第55話 後編 推しの出陣を、最前で
◆ パヴェル
霜降り村には、煙が立っていた。
夜明けの雪原は青い。その青の中から、細い灰色の煙が空へのぼっている。風のない朝だった。
「――焼いたのか? 先に誰かが」
軍団長が馬上で眉を寄せる。
違う。煙は家々の煙突から立っている。炭焼きの細い灰色の煙。四本、五本、六本。
パヴェルは金の像を担いだまま、村の入口で足を止める。像は重い。右手の折れた指は絹で包んで侯爵が懐にしまっている。金の下の白い木のことは、あれから誰も口にしない。口にしないということは、全員が見たということだ。
「人がいるぞ」
「いや、いない。戸が開いてる」
先鋒の兵が、手前の小屋に槍を構えて入っていく。出てこない。
「おい! どうした!」
軍団長が怒鳴る。返事はない。代わりに兵の一人が戸口に顔だけ出して、ひどく困った顔で言った。
「軍団長。パンが」
「パン?」
「卓の上に、パンが。焼きたてで。それから、竈に、火が」
パヴェルは像を雪の上に下ろす。侯爵が何か喚いている。聞こえない。小屋の戸口へ歩く。
暖かい。
竈に熾火がある。誰かが夜のうちに壺から移したような、丁寧な火だ。その上に薪が三本。細いのを下に、太いのを上に。
卓の上に黒パンが六つ。麻布に包まれて。麻布には炭で何か書いてある。
字だ。パヴェルには読める。東の外れの村で字を習った者は少ないが、母が、竈の灰に指で書いて教えてくれた。角ばった炭の字。ところどころ、粉で滲んでいる。
――塩は、足りていますか。
「……何て、書いてあるんだ」
隣でミハルが、かすれた声で訊く。
「『塩は、足りていますか』」
パヴェルは、口の中で同じ言葉を転がす。三年、誰にも訊かれなかった言葉だった。
パンをひとつ、手に取る。まだ、温かい。
膝が、勝手に折れた。理由は分からない。竈の前で、膝が折れた。
竈の脇に、小さな腰掛けがひとつ。子どもの背丈の。煤で黒くなった縁に、小さな指の跡がいくつか残っている。誰の指かは分からない。ずいぶん古い跡だ。
パヴェルが思い出していたのは、東の外れの自分の村の竈だった。年貢の代わりに家を出た朝。母が最後に焼いてくれた黒パンの匂い。母は泣かなかった。泣かずにパンを焼いて、「道中で食べな」と言った。
それから、もうひとつ。「塩の入ったパンを分けてくれた家には、何があっても手を出すんじゃないよ」。村のいちばん古い言いつけだった。
そして、北の城の厨房の窓で、鳥に麦をやっていた娘の顔を。
「侯爵さま」
パヴェルは戸口の外の、紫の毛皮に向かって言う。
「この家は、焼けません」
「――何だと」
「パンを置いてくれた家は、焼けません」
侯爵の顔が真っ赤になる。
「貴様! 皇帝陛下の勅使に――」
「侯爵」
軍団長の太い声が、それを遮った。軍団長は馬から降りて、二つ目の小屋の戸口から、パンをひとつ手に持って出てくる。
「俺の兵は三千だ。吹雪で四十死んだ。ここしばらく、粥を薄めて薄めて、もう水と変わらん」
パンを、ひと口、齧る。噛む。また、噛む。
「塩が、効いてる」
そして、村の奥を見る。七本の煙。その向こうの白い峠。その上の、黒い城。
「その兵に、今、焼きたてのパンと火のある家を焼け、と命じてみろ。三千人が一斉に俺を見るぞ」
「し、しかし、皇帝陛下の――」
「皇帝陛下は、帝都の暖炉の前にいる」
軍団長はパンを齧りながら鼻を鳴らした。
「――氷竜、か。敵の兵にパンを焼く男が、冷酷であるものか」
だが軍団長は、それ以上、何も言わなかった。撤退、とも。進め、とも。パンを齧りながら、黒い城を見ているだけだった。
パヴェルは竈の前に膝をついたまま、麻布の炭の文字を指でなぞる。読める字だ。それでも、読むより先に、書いた人の手がどんな手かが分かる気がした。麦を一粒ずつ拾う手だ。
その手の持ち主が、あの峠の上にいる。三千の槍の、先に。
◆ ギルバート
九年間、私には、神がいた。
そのことに気づいたのは、礼拝堂の祭壇の前で閣下が額を床につけているのを、扉の隙間から見た夜だった。
私の神は、閣下。
十六の冬、閣下が掟を破って薪を背負ったとき、私はその後ろで大麦の袋を抱えていた。あのとき決めたのだ。この人のためなら何でもする。この人を傷つける者は笑顔で殺す。この人の言葉は、私の掟。
忠誠だと思っていた。けれどあの夜、閣下は、私の知らないものの前に膝をついた。
私は扉の外で立ちつくす。どこに立てばいいのか、分からないまま。私の神が膝をついている。私は、誰の後ろに立てばいい。
もうひとつ、認めなければならないことがある。私はあの王女に、何度も言いかけてはやめた。言いかけたのは、たぶんこういうことだ。
――貴女が来てから、私の主君は、生きている顔をするようになった。
――そして私はそのことで貴女に感謝しているのか、別の何かを感じているのか、自分で分からない。
分からないものを、私は口にしない。そう生きてきた。だから、言わなかった。
そして、今朝。
夜明けの礼拝堂で、扉の隙間から見てしまった。閣下があの王女の前に片膝をついているのを。
聞こえてきたのは、王女の声だった。けれど王女ひとりの声ではなかった。訛りのない古い言葉。あの細い声が、礼拝堂の天井の隅々まで満ちていく。
私は頭の中の帳簿を閉じていた。気づいたら、閉じていた。
扉が開く前に柱の陰へ下がった。閣下は冷たい風と一緒に出てきて、私の前を通り過ぎていく。その手は、胸の心臓の上に置かれたままだった。
昨夜の紙が欲しがっていたのは、峠と、あの王女だ。閣下は今日、敵のほうだけを向いて立つ。あの方の隣には、もう別の方がおられる。
ならば、私が立つのは、あの王女の前だ。
「――ギルバート」
城門の内側で、閣下が私を呼んだ。風が凍った雪を巻き上げる。馬の吐く息が白く千切れて、鉄と凍った革の匂いがした。
「今日は私の後ろに立つな。セラの前に立て。私に何かあれば、私ではなくセラを守れ」
「それは、閣下の掟に反します」
言ってから、可笑しくなった。その掟なら、ついさっき私が自分で破ったばかりだ。
「掟は、私が作った」
閣下が笑う。
「――だから、私が変える」
私は眼鏡を外して、拭く。
「なぜ、私なのですか。オットーでも、ルッツでもなく」
「お前が、ずっと私の背中を見てきたからだ。今日は、お前が背中を見せる側に立て」
この人は今朝、私の神であることを、自分から降りようとしている。
閣下は馬に乗る。城門の内側に、兵が並んでいる。百人ほど。炭焼きや猟師の息子たちだ。閣下は何も言わない。馬上から、ひとりずつ顔を見るだけだ。
最初に、ディルクが一歩、前に出た。
「ディルク。東の、三つ目の矢狭間」
名乗って、城壁の階段へ走っていく。
「カール。北の門」
「ルッツ。西の櫓。腕は、治りました」
「オットー。熾火の壺」
「ゲルハルト。城壁。……石は、ちゃんと抱えてます」
どこかで、笑いが漏れる。
名乗っては、持ち場へ走っていく。あの朝、閣下が王女の帳面から呼んだ名を、今朝は一人ひとりが自分の口で返していく。そこから、名乗りは速くなった。
「ヨハン、クラウス、ゲオルク、ディーター、ローレンツ。南の櫓、五人」
「ヴィリー、フランツ、マティアス。矢の運び手、三人」
名を言い終えた者から、雪を蹴って走っていく。鐘ひとつ打つあいだに、城門の内側が空いていく。
私は帳簿を持っていない。けれど、頭の中の帳簿に、一人ずつ書き入れていく。……百一。百二。
百三人目。最後に、トビアスが、真っ赤な顔で叫んだ。
「トビアス! 十五です! 聖女さまが治してくれた手で、矢を運びます!」
それで、全員だった。
残っているのは、私だけ。名乗る必要のなかった名だ。閣下の後ろに立つ者に、名は要らなかった。
それでも、名乗った。
「ギルバート。王女殿下の、前」
閣下が馬上から私を見る。一瞬。それから、前を向く。閣下がひとつだけ言った。
「行け」
それだけで、十分だった。
閣下は外套を着ていない。黒い上着の背中が、峠の風に薄い。
私は確かめる。腰の剣、一本。矢筒なし。盾なし。閣下の外套、王女の肩。あの冬から、私の帳簿は、ひとつも足りたことがない。今日も足りない。
眼鏡を掛け直す。
そして私は閣下の背中から目を離して、セラ王女の前に立った。九年で、一度もしなかったことだ。
彼女は閣下の外套の襟を両手で握りしめている。私を見て、少しだけ笑う。
「ギルバートさま。レンズ、減りませんか」
「――減りません」
答えてから、言い直す。
「今日は一度も拭いておりませんので。いえ。三度、拭きました。記録しておりました」
「記録していらしたんですか」
「私は何でも記録します。閣下の膏薬の残りも。貴女があの方の名を呼びかけて、やめた回数も」
「え」
「行きましょう。私の後ろから、離れないでください」
背中で、王女が小さく言った。
「……推しの出陣を、最前で。いえ、参戦です」
参戦。王女の従軍は、この城の帳簿に前例がない。それに、最前にいるのは私だ。記録しておく。
私は前を向く。そうすれば、この人の顔を見ずに済むからだ。
前には、閣下の背中しかない。ずっと見てきた背中を、今日も、前に見ている。けれど今日は、私の背中にも、守る人がいる。
◆ 軍団長
俺は四十を並べた。
昨夜。天幕の外。凍った兵を雪から掘り出して、並べる。一人ずつ。顔は半分ほど見覚えがあった。名はほとんど知らなかった。三千の兵の名を全部覚えている軍団長など、帝国にはいない。俺も例外ではない。
だが、頭数だけは勘定した。四十。
その隣に、金の像が横たわっていた。毛皮をまた三枚巻かれて。侯爵の命令だ。「皇帝陛下の御尊像を、凍えさせるな」と。
像は木だ。指が折れて、皆が見た。木なら、燃える。
俺はその夜、それを考えた。子どもほどの像ひとつ燃やしたところで焚き火ひとつ分だ。それでも凍えかけた何人かは朝まで持った。侯爵の毛皮三枚で、あと十人。
考えて、やめた。燃やせば俺の首が飛ぶ。三千の兵は、首のない軍団長の後ろを帝都まで歩けない。
燃やせない木。俺が三年、毎朝頭を下げてきたのは、それだ。
山で伐った同じ一本の木で、半分は竈にくべて飯を炊き、残りの半分を削って金を貼り、その前に膝をつく。子どもが聞いても笑う話だ。三千の大人がそれを三年やった。俺が、やらせた。
あの像ひとつに、担ぐ者が一人、毛皮の番が二人、天幕の見張りが四人。七人いる。七人が薪を担げば、四十は死ななかったかもしれん。それも弾いた。弾いて、誰にも言わなかった。それが、俺の仕事だ。
夜明け前、紫の袖の若者が、像の隣で膝を抱えていた。
「軍団長」
「なんだ」
「像の顔に、雪が」
見る。皇帝の顔に、雪が積もっている。誰も拭いていない。三千人、誰一人。
「拭くか」
「……いいえ」
若者は拭かない。俺も、拭かない。若者は像ではなく、並べた四十のほうを見ていた。
「軍団長。端から三つめは、ヤンです。俺と同じ村の」
「……そうか」
「その隣が、トマシュ。その隣は、知りません」
端から三つめを、見る。雪をかぶった、若い顔だ。
「ヤン」
口に出すと、白い息になって、消える。
「トマシュ」
四十のうち、名がついたのは、二つだけだった。
――――
読んでくださって、ありがとうございます。
――塩は、足りていますか。
次回、峠の坂で、閣下が帝国軍の前に立ちます。
ブックマーク・☆での応援も、お待ちしています。




