第56話 「王女を踏みにじったのは、俺だ」
◆ ジュリアン
峠の上に、あの女が立っていた。
黒い外套。銀髪眼鏡の男が、その前に立っている。動かない。そして氷竜が、その二人のさらに前に。たった三人。
後ろの城壁に兵が並ぶ。百人ほどか。その隙間から村人の顔も覗いていた。子どもも、老婆も。
こちらは、三千と五百。弓兵が矢をつがえている。両方の側で。
「――ジュリアン殿下」
侯爵が馬上から蜜のような声で言った。昨日までは甘いと思っていた声だ。今日は、喉に貼りつく。
「同盟の作法をお忘れなく。王家の名において宣言していただこう。『アイゼンベルク辺境伯は王女セラフィーナを踏みにじり、王家に反逆した』と。それが、帝国軍がこの峠を越える正当な理由になる」
俺は手綱を握っていた。金糸の長靴は履いていない。ハインツがどこからか持ってきた、革の粗末な長靴。足はまだ痛かった。
宣言すれば、いい。そうすれば峠は落ちる。氷竜の首は取れる。自分は王家の総大将として勝って帰る。母上の言った通りに。そして帝都へ、人質として送られる。飾りの玉座の、飾りの王子として。
あの女を見た。
黒い外套は氷竜のものだ。大広間で自分の前を素通りして、あの女の隣に膝をついた、あの男の外套。小柄な肩には、大きすぎる。裾が、雪に届いている。
布は、巻いていなかった。
この顔は、見たことがある。大広間で。麦を拾う指の先で、うつむいたままこちらを見た顔だ。見たはずだった。だが、あのとき俺に見えていたのは床に這うドブネズミ。二十年、そう見えるように俺の目は作られていた。
今日は、違って見える。
雲が切れた。
峠に、陽が落ちてくる。一本の光の柱が黒い城の上から坂を降りてきて、あの女のところで止まった。雪が光を返す。足もとから、無数の小さな光が舞い上がる。
風が、峠を渡った。あの女の髪が、ほどけて流れる。灰紫。光の中でその色がひと筋ごとに透けて、夜明け前の空の色になる。
その下で、目が、こちらを見ていた。すみれ色の目。静かな目だ。二十年、俺が一度も正面から見返したことのない目が、こちらを見ている。
手綱を握る指から、力が抜けた。
何を着ているのか、俺には分からなかった。氷竜の外套だ。それは知っている。けれど外套の上にもう一枚、目に見えないものを着ているように見えた。光をまとっているのか。光のほうが、あの女に寄っていくのか。
母上がこの色を憎んだ理由が、分かった気がした。憎むほど、きれいだったからだ。そして今日のこれは、きれい、という言葉では足りなかった。
三千五百の兵の誰ひとり、槍を動かさない。俺の後ろでハインツが息をのむ音がした。見ている者が、ほかにもいた。さらに後ろの列で、誰かが言う。
「……カラスの、王女さまだ」
若い兵の声だ。俺は、その男の名前を知らない。
――嬉しくは、ないです。今さら。
峠の手前の天幕で、ハインツにそう言われた。あのときは、胸に刺さっただけだ。今は、知らないことが、恥ずかしい。
「セラ」
その名前が口から勝手に出る。峠の風の中で、聞こえるはずがない。
けれどあの女は顔を上げた。眼鏡の男の脇から、半歩、前に出る。男の手がその袖に触れた。止めなかった。触れただけ。
「――お兄さま」
三千五百人の兵の、誰もその言葉を聞いていない。聞いたのは、俺ひとりだ。
お兄さま。
生まれてから二十年、そう呼ばれたことがない。呼ばせなかった。回廊で蹴った。靴の裏で、手を踏んだ。ドブネズミと呼んだ。その女が今、峠の風の中で、自分をそう呼ぶ。
「殿下。宣言を」
侯爵が急かした。
俺は馬を降りた。雪の上に。革の靴で。音はしなかった。
「セラ」
言い直した。今度は、聞こえるように。
「お前、氷竜に踏みにじられたか」
峠が、静まり返る。あの女は首を傾げた。それから外套の襟を握ったまま、答えた。
「いいえ。一度も」
「氷竜はお前を、床に這わせたか」
「いいえ。閣下は、私の隣に膝をついてくださいました。お兄さまの前で」
外套の襟を握る指が見える。赤く、ひび割れている。十年、床を磨いた指だ。俺が靴の裏で踏んだ指だ。
俺は目を閉じる。
鏡は、もうない。七つの冬から胸の中に立っていた四枚の鏡は、峠の夜に割れた。割れたあとに残ったのは、ひどく小さな、ひどく寒がりの二十歳の男だった。その男が今、何を言うか。
見ている者は母上ではなかった。玉座でもなかった。峠の風と雪と、それから――天幕の入口に座りこんだ夜、心のひびの奥から届いた、あの白い花の匂い。
「――侯爵」
目を開ける。
「王家の名において、宣言する」
侯爵が満足そうにうなずく。
「アイゼンベルク辺境伯は、王女セラフィーナを踏みにじっていない。王家に、反逆もしていない」
侯爵の顔から笑みが剥がれ落ちていく。
「王女を踏みにじったのは、俺だ。十年、王都の回廊で。この峠を越える理由は、ない」
言い終えて、自分の声が平らなままだったことに驚いた。
後ろで誰かが息を吐く。ハインツだ。三年、名前を知らなかった男が、自分の後ろで息をしている。
俺は振り返った。
「さっき、カラスの王女と言った者」
列の中で、若い兵がびくりと肩を揺らす。その隣に、ひげの兵が立っていた。
「……ロルフ、です。殿下」
「ロルフ。なぜ、カラスだ」
ロルフの後ろで、二人の兵が顔を見合わせた。
ロルフは目を泳がせて、それから峠の上を見た。
「北へお送りしたとき……カラスが一羽、ずっと馬車についてきたんです。俺は死神がかぎつけたんだって言いました。あの人は、馬のえん麦の袋に穴があいてるのを見つけました。カラスはこぼれたえん麦を拾って食ってただけでした」
ロルフが、唾を飲みこむ。
「……殿下が、さっき、ご自分のことを言われたので」
ロルフは俺の顔を見ない。峠の上の、あの女だけを見ている。
「俺は、関所で、あの人の足もとに唾を吐きました」
声が、そこで切れた。
俺は何も言わない。言えることが何もない。同じことをもっと長く、もっとひどくやったのは、自分だ。
「ロルフ」
口の中で、繰り返す。自分から訊いた名前は、これで、二つになった。
◆ ヴィルフリート
王子が馬を降りた。その瞬間から、峠は私の知らない峠になる。
三年前、私はここで殺されかけた。あのときは分かりやすかった。剣を抜いた男が三十人、坂を登ってくる。抜いて斬って、終わればよかった。
今日は、誰も剣を抜いていない。
三千五百の槍が雪の上に立っている。動かない。弓兵が矢をつがえたままこちらを見ている。城壁のディルクも同じ姿勢で、向こうを見ている。
侯爵がわめいている。皇帝の名を。王家の裏切りを。反逆を。その声は峠の風にちぎれて飛んだ。軍団長は馬上で、パンの残りを噛んでいる。
私の右手は剣の柄に置かれていた。いつ置いたのか覚えがない。柄の革は冷えきっていた。三年、壁に掛けたままの剣は握った手の形を忘れている。
抜けば、始まる。抜かねば始まらないのかどうか、私には分からない。
風が、峠を渡った。向こうの列で槍が一本、揺れた。持ち手の腕が震えていたのだと思う。寒さか、薄い粥か、別のものか。それは分からない。揺れた。
こちらの城壁で、弓の弦がきし、と鳴った。ディルクだ。あの男の指は滑らない。あれは、いつでも放てる、という音だ。
三千五百対、百。
数だけなら、負けだ。だが峠は狭い。登れるのは横に六人。上から百の矢が六人ずつ、雪の坂に釘を打つ。三年前、私はそうやって登ってきた兵を殺した。今日もできる。
できることとするべきことが、初めて別の場所にあった。
私は柄から手を離した。
風の中に、場違いな匂いが、ひと筋だけ混じる。百合だ。冬の峠に、花など咲いていない。
「――ディルク」
振り向かずに、言う。
「矢を、下ろせ」
城壁が、ざわめく。
「閣下」
「下ろせ。全員だ」
弦の音が、ひとつ、ふたつ、緩んでいく。百本分。向こうの列がそれを見ている。三千五百人がこちらの弓が下がるのを見ている。
私は馬を降りた。雪に足が沈む。
三千五百の目が、その一歩を見ていた。氷竜が弓を下げて自分の足で降りてくる。向こうの列がそれをどう見たかは知らない。私の兵が後ろでどんな顔をしたかも、見なかった。
一歩。二歩。
坂を、下りた。剣は腰にある。抜いていない。外套はない。風に巻かれた雪が、襟から入る。三千五百の槍の先へ、私は歩いた。
十歩のところで立ち止まった。声の届く距離。矢の届く距離でもある。
風が私の上着の裾を後ろへ引いた。外套がないので、体の線が全部向こうに見えている。隠すものは何もない。剣は腰にあり、手は下ろしている。
そのまま立った。
寒いはずだった。雪が襟から入り、上着一枚の背中を峠の風が叩いている。手袋を忘れた指は、とうに感覚がない。
それなのに、胸の心臓の上だけが温かい。今朝セラの口を通って降りてきた言葉を、手を当てて受け取った、その場所だ。熱が、内側から灯っている。
――われ、汝の隣に、坐す。
隣は見ない。見なくても分かる。
唇の端に、今朝触れたあの指の冷たさが、まだ残っている。冷たかった。あの指で、十年、床を磨いてきたのだ。
帰ったら、あの指を温める。そこだけは、決めた。
顔を上げる。軍団長はまだ馬の上にいる。三年前、私はこの男を城壁の上から見下ろした。今日は雪の坂に自分の足で立って、馬上の顔を見上げている。
「――軍団長」
私は言った。
「三年前、貴様はこの坂を登ってきた。三十人で。私は上から矢で釘を打った。貴様のほかは、誰も生きて降りなかった」
軍団長のあごが、止まる。
「覚えている」
「今日、私は矢を下ろした。貴様が今三千で登るなら、この峠は落ちる。私は死ぬ。後ろの百も死ぬ。それは、貴様が一番よく知っている」
「知っている」
「だから訊く。それでも、登るか」
軍団長はパンの残りを懐にしまった。しまって、それから私を見た。
「氷竜。貴様、なぜ、弓を下ろした」
「貴様の兵に、パンを焼いたからだ」
「それは理由ではない」
「理由だ」
私は後ろの城を振り返らずに言う。
「パンを食わせた者に、矢は撃たない。九年前、私は村に薪を運んだ。運んだ薪で村人は火を焚いた。その村人に私は剣を向けたことがない。同じことだ」
「敵だぞ」
「今朝まで、な」
軍団長は答えない。あごのひげに白く霜がついている。風が私の襟を鳴らす。
この男は震えていない。三年前も今日も。今日は抜いていない。それが何を意味するのか、決めるのは軍団長だ。
後ろで、セラが息を数えている。数の合間に、小さく「……今朝まで、な、いただきました」と聞こえた。何をいただいたのかは、わからない。
聞こえるはずがない。それでも分かった。セラは怖いとき、数を数える。鉱山の暗闇で、そうしていた。
ひとつ。ふたつ。
みっつ。
「――アイゼンベルク卿」
軍団長が馬を降りた。雪の上に。私と同じ高さに。
「一つ、訊く。その城には何がある。枯れた鉱山と、雪と、二百の村人と。それだけか」
「それだけだ」
「なら、なぜ守る」
「守るものが、それしかないからだ」
軍団長は私の顔を見ていた。それから、私の襟を。外套のない、雪で白くなった襟を。
頭の中で何かを勘定している顔だった。損と、得と、そのどちらにも入らない何かを。
◆ ギルバート
閣下が坂を下りた。私は動かない。
九年、閣下の後ろにいた。閣下が一歩出れば私も一歩出る。それが、私の脚の仕組みだ。今日、閣下は「後ろに立つな」と言った。だから私の脚は、雪に、生えている。
後ろで王女が息を数えている。ひとつ、ふたつ。声には出していない。けれど分かる。私の息も、その数に合わせていた。王女がひとつ数えるたびに、私もひとつ息をする。
みっつ。
軍団長が馬を降りた。雪の坂の途中で、二人の男が剣を抜かずに同じ高さで立っている。その絵を、私は、見たことがなかった。
閣下の背中が、小さい。外套がないからだ。閣下の外套は今、あの王女の肩にある。閣下の熱が、あの人を温めている。それは、正しいことだ。
正しいのに、何かが、足りない。
「――軍団長」
私は声を出した。
峠の風を真横から切って、坂の下まで届く声だった。帳簿を読み上げてきた声だ。数を読む声は感情を乗せないから、遠くまで届く。自分の声だと一瞬、分からなかった。この峠で私が声を出すのは、閣下の命令を復唱するときだけだった。
軍団長がこちらを見る。
「アイゼンベルク家の家令、ギルバートと申します。お伝えしたい数が、ございます」
「……言え」
「帝国軍三千。薄めた粥。荷車の糧は、あと二日分と見ました。帝都まで、二十一日」
軍団長の眉が、動く。
「峠の下の七つの村のかまどには、すべて火が入っています。パンは荷車四台、三千二百個。塩は効いています。薪は、どのかまどにも三日分。昨日から閣下が運びました」
閣下は振り向かない。
背中で、王女が小さく言った。
「……推しの、供給過多です」
供給。補給の話なら、過多ではない。三日分、ちょうどだ。
私は続けた。
「今日、村を焼けば、七つの村のかまどは消えます。三千二百のパンは灰になります。荷車の糧は、あと二日。その二日のうちに、この城が落ちるでしょうか」
私は背後の坂のほうへ、目をやった。
「坂は六人しか並べません。上には百の矢。二日で落ちなければ、三千は焼け跡の雪の中で、飢えて凍えます」
「四十人、と伺いました。吹雪のひと晩で凍死した方が。湿った薪と粥の入った腹で、四十です」
軍団長の目が細くなる。
「この峠は、両側の尾根に挟まれて、風が一本の川のように坂を吹き下ろします。吹雪は三日おきに来ます。晴れた日の、翌々日から。帳簿で外れたのは、二度だけです」
私は雲の切れた空を見上げた。
「今日は、晴れています。糧が二日で尽きれば、明後日の吹雪は、空の腹で迎えることになります」
軍団長の目が、坂の上の空へ動いた。
「空の腹の兵は、粥の腹の兵の倍、凍えます。明後日の吹雪で八十。そのあとは吹雪のたびに倍になります。三日後に百六十。さらに三日後に三百二十」
軍団長の手が、手綱を握ったまま動かない。
「この城は十日はもちます。城が落ちる前に、少なくとも五百六十人が雪の上で死にます。晴れた夜の底冷えと、矢で死ぬ方を入れずに。私の見積もりでは、そうなります」
それから、声を落とした。
「戦で死ぬ兵は、何かのために死にます。凍えて死ぬ兵は、何のためにも死にません。……軍団長は、もう四十人それを見ておられるはずです」
軍団長は答えない。唇だけが声を出さずに二度、動く。誰かの名前を二つ、呼んだように見える。
私はそれを帳簿に載せなかった。
「焼かなければ、今夜は七つの村のかまどで暖まれます。三千は入りきりませんので、交代で。薪は三日分あります」
軍団長の目が、峠の下の村々のほうへ動く。
「東の補給地点まで、歩いて三日。荷車の糧が二日分、パン三千二百が一日分。今日峠を下りれば、誰も矢を受けずに届きます。ぎりぎりですが、届く。それも確かめました」
私は眼鏡の位置を、指一本で直した。
「――パンと、かまどと、今夜の宿。お前の主君は、それで俺に恩を売る気か」
「いいえ」
私は眼鏡を外さなかった。
「置いてきただけです。卓の上に。売るなら値をつけます。値はつけておりません。麻布に書いてあるのは、値ではなく、塩が足りているか、です」
軍団長の口が、開く。閉じる。
私は知っている。あの口の動きを。何かを言おうとして、業務上の言葉ではないと気づいて、閉じる。私はそれを、この二ヶ月で何度もやった。
一度で、足りたようだった。
後ろで、王女の息を数える気配が、止んでいる。




