手強いですよ。門をくぐってから、ここまで上ってくるあいだ、どこからも煮炊きの匂いがしませんでした。夕暮れどきのお城なのに。お腹、空いていらっしゃいませんか?」
「余計な詮索をするな。私は腹など減って――」
言いかけたところで、小さな音がした。
くう、と。
静かな部屋でなければ、聞こえなかったくらいの音だった。暖炉の薪がはぜたのだと言われれば、そう思ったかもしれない。
閣下は動かない。書類から目を上げもしない。ただ、ペンを持つ手が、一瞬だけ止まった。
けれど、犬が頭を上げた。閣下の腹のあたりをじっと見て、それから閣下の顔を見上げて、ひと声、低く、わん。
この犬が閣下に吠えたことは、たぶん、一度もないのだろう。ギルバートさまが、そっと天井を見た。
それで、聞き間違いではなかったとわかった。
「……聞かなかったことにしろ」
閣下は書類を一枚めくる。めくられた一枚には、止まったペン先から、インクが丸く滲んでいる。
声は少しも揺れていない。表情も、何ひとつ変わらない。
ただ、めくったばかりの書類を、もう一枚、めくった。
読んでいないのは、明らかだった。
「はい」
修道服の裾をつまんで、ぺこりと頭を下げる。笑わなかった。笑いたかったけれど、この人の前で笑うのは、たぶんまだ早い。代わりに、言った。
「厨房を、少しだけお借りしてまいります」
ペンが、止まった。
閣下が、書類から顔を上げる。
書類をめくる手の忙しさは、もう消えていた。アイスブルーの目が、この部屋に入ってきたときの色に戻っている。いや、あのときより、冷たい。
「厨房、だと」
「はい。簡単なものしか作れませんけれど」
閣下はしばらく、黙って私を見ていた。王都から来た娘が、辺境伯の口に入るものを作る。その意味を、この人が考えないはずがなかった。
「好きにしろ」
それから、視線だけを、私の斜め後ろへ動かした。
「ギルバート」
「心得ております」
それだけ。二人のあいだでは、それで足りるらしい。
「作るのは勝手だ。口に入るかどうかは、別の話だ」
閣下は、また書類に目を落とした。
「薪は、五本までだ。……セラ嬢」
足が、扉の前で止まる。
「それが、この城の決まりだ。この城では、私も、五本だ」
振り返ると、閣下は書類を見ていた。ペンは、動いていない。さっきから、同じ一枚を見ている。
「はい」
(王都の王妃さまの衣装部屋には、暖炉が三つあった。……衣装のための、暖炉が)
扉を出て、螺旋階段を駆け下りる。
犬の爪の音が後ろから、こつ、こつ、とついてきた。
『セラや』
(はい)
『あの子は今、「貴様」と言うたあとで、「セラ嬢」と言い直したぞ。あの子は、言い直したことがない』
私の足が、階段の途中で、一段だけ、止まった。
それから、さっきより少しだけ速く、駆け下りる。
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