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お飾り聖女は、三行で消えるはずの花嫁でした ~生贄として嫁いだ氷の辺境伯は、前世の最推しです~  作者: 真白のあ
第六章 峠

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第57話 後編 原作にない展開です

◆ セラ


「――ミハル!」


 叫んだのは、パヴェルさんだった。侯爵の前に膝をついていた体が、跳ねるように立ち上がる。


 倒れた兵の周りで列が割れた。誰も手を出さない。何人かが振り返り、目を逸らした。見ていると、自分も倒れてしまいそうな顔で。


 私はその顔を知っている。十歳の冬、物置小屋で熱を出した夜。戸口の向こうを、いくつもの足音が通り過ぎていった。誰も戸を叩かなかった。あの人たちも、きっとこういう顔をしていたのだ。


 足が、先に動いた。


 ギルバートさまの背中の脇から、前に出る。ギルバートさまの手が一瞬、私の袖に触れた。止めなかった。止めるかわりに、私より先に、坂へ踏み出した。


「坂の下は、雪が深くなっております。私の足跡を」

「はい」


 ギルバートさまの踏んだ跡を追いかける。閣下の横を過ぎた。閣下は、私の隣に並んだ。帝国の列のある側に。同じ速さで、坂を下りていく。


 それでも、雪は膝まで来た。外套の裾が足にからんで転びかけたところを、横から閣下の手が支えた。


 外套の襟を離す。峠に立ってからずっと握りしめていた指は、寒さで固まって一本ずつしか開かなかった。ミハルさんの隣に膝をつき、外套を肩から外してその体を包んだ。閣下が着せてくれた外套は、私の熱でまだ温かい。その熱ごと渡す。


 ギルバートさまが私たちと帝国の列のあいだに立って、列のほうを向いた。閣下は私のすぐ後ろにいる。


 唇が紫だった。まつげに霜がついている。指は白く、爪に色がない。胸に耳を寄せても、息はあるのかないのか分からないほど細い。


 空が低かった。灰色の雲が峠の上に重く垂れこめて、風が止んでいた。雪だけが音もなく降りてくる。ミハルさんの頬に落ちた一片は、いつまでも溶けなかった。


 ミハルさんの右手を、両手で包んだ。指が、雪より冷たい。


 名前を呼んでも返事はない。私は凍った耳もとに唇を寄せて、声を落とした。胸の中で祈るだけでは、この人に届かない気がしたから。


「神さま、どうか、この人を温めてください。ひとりで行かせないでください。……私の手で足りるなら、使ってください」


『今日は、お主の手が、わしの手じゃ』


 手のひらの真ん中に、熱が灯った。湯気の立つ椀を両手で包んだときのような熱が、指の付け根から指先へ、包んでいるミハルさんの手の内側へと広がっていく。


 私の手そのものは冷たいままだった。指の先はとうにしびれているのに、熱だけが私の手を通って向こうへ流れていく。私は、ただの通り道だった。


 十歳の冬、誰も来なかった物置小屋で、冷たい床の上の私の隣に座っていてくださったのと同じ温かさだった。


 ミハルさんの指の先に、色が戻ってくる。白から薄い赤へ、それから、医務室で見たトビアスの指と同じ桃色へ。まつげの霜が溶けて、一粒こめかみへ流れた。紫の唇が震え、さっきまで見えなかった息が雪の上に白く立った。


『セラや。もうひとつ、渡してやってくれんか。エリシュカ。川を渡る前の晩に、この子が三度、言うた名じゃ』


 私はミハルさんの耳もとで、その名を呼んだ。


「ミハルさん。エリシュカさんが、待っています」


 まぶたが、動いた。


 開く。


 灰色の目が、私を見た。それから、私の後ろの空を見た。


「……塩、足りて、ました」


 笑いと涙が、いっしょにこみ上げてきて、どちらも止められなかった。


「はい。よかった。……よかった」


 最初に気づいたのは、頬だった。


 涙で濡れて風に削られて、痛いだけになっていた頬が、ふいに温かい。


 顔を上げると、峠を覆っていた灰色の雲の縁が、銀色に透けている。雲がほどけていく。重なっていた灰色が離れて、そのすきまから、冬の空がのぞいた。驚くほど深い青だった。


 光が、降りてくる。


 城壁のいちばん上に、細い金色の線が一本。それが石を一段ずつ伝って城門の前の雪に落ち、坂を下りてくる。ギルバートさまの肩を越え、閣下の銀灰色の髪をかすめて、雪に膝をついている私の手と、その手の中のミハルさんの手の上へ。


 あたたかい。


 光はそこで止まらなかった。坂の下へ、三千五百の槍の列へ、広がっていく。穂先に光が当たると、刃にこびりついていた霜がきらりと光って、溶けて、雫になって落ちた。列の端から端へ、穂先がひとつ、またひとつと灯っていく。


 王家の旗にも。帝国の紫の毛皮にも。城壁に並んだ百人の顔にも。村の子どもたちの赤い頬にも。光は、誰の上にも同じ明るさで降りていた。


 雪は、まだ降っている。光の外では、遠い尾根の木々に、音もなく積もりつづけている。なのに光の中には、一片も落ちてこない。私たちの頭の上まで来ると、雪はそっと向きを変えて、光の外へ流れていく。


 峠の上だけ、三千八百人の頭の上にだけ、雪が届かない。


 槍の柄に貼りついていた兵たちの指が、ほどけていった。誰かが手袋を外して、自分の手のひらをしげしげと眺めている。薄い粥で凍えきっていた三千の体に、内側から、ぬくもりが戻っていく。


 光は峠を越えて、北の尾根まで渡った。


 尾根のもみの森は、ゆうべの吹雪で、枝の一本一本、細い葉の一枚一枚まで氷に包まれていた。そこへ、光が届く。


 森が、燃えた。


 白く。音もなく。尾根の端から端まで、何万本ものもみが、いっせいに内側から灯る。風が渡るたび、こずえから氷の粉がこぼれて、光の中を落ちながら、虹の色を一粒ずつ替えていく。


 城の軒のつららの先で、光が七つの色に割れた。兵たちの眉やまつげの霜がきらめく。踏み荒らされて灰色になっていたはずの足もとの雪まで、光を抱えていた。


 誰も、磨いていないのに。


 十年、床を磨いてきた。磨けば光る。そう思って、毎朝、床にかがんだ。


 でも、ここにあるものは全部、はじめから光っていた。雪も、氷も、もみの木も。この峠に立っている三千八百人の、ひとりひとりも。


 息を吸うと、百合の香りがした。


 私の胸の中だけで香ったのではないらしい。東を向いていた兵たちが、ひとり、またひとりと振り返る。雪しかない峠で、どこかに花が咲いていないか探すような顔で、空を見ている。


 帝国の列の半ばで、ひとりの兵が、凍りついたあごひもを指でほどいた。鉄の兜を両手で外して、胸の前に抱く。槍の穂先を、雪に向けて下げる。そして、顔を上げた。


 それが、隣に移った。


 隣から、また隣へ。風が麦の穂を渡っていくように、列から列へと伝わっていく。あごひもをほどく指。外される兜。下ろされる穂先。仰がれる顔。三千の兵がそれを繰り返すあいだ、命じる声はひとつもなかった。


 坂の途中で、ベルントさんが兜を脱いでいた。ロルフさんが、クルトさんとカスパーさんが。城壁の上では、北の兵たちが弓を足もとに置き、冷えた鉄の帽子を脱いで胸に当てている。


 軍団長が、馬の上で兜を外した。白いものの混じった短い髪が、光の中にさらされる。兜を胸に抱いたまま、軍団長は長いあいだ空を見ていた。


 兄は坂の途中に立ちつくして、私の手を見ている。


 侯爵だけが、顔を伏せていた。縛られた手で、胸に抱えた絹の包みを、袖で拭きつづけている。その背中にも、同じ光が、同じ高さで降りていた。


 峠を埋めていた鉄の色が、消えていく。


 かわりに現れたのは、髪の色だった。黒い髪、茶色の髪、赤い髪、若い金の髪、白くなった髪。兜の下に隠れていた三千八百の頭が、光の中で、ひとつずつ違う色をしていた。敵も味方もなく。北も東もなく。


 息をする音さえ、雪に吸われていく。遠い尾根で、霧氷が枝からほどけて崩れる音が、かすかに、かすかにした。


 三千八百の顔が、同じ空を見上げている。


 私もミハルさんの手を握ったまま、空を仰いだ。底の見えない、どこまでも澄んだ冬の青。そのいちばん高いところから、光はまだ降りつづけていた。


 パヴェルさんが雪をかき分けて来た。ミハルさんの隣にしゃがんで、黙ってその背中を抱き起こし、手を握る。


「……あったけえ」


 それだけ、言った。


 列から、若い兵がひとり、毛布を抱えて出てきた。


「テオ、です」


 訊く前に名乗った。毛布を外套の上からミハルさんに掛けて、それから、私にも頭を下げた。


 ミハルさんの左腕は、曲がったままだった。その曲がった腕で、外套の端をぎゅっと握っている。


 パヴェルさんが懐から、麻布に包んだ黒パンを出した。麻布の炭の字が、半分消えかけている。


 ――塩は、足りていますか。


 ミハルさんの手に、それを持たせる。


 ミハルさんはテオの毛布の下から、外套を引き出した。曲がった腕で不器用に畳んで、私に差し出す。


「これは、あの方のでしょう」


 受け取ったとたん、肩が急に寒くなった。外套を脱いでいたことを、そのときやっと思い出した。


 坂の上から兄が下りてくるのが見えた。歩きながら、自分の外套の留め金に手をかけている。


 けれど兄より先に、私の手の中の外套が、すっと持ち上げられた。閣下だった。黒い外套を広げて、私の肩にもう一度掛ける。襟を私のあごの下で合わせる。


 兄の手が留め金の上で止まった。兄は留め金を元どおりに掛け直した。目を逸らして、坂の上のどこか遠くを見る。


(閣下の外套が、兄の外套に勝ちました。……勝ち負けではありません)


 兄の足もとの岩から、朝からずっとつららが垂れていた。その先に、光を受けた雫がひとつふくらんで、落ちた。


「お兄さま」


 兄は答えない。お兄さま、と呼んだのは今日、二度目だった。


 閣下が私の隣に膝をついた。閣下は私を見ていなかった。ミハルさんの手を見ていた。桃色に戻った、指の先を。長いあいだ、見ていた。


「……間に合ったな」


 低い声だった。あの冬、霜降り村の小屋で、間に合わなかった人の声だった。


 閣下の肩越しに北東の尾根が見えた。あの尾根の向こうに霜降り村がある。尾根の上の空は、青く晴れていた。その青の中へ、細い煙が何本ものぼっていた。今朝、閣下が薪を運んだかまどの煙だった。


「はい」


 それしか、言えなかった。


「訊きたいことがある、と言ったな」

「はい」

「帰ってから、訊く」


 閣下は私の手を取って立ち上がらせる。立ち上がったあとも、その手を離さなかった。三千五百人の前で。


 城壁の上でがらん、とおけの落ちる音がした。たぶん、ルッツだ。


 振り向かなかった。


(……三千五百人の前で、推しと手つなぎ。原作のどこにもない展開です)


「……手袋を、忘れた」

「はい」

「お前の手が、冷たい」

「はい」


 閣下の手も冷たかった。上着の隠しから、黒い革手袋の指先が一本だけのぞいている。


 どちらも、言うのは、やめておいた。


 三千の兵が峠の下の村々へ下りはじめていた。今夜は七つの村のかまどで、交代で暖まる。東へ発つのは、明日の朝だ。ミハルさんもテオの毛布を肩にかけて、パヴェルさんの肩を借りて、その列の中にいる。


 金の像は、雪の上に残されたまま。誰も、担がなかった。


 パヴェルさんは像の横を通るとき、立ち止まらなかった。頭も下げなかった。三年、毎朝下げてきた頭を上げたまま、坂の下へ歩いていった。


 帝国の軍団は、来た。


 そして、帰った。


 鉄は、ひとつも、鳴らなかった。


 遠ざかっていく槍の列を見ながら、今朝、神さまが笑いながら話してくださったパンと水の昔話を思い出す。


 私の手は、城に着くまで、閣下の手の中。


 外套を、返すのを、忘れていた。

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