第54話 夜明けまでに、王女を差し出せ
◆ ヴィルフリート
馬は、一騎だった。夜半を過ぎて峠の側から。城壁のディルクが矢を番え、放たない。旗を持っていたからだ。紫。帝国の使者の色。
馬の吐く息が、篝火の明かりの中で白く千切れて流れていく。門は開けない。門の小窓から、筒を受け取る。
使者は何も言わずに馬首を返し、雪の中へ消えた。凍えた顔だった。陣の寒さをそのまま顔に貼りつけて来たような男。雪の上に蹄の跡が二本、闇のほうへ伸びている。新しい雪が、もうそれを埋めはじめている。
筒の中に、羊皮紙が一枚。封蝋は、皇帝の紋。
書庫の机で、ギルバートが蝋燭を寄せる。読む。
皇帝の名において。
王国は王妃エレオノーラとの約定により、帝国への貢ぎの代わりとして、北の峠とアイゼンベルク辺境伯領を差し出すものとする。
辺境伯ヴィルフリートは王女セラフィーナを踏みにじり、王家に背いた。よって夜明けまでに峠の門を開き、王女を帝国の使者に引き渡し、領地を明け渡すべし。
従わぬ場合、第四軍団はこれを反逆と見なし、峠と七つの村を焼き城を落とす。
その下に、侯爵の署名。金粉を混ぜたインクで。蝋燭の火が揺れるたびに、金の粒が霜のようにちかちかと光る。暖かい色なのに、ちっとも暖かくない。
三度、読む。
王妃は払えない貢ぎの代わりに、北を売ったのだ。売るには、理由が要る。辺境伯が王女を踏みにじった、という理由が。その王女を帝国が「保護」すれば、理由に形がつく。王都は聖女の血筋を自分の手を汚さずに遠くへやれる。帝国は初代の聖女の血を手元に置ける。
保護された王女が帝都でどうなるかは、どの紙にも書かれない。紙の端を押さえていた指に、いつのまにか力が入っていた。
「閣下」
「聞いている」
「返答の期限は、夜明けです」
「知っている」
紙を置く。夜明けまで、あと五刻ほど。あの冬の夜と同じ長さだ。あのときは戸を叩く音を聞いて、夜明けを待った。動かずに。掟だったから。
今夜も動かずに待つことはできる。門を閉じて矢を並べて、坂に釘を打つ用意をして。三年前は、それで勝った。勝ったあとの坂の雪の上に、帝国の若い兵の遺体が、いくつも残った。その誰の名前も、私は知らない。
私は紙を持って、立つ。
「閣下。どちらへ」
「礼拝堂だ」
ギルバートが一瞬、口を開ける。閉じる。
「……返答の、案を」
「書かない」
「では、何を」
「置いてくる」
それだけ言って、書庫を出る。回廊の石は夜の底の冷たさを溜めている。自分の足音だけが、ひとつ遠くまで響いていく。ギルバートはついてこない。ついてこないということを、あの男はこの二ヶ月で覚えた。
礼拝堂の扉は、開いている。九年、鍵を掛けていた扉だ。今は閉めるほうが手間になっている。
中は暗い。祭壇の脇の百合だけが、丸窓の月の光を受けて白い。蕾はまだ開いていない。萼がほどけかけたまま動かない。
私は祭壇の前に立つ。紙を、祭壇の石の上に広げる。皇帝の紋を上にして。侯爵の金粉の署名が、月の光で鈍く光る。その隣で百合の蕾が、同じ月の光を受けている。片方は冷たく光り、片方は白い。
あの冬、私は掟の紙をこの祭壇の前で読んだ。夜明け前に門を開けてはならぬ、という一行を。読んで、従った。空が白みかけるまで。それから破った。けれど、もう間に合わなかった。
今夜の紙にも一行ある。夜明けまでに門を開けよ。従えば、峠と七つの村は焼かれない。代わりにセラが、紫の使者に渡される。従わなければ、三千五百が坂を登る。
どちらの一行にも、私は従うつもりがない。従わないなら、答えは私が書くしかない。書けなかった。だから、ここへ持ってきた。
膝をつく。床の窪みが膝を受ける。何代も前から、誰かがここに膝をついてきた跡だ。私の膝は、この二ヶ月でやっとその窪みに馴染んだ。
床は、冷たくない。ここへ通うようになって覚えた。この床は冷たいときと、冷たくないときがある。冷たくないときは、誰かが先に座っている。
言葉は、ない。「神さま」とも「助けよ」とも言わない。セラのように名を呼んで話すことは、私にはできない。声が聞こえたことがない。
紙を、置く。読めないものを、読める者の前に。あの夜に読み違えた男が、今夜は自分では読まなかった。それが今夜の私の、全部だ。
丸窓の月が、祭壇の紙の上を移っていく。
足元に、重いものが来る。グラウだ。私の膝の隣に腹を下ろして、祭壇の上の紙を一度見た。それから頭を私の膝に載せる。霜降り村の小屋の戸口で私の足を温めていたのも、子犬のグラウだった。
今夜は私が待つことにした。何を待つのかは分からない。夜明けと答えと、そのどちらでもないものを。
背中で、扉が鳴る。
◆ セラ
目が覚めた。神さまは何もおっしゃらない。部屋の中の百合の香りだけが、いつもより濃かった。肩掛けを羽織って、西棟の階段を下りる。
礼拝堂の扉が、開いている。中に、閣下がいる。祭壇の前に膝をついて。グラウがその膝に頭を載せている。
祭壇の上に、紙が一枚。月の光で、皇帝の紋が見える。金の字も。
読まない。読まなくても何が書いてあるかは分かる。夜明けに来る紙は、いつも同じことを言う。
閣下は振り向かない。私は隣に膝をつく。腕一本分、空けずに。二人とも、何も言わない。百合の蕾が、月の光の中で白い。
(神さま)
『うむ』
(閣下は、返事を書かないんですね)
『書かんそうじゃ。ここへ持ってきた』
(読まれたんですか)
『読んだ。……あれを書いた男もな、寒いのじゃよ。金で暖まると、まだ思うておる』
神さまの声は、責めていなかった。ただ、寒い、とおっしゃった。侯爵のことを。
(神さま。この紙、どうなるんですか)
訊いてから、訊いてはいけないことだったと思った。蕾の影が、床の上でかすかに揺れる。
『昔な、同じことをした王がおった。城を大軍に囲まれて、脅す紙を受け取ってな。その紙を、わしの前に広げた』
(それで)
『それでな、あの王もな、剣を抜かなんだ』
それきり神さまは、その王の話をしなかった。どうなったのかも。私も訊かなかった。
閣下はまだ紙を見ている。私は閣下の手を見る。いつも何かを握っていた手が、今は膝の上で開いている。剣も紙も握っていない。
その手の上に、私は自分の手をそっと置く。閣下は動かない。けれど、拒まなかった。
グラウが閣下の膝の上でふう、と息を吐く。それから閣下が低く言った。
「……門は、開けない」
「はい」
「お前も、渡さない」
「はい」
「だが、矢も、放たない」
私は閣下の横顔を見る。決められない、と言っている顔だった。
「どうするか、私には、分からない」
この人が「分からない」と言うのを、私は初めて聞いた。掟に従う。名を口にする。守る。この人は、いつも全部分かっていることのようにそうしてきた。
私は重ねた手に力をこめる。
「分からないままで、いいんだと思います。私も分かりません。でも分からないまま、床は磨けました。十年」
閣下の口元が動く。
「……床か」
「はい。床です」
祭壇の上の紙は、そのまま置いておいた。答えは書かない。あの紙は、朝まで神さまの前にある。
私たちは、長椅子に並んで座った。閣下の外套が、二人の肩に。グラウが足の上に。
「眠りません。夜明けまで、ここにいます」
「……好きにしろ」
閣下は眠らない。私も、眠らないつもりだった。蕾を見ている。萼が、月の光の中でほどけた。
◆ ヴィルフリート
肩が、重くなった。見なくても分かる。灰紫の髪が、外套の襟にこぼれている。眠らないと言ったセラが、眠っている。
寝息を聞いた。あの冬から夜ごとに口にしてきたのは、死んだ十二人の名だった。今夜、耳で追っているのは生きている者の寝息だ。浅くて、ひと呼吸ごとに遅れる。
動かなかった。肩を動かせば、起きる。外套の自分の側の半分を外して、セラの側に寄せる。襟を顎の下で合わせる。指が頬に触れそうになって、止まる。
丸窓の月が祭壇の上を渡っていく。皇帝の紋から金の署名へ。それから紙の端を離れて、百合の蕾の上へ。
手が、上がった。何をするつもりなのか、自分でも分からないまま。髪に、触れた。指の腹でこめかみの上をなでる。雪よりやわらかい。そう思った自分が、信じられない。
セラが何か言った。名ではない。たぶん、「……塩」と言った。
息だけで笑った。足の上のグラウが片目を開けて、こちらを見る。
「見るな」
犬は、目を閉じた。
紙は暗がりに沈んだ。蕾だけが、白く残る。丸窓の外で、星がひとつずつ消えていく。
◆ セラ
目を開けると、閣下の肩の上だった。外套が私ひとりに掛かっている。上着だけの閣下の肩が、すぐそこにある。
跳ね起きた。
「す、すみません! 眠らないって、言ったのに」
「眠っていた」
「……どのくらい、ですか」
「蕾が、二度、ほどけるくらいだ」
閣下は前を向いたまま、自分の右肩を手でさする。
「……肩が、しびれた」
耳が、赤い。
(……解釈一致です。いえ、今それどころではありません)
『セラや』
(はい)
『わしは、何も見ておらんぞ』
(何を、ですか)
『何も、じゃ』
空が白みきる前に、閣下が立つ。
「剣を、取ってくる」
「抜くのですか」
「分からない」
外套を私の肩に残したまま、閣下は出ていった。扉が閉まった。
原作の閣下は最後の峠で、迷わずに剣を抜く。そしてひとりで立つ。今夜の閣下は剣を取りに行った。けれど抜くかどうかは分からない、と言った。
私は蕾の前に膝をつく。丸窓の外が夜の黒から深い青に変わりはじめている。その青の中で蕾の白が、いちばん先に明るくなっていく。




