第57話 前編 燃やせない木
◆ 軍団長
俺は勘定の男だ。
兵の数。糧の数。矢の数。死んだ数。生きて帝都に帰す数。損と得。それをはじいて、生きてきた。
今、目の前で眼鏡の男が、俺と同じ数を俺より正確に言った。四十では、済まない。その通りだ。俺も、昨夜それをはじいた。像の隣で。燃やせない木の隣で。
三千で登れば、この峠は落ちる。氷竜は死ぬ。首は皇帝に届く。俺は勝って帰る。
皇帝陛下が欲しいのは、この峠だ。王国へ下りる雪の道。それと、王家に背いた辺境伯を罰した、という体面。その体面の名分は、さっき王子が自分の口で消した。王女を踏みにじったのは、俺だ、と。
勝って、何を持って帰る。
枯れた鉱山。雪。二百の村人のなきがら。氷竜の首。そして、道中で凍えて死ぬ四十か八十か、俺の兵。皇帝は、首を見て喜ぶだろう。像に金を貼り直すだろう。
その像は、木だ。
俺は氷竜の襟を見た。外套がない。この寒さで。それなのに、震えていない。
上着一枚の背中が、雪の中で小さく見えない。三千の槍の前にたったひとりで立っているはずなのに、ひとりに見えない。俺は三十年、戦場で鎧を着た男をいやというほど見てきた。鎧なしでこう立つ男は、見たことがない。
あの外套は、後ろの女の肩にある。氷竜は自分の熱をあの女に着せて、上着一枚で俺の前に降りてきた。
俺の皇帝は毛皮を三枚巻かれて、雪の上に横たわっている。兵が四十凍える夜に、木の像が毛皮を着ていた。
どちらの主に、俺の兵はついていく。
ヤン。トマシュ。今朝やっと名のついた二つが、腹の底で重い。
俺は氷竜が弓を下ろすのを見た。それが、一番、堪える。
三年前、この男は上から俺を撃った。撃たれて当然だ。俺は殺しに登ったんだからな。今日この男は、殺されるかもしれん距離で弓を下ろして坂を下りてきた。俺なら、しない。
俺は勘定の男だ。損得ではじけば、弓を下ろすのは間違いだ。この男は損を知って、それでも下ろした。あの眼鏡が、全部はじいている。はじいた上で、下ろした。
――敵の兵に、パンを焼く男。
俺は若いころ、東の砦で飯を最後に食う隊長をひとり覚えている。兵が食い終わるまで椀を持たない男。その男の下で、俺は初めて、死んでもいいと思った。その隊長は、帝都の政争で首を失った。像に頭を下げなかったからだ。
俺は頭を下げてきた。その像が、木で。その像の顔の雪を、今朝、誰も拭かなかった。
そのとき、風が変わった。
この峠の風は上から吹き下ろす。あの男もそう言った。風が一本の川のように坂を吹き下ろす、と。その風が、ふっと止まった。それから、下から吹き上げてきた。俺たちの背中のほう、峠の下の村々のほうから。
薪の燃える匂いがした。それから、焼けたパンの匂い。塩の匂い。
俺の後ろで、三千の兵がいっせいに顔を上げた。誰も命令していないのに。鼻を、風のほうへ向けて。
一番前の若い兵の腹が、ぐう、と鳴った。隣の兵が笑いをこらえた。その隣も。そのまた隣も。
俺の兵は、もう、どちらへ歩きたいか決めていた。俺だけが、まだはじいている。
俺は笑った。腹の底から。三千の槍がその笑い声に揺れる。
「俺の皇帝は、金の像だ。お前の神は、何だ」
氷竜は考える。それから、答えた。
「知らない」
俺は待った。
「私は、名を知らない。だが、私の隣に膝をつく者だ」
俺はこの男を見る。
隣に膝をつく者。俺の像は、膝をつかない。右手を高く掲げたまま、三年一度も、俺の隣に降りてこなかった。
俺は馬に戻って東を向く。
「――撤退だ」
三千の兵がいっせいに息を吐く。そんな音を、聞いたことがなかった。
「帝都には、こう報告する。峠は雪で通れなかった。北には枯れた鉱山と雪しかなかった。皇帝陛下の御尊像は吹雪で指を失った。以上だ」
肩越しに氷竜を見る。
「氷竜。お前の妻は、パンに何と書いた」
「『塩は、足りていますか』と」
また、腹の底から笑う。
「――足りていた。礼を言う」
「妻ではない」
氷竜が言った。
「……まだ、だ」
俺は眉を上げる。それから馬を進めた。
勘定に乗らんものを、この峠で、持って帰る。二つの名と、パンの塩の味だ。
◆ ヴィルフリート
剣の柄から手を離した。いつのまにか、また握っていた。離した手のひらが汗で濡れている。冷たい朝の冷たい柄を、私はそれほど強く握っていたのか。
侯爵はそれを許さなかった。
「裏切り者! 全員、皇帝陛下への裏切り者だ! 儂が、儂が皇帝陛下に――」
剣を握ったまま、馬を峠の上へ駆けさせる。私に向かって、ではない。私の後ろの、セラに向かって。
「その女だ! その女さえいなければ――!」
私は剣を抜く。鞘が鳴る。三年ぶりの音だった。
抜いたが、間に合わない。私は坂を下りていた。距離があった。馬の脚は私の脚より速い。
ギルバートがセラの前に立った。
九年、私の後ろに立ってきた男が、今は私ではない人の前に立っている。剣を抜いていない。抜く暇もない。立った。
馬が突っ込んでくる。あの男は一歩も引かなかった。眼鏡が陽を跳ね返して光った。腕を広げることもしない。そこにいる。動かないものがそこにひとつある、というだけで、馬の目がそれを避けた。
その顔を、私は坂の下から見上げる。九年、あの男は私の背中ばかり見てきた。その男の顔を、今日は私が正面から見ている。私がいつもしてきたように、誰かの前に立って守っている顔を。
そして――。
紫の袖が、飛んだ。
金の像の隣に膝をついていた若者が、雪を蹴って侯爵の馬の前に飛び出す。馬が前脚を跳ね上げる。侯爵が雪の上に投げ出され、剣が遠くへ滑っていく。
若者は雪の上で、侯爵の上に覆いかぶさっている。刺された。一瞬、そう思った。けれど若者は体を起こす。手にあったのは、侯爵の懐から転がり出た、絹の包み。金の像の、折れた指だ。
侯爵が雪の中で暴れた。
「どけ! どけ、下郎! 儂に触れるな!」
若者を突き飛ばし、雪を這って剣のほうへ手を伸ばす。紫の毛皮が雪にまみれて、指輪の金が泥の中で光った。
「誰か! その女を捕らえよ! この下郎もだ! 皇帝陛下の勅使の命令だぞ!」
誰も、動かなかった。三千五百の兵が雪の上に立ったまま、侯爵を見ている。槍の一本も上がらない。
「聞こえんのか! 儂は、皇帝陛下の――」
侯爵の手が、剣の柄に届きかけた。その柄を、黒い靴が踏んだ。
ギルバートだった。セラの前から二歩で、そこまで来ていた。膝で侯爵の背を押さえて手首を取る。侯爵の腰から金糸の飾り帯を抜いて、その手首を前で二度巻いた。
「勅使殿。失礼いたします」
帳簿をつけるときと、同じ声だった。
「ここで剣を抜かれますと、帳簿が合わなくなりますので」
ギルバートは侯爵を雪の上に座らせ、剣を拾って、またセラの前に戻った。
縛られた手の前に、若者が膝で這ってきて、絹の包みを差し出した。
「侯爵さま」
声が上ずっている。
「これ、木です」
侯爵の手が動かなくなる。
「金をはがしたら、木です。三年、毎朝、俺たちが頭を下げてきたのは木でした」
「黙れ!」
侯爵の声が裏返った。
「吹雪で中まで凍みただけだ。陛下の御尊像が、木であるはずがない。……下郎、貴様がすり替えたな。昨夜、毛皮をはいだのも貴様だ。陛下の御顔に、農夫の手で触れおって――」
誰も笑わない。誰も答えない。峠の風だけが、その声をどこか遠くへ運んでいった。
若者は絹の包みを、雪の上に置いた。そっと。三年、毎朝、像の足もとの雪を払ってきた手つきで。
「木は、悪くないです。俺の村の崖の上にも、木がありました。夏に白い花が咲いてました。でも木は、寒い夜に誰も温めてくれません。侯爵さまもご存じでしょう。あの夜、毛皮を三枚巻いても、像は何も返さなかった」
若者は雪の上の像を見た。右手を掲げたまま、横たわっている。顔に雪が積もっている。三千人、誰も拭いていない。
「あれ、燃やせば、何人かは朝まで持ちました。軍団長も、それを分かってました。分かってて、燃やさなかった。燃やしたら首が飛ぶから」
若者の声は、もう、揺れていなかった。
「燃やせない木に、俺たちは、頭を下げてました」
それから若者は、侯爵の目を見た。
「俺は、パヴェルです。東の外れの村の。三年、侯爵さまの従者でした」
「知らん」
侯爵は吐き捨てた。
「従者の名など、いちいち覚えておれるか。下郎は、下郎だ」
「はい。存じてます。三年、一度も、呼ばれませんでしたから」
侯爵は縛られた手で、雪の上の絹の包みを引き寄せた。胸に抱えこみ、金のはげた白い木を毛皮の袖で拭きはじめる。何度も。何度も。三千五百の兵が、それを見ていた。誰も、手を貸さなかった。
私は剣を鞘に戻す。かちり、と小さな音がする。三年ぶりに抜いた剣は、誰も斬らずに、鞘に帰った。
坂を登る。一歩ごとに膝が震えてくる。下りるときは、震えなかった。今になって。
ギルバートはまだセラの前に立っていた。私が坂を登りきると、半歩、脇へ退いた。後ろへは回らなかった。
「数は、合っていたか」
「一つを除いて」
ギルバートは前を向いたまま言った。
「閣下が弓を下ろすことを、帳簿に載せておりませんでした。……載せる欄が、ございませんので」
私はその肩に手を置いた。
「……よく、立った」
ギルバートは答えず、眼鏡を外した。そのまま、かけ直さなかった。
◆ セラ
風が、止んだ。
侯爵は飾り帯で手首を縛られて、雪の中に座りこんでいる。その前に、パヴェルさんが膝をついていた。
金の像は雪の上に横たわっている。右手を高く掲げたまま。指の折れたところから、白い木が冬の陽に照らされている。顔の雪は、誰も拭かなかった。
私の指は、閣下の外套の襟にまだ食い込んでいた。
原作の最後の頁では、誰もいなかった峠に、三千八百人が立っている。もう、あの本は、ここから先を知らない。
私は襟を握り直す。神さまの声が低くなった。
『あいだに立ってくれる者が、ひとりもおらん日が、あった。ずうっと昔にな』
(……)
『今日は、おった。あの子と、眼鏡と、若者と、お主の兄と。それから、弓を下ろした百人。パンを焼いた女たち。像の顔の雪を拭かなかった三千』
百合の香りが、峠いっぱいに満ちている。
峠の向こうで、三千の兵が東を向きはじめた。槍の列が崩れて向きを変える。雪を踏む音が、遠ざかっていく。もう誰も、こちらへは登ってこない。
(神さま。ギルバートさまは、剣を抜かずに、勝ちました)
『うむ。そろばんのほうが、よう斬れたのう』
(……本日は、神回です)
『わしは毎回おるがのう』
思わず、笑いそうになった。
坂の途中に、王家の軍の列がまだ立っていた。その中に、見覚えのあるひげがある。
ベルントさん。北の関所の手前で、私を雪原に降ろした人だ。目が合うと、ベルントさんは黙って腰の革袋をぽんと叩いた。干し肉を入れていた、あの革袋。
その隣でロルフさんが、口を半分開けたままこちらを見ていた。目が合うと、慌てて下を向いた。後ろでは、クルトさんが片手を上げ、カスパーさんが、口の形だけで「カラスの王女さま」と言っていた。
(……認知、いただきました)
私は頭を下げて、それから、遠ざかっていく帝国の列へ目を移した。
一人ひとりの顔は遠くて見えない。それでも、ひとつだけ目が留まった。列の端を歩く、若い兵。足取りが、ほかの誰よりも重い。曲がった左腕を胸に抱えるようにして、一歩ごとに肩が大きく揺れている。
その肩が、ふいに、沈んだ。
膝が折れる。槍が手から離れて雪の上を滑り、それから、体が前へ倒れた。音は、ほとんどしなかった。雪は、倒れる人の音を吸いこむ。
「――ミハル!」




