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お飾り聖女は、三行で消えるはずの花嫁でした ~生贄として嫁いだ氷の辺境伯は、前世の最推しです~  作者: 真白のあ
第五章 砕けた心の住まい

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第53話 家令は剣を抜き、閣下は笑った


◆ セラ


 帝国軍が来るまで、あと一日。夜明け前。


 まだ薄暗い厨房で、竈の火だけが赤い。舞い上がる粉が、その火の色にちらちらと光っている。


 パンは、二千五百を越えていた。


 厨房の床に、ルーカスが座っている。霜降り村の子。九つ。麦の袋の隣で、木の枝を削っていた。


「お姫さん」

「はい」

「みんな、死ぬの」


 竈の音が、一瞬、遠くなった。


 私の喉の奥にも、同じ問いが、ずっとしまってある。


 アンナさんの手が止まる。マルタさんの手は、止まらない。グレーテさんは、石を包む布を握りしめた。


 私はルーカスの隣に、しゃがみこむ。


 帳面を開く。


「ルーカス。この帳面に、何人、書いてあると思いますか」

「……わからない」

「二百十六人です」


 私は指で、名前をなぞる。ルーカスの小さな指が、炭の字のあとをついてくる。


「マルタさん。アンナさん。オットーさん。ルッツさん。カールさん。ディルクさん。ヨーゼフさん。グレーテさん。ゲルハルトさん。リーゼルさん。閣下。ギルバートさま。……あなたも。六十二人目」

「おれ、六十二?」

「霜降り村の朝に、書きました。あなたが、麦の袋を運んでくれた日に」


 ルーカスは帳面を見ている。


「この名前は、ひとつも消えません。私が消さないからではなくて、神さまがひとつも忘れないからです」

「死んでも?」

「死んでも」


 竈の火がぱちりとはぜる。ルーカスは木の枝を握ったまま帳面を見ている。


 それから、削っていた木の枝を私に差し出す。指には細い切り傷がいくつもついていた。


 小鳥だった。片方の翼が大きくて、首が曲がっている。けれどくちばしの先だけは、丁寧に丸く削ってあった。


「リーネねえちゃんのやつ。おれ、見たことないけど。母ちゃんが話してた。だから、作った」


 リーネ。


 九年前の冬、あの小屋で、ルーカスは生まれたばかりだった。アンナさんの胸に抱かれて閣下の組んだ火のそばで助かった赤ちゃん。


 顔も知らない姉の小鳥を、この子は母さんの話だけで彫った。


 私はそれを両手で受け取る。


 小鳥は、軽かった。


 小鳥を持ったまま、ルーカスを抱き寄せた。木屑と粉の匂いがする。小さな肩が腕の中で一度だけこわばって、ほどけた。


「……帳面の隣に置きます」

「うん」


 竈の音が戻ってくる。


 アンナさんが鼻をすする。マルタさんが「粉が舞うから、泣くなら外で泣きな」と怒鳴る。グレーテさんは石を包み終えて階段へ走った。走りながら袖で顔を拭いていた。


 ルーカスはまた木を削り始める。


「お姫さん」

「はい」

「あと、何人、書くの」

「全員」


 私は言う。


「峠の向こうの人も、いつか、全員」


 ルーカスは木を削りながら「いっぱいだね」と言う。


 いっぱいだ。


 でも、神さまの帳面は、私のよりずっと大きい。


◆ ギルバート


 帝国軍が来る前の夜、私は種麦の樽の前に立っていた。


 穀物庫は、城でいちばん寒い場所だ。吐く息が、燭台の光の中で白く固まって見えた。


 蓋に、釘。私が打った。閣下にも開けさせるな、と言われて。


 その釘の頭を、指でなぞった。


 パンは、二千八百。あと四百。樽は三つ、空いた。予定どおり。種麦には触れていない。


 塩は今日、麻袋で三つ増えた。これは予定になかった。


 数は、合っている。


 合っているのに、私はこの釘の前で動けなかった。


 三千五百が登ってくれば、この樽は要らなくなる。閣下はそう言った。私は書かなかった。書かなかったが、頭には残る。


 この城で剣を佩く家に生まれたのは、私だけだ。閣下が蓄えを村に分けたあの冬、ほかの家の者は皆、王都へ去った。


 私は残った。


 その理由を、帳簿に書いたことは、一度もない。


 腰の剣を抜く。


 燭台の光に、刃をかざした。九年、帳簿の机の横に立てかけてきた剣だ。曇りはひとつもない。


 数字と同じだ。使わない日にも、手入れは欠かさない。


 鞘に戻す。音は立てなかった。


 足音。


「――ギルバートさま」


 あの娘だった。


 膏薬の匂いがした。閣下の匂いだ。


「何を、なさっているのですか」

「釘を、確かめていました」

「釘を」

「四本です。本数に間違いがないか、見ておりました」


 娘は樽の隣にしゃがむ。


 私は立ったままだった。


「ギルバートさま。ひとつ、伺っていいですか」

「業務のことなら」

「業務です」


 娘は樽を見ている。


「峠から帰ってきたら。ギルバートさまは、薪の帳簿をまたつけますか」


 私は答えを探す。


 業務上の答えを。


「……つけます」

「よかった」


 娘は迷ってから、もうひとつ訊いた。


「明日、ギルバートさまは、どこに立たれるんですか」

「閣下の、後ろに」


 答えは、探さなくても出た。


「峠は、横に六人しか登れません。閣下の前に立つ者は要りません。あの方は前に立たせてくださらないので。ですから、後ろに一人。閣下が振り返らずに済むように」

「……ずっと、そうしてこられたんですね」

「業務です」


 娘は樽の蓋の釘を、ひとつ指で触る。


「帳簿があると、この城は大丈夫な気がします。ギルバートさまが確かめていてくださると」


 私は口を開けた。


 閉じた。


 娘は気づいていないようだ。私は釘を、もう一度数えた。


「行きましょう。閣下が、厨房で、パンをこねています」

「――閣下が」

「アンナさんに、『手が余っているなら、こねな』と言われたそうです」


 娘は樽の前から立ち上がりながら、口の中で言った。


「……粉まみれでも、今日も閣下のビジュがいい……」


 ビジュ。余白の言葉だ。これで二度目になる。一度目の翌日は、晴れた。


 明日の峠の空を、見ておくことにする。


 私は眼鏡を外して、拭く。二度、拭く。


 閣下がパンをこねている。私の帳簿に、その欄はない。


 欄を作るべきかどうか、明日、考える。


◆ セラ


 その夜更け。


 厨房の竈の前に、閣下が座っていた。


 粉だらけの手。上着の袖をまくっている。左手の甲にあかぎれが一本、走っていた。銀灰色の前髪にも睫毛にも、粉が白くついている。


(粉まみれの閣下……ビジュが、今日も更新されました)


「閣下。手を」

「割れた」

「言いました」

「言ったな」


 私は竈の脇の壺を取る。閣下の膏薬。今朝、ギルバートさまが「用途不明」と書いた壺。


 閣下の手を取る。


 昨夜、閣下が私にしたのと同じに。掬って、置く。押さない。


 閣下は私の手を見ている。


 私の指のあかぎれには、昨夜の膏薬が、まだ光っていた。


「セラ」

「はい」

「私の名は、何番目だ」

「五十一番目です」

「五十一」

「閣下が『書け』とおっしゃった夜です。『余計だ』と言われた二行も、まだ消していません」


 竈の火がひとつ、低く鳴る。


「……命令は、まだ生きている」

「私の帳面ですので」


 閣下の睫毛から、粉がひとつ落ちた。


 閣下は膏薬を塗り終えた手を引かない。


 代わりに、その手で、私の頬に粉をつける。


 わざと、だと思う。


「閣下」

「粉が、ついている」

「今、つけました」

「ついている」


 閣下が笑っている。


 いつも眉間に皺を寄せている人が、竈の前で粉だらけの手のまま、声を立てずに笑っている。


 嬉しい。


 でも明日、峠へ行くのだと思うと、その嬉しさをどこへ置けばいいのか分からない。


 竈の火が二人の影を、石の壁にひとつに重ねて映している。


「……セラ」

「はい」

「明日、百合が、咲くか」

「わかりません」

「咲いたら、教えろ」

「はい」


 閣下が立ち上がる。


 立ち上がる前に、私の頭に手を置いた。


 置いて、離す。


 粉が、髪につく。


 寝台に戻る途中、礼拝堂の前を通る。


 祭壇の脇。親指ほどの蕾。


 まだ、開いていない。


 原作の、最後の巻の、最後の峠。


 明日、あの頁が来る。閣下がひとりで立つ頁が。


 原作の閣下はあの峠から、帰ってこない。


(神さま)

『うむ』

(明日、ですか)

『……明日じゃ』

(怖いです)

『じゃろうな』

(神さまも、怖いですか)


 灰色の石の光が、蕾の影を、床に細く落としている。


『お主が怖がっておるとき、わしはその怖さのいちばん近くにおる。……じゃから、ようわかる』

(……)

『怖いのと、隣におるのは、両方できる。霜降り村でも、お主はそうしておったじゃろう』

(……はい)

『今夜、この城に、何人おると思う』

(三百二十三人です。村の人が二百、兵が百、城の者が二十三)

『うむ。ひとりも、欠けておらん』

(ご飯は、足りていますか)

『粥は薄い。塩は今日、マルタが掘ってきた。それでもマルタは、明日の朝の分まで、もう頭の中で割り振っておる』


 神さまの声が、くすりと笑う。


『じゃがな。今夜この城で椀が回ってこなかった者は、ひとりもおらん。村の婆さまにも、赤子を抱いた母親にも、ルーカスにも。犬にもじゃ』

(グラウにも)

『いちばん大きい骨を、もろうておった。……そこだけは、わしの帳面にちゃんと書いてある』


(神さま。ひとつだけ、お願いしてもいいですか)

『言うてみい』

(閣下を、帰してください)


 灰色の石の光が、揺れる。


『明日、お主は、お主の場所に立っておれ。それだけでよい』

(それだけ、ですか)

『それだけじゃ。わしはお主の隣と、あの子の隣と、両方におる。……峠は狭いからのう。近うて、ちょうどよい』


 神さまの声は、いつもよりゆっくりだった。


 私は蕾の前にそっと座りこむ。


 膏薬の匂いが、まだ手に残っていた。


 ルーカスの小鳥を、帳面の隣に置く。


 帳面にはもう、兄の名が書いてある。二百十四人目。金糸の長靴を脱いだ人。


 明日、峠で、その人の顔を見る。


 礼拝堂の丸窓の外では、雪がやんでいた。峠の上の空に、星が空いっぱいに出ている。あの星の下に、兄も、パヴェルさんも、三千五百の人たちもいる。


 ぱちんと、竈の火が遠くで鳴った。


読んでくださって、ありがとうございます。


『怖いのと、隣におるのは、両方できる』


次回、峠の前の夜。閣下のもとに、一枚の紙が届きます。


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本日、同じ世界の短編『余命十日の薬草姫は、十五年後の梨を植える』を投稿しました。

第2話・第6話に出てくる見習いのノアくんの、百五十年ほど前のご先祖さまのお話です。作者のページから、一話で読めます。


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