第42話 霜降り村の朝(一)
扉の下の紙片から、九日が過ぎた。
「――七つの村を、回る」
朝の厨房で、閣下は粥の椀を置いた。
「三十日後に、帝国の軍団が峠に来る。その前に、村の者を城に入れるか、南へ逃がすか。決めさせなければならない」
長卓の兵士たちの匙が、止まる。
「霜降り村がいちばん近い。今日は、そこから回る」
竈の薪が、ぱちん、と鳴った。
「セラ。お前も来い」
粥が、喉に詰まりかける。
「わ、私が、ですか」
「オットーが、アンナにお前のことを話したそうだ。会いたがっている」
湯気の向こうで、オットーさんが黙って頷いている。
「それから」
閣下は椀を持ち上げる。こちらは、見ない。
「馬は、薪を積むので手一杯だ。お前の分は、出せない」
長卓が、しんとなる。
がたん、と卓の端で椀が鳴った。ルッツだ。
「か、閣下。俺の馬、使ってください。肩はもう治ったんで。俺が、歩いて引きますから――」
「ルッツ。お前は、薪を割れ」
「……はい」
ギルバートさまが、眼鏡を拭きはじめる。
トビアスは、にやけた拍子に粥が鼻に入って、むせている。隣のオットーさんが、その背中をどんと叩く。助けたのか、黙らせたのか。たぶん、両方だ。
マルタさんは鍋の火を見たまま、ふん、と鼻を鳴らす。
「お前の分は出せない、ねえ」
私の分の馬は、出せない。
つまり、そういうことだった。
「閣下、あの、私、歩けます。神さ――いえ、足腰には自信が」
「二里を歩かせたのは、初日だけで十分だ」
*
出発のとき、閣下は私を鞍の前に乗せて、後ろから手綱を取った。
薪を積んだ馬が二頭。兵士が二人で引いて、少し後ろからついてくる。
背中に、閣下の胸がある。
外套ごしに、体温が伝わってくる。耳もとで、手綱を握り直す革の音。閣下の顎が、私の頭のすぐ上にあって、息が、髪にかかった。
(神さま)
『うむ』
(相乗りです。相乗り。原作で閣下が相乗りをしたのは、ギルバートさまが負傷したときの一回きり。女の人とは、一度も)
『セラや。本の話より、あの子の手を見てみい』
言われて、見た。
手綱を握る閣下の指の節が、白くなっている。握りしめすぎているのだ。
これから行く村のことを、思っている。すぐに、わかった。
『それとな。お主、さっきから、背中を一寸も預けておらんのう』
言われて、気づいた。
閣下の胸に触れないように、私は背筋をまっすぐ伸ばしたまま、鞍に座っている。腰が、もう痛い。
城門を出ると、空は低く、灰色だ。
雪は、音を吸う。聞こえるのは、蹄が雪を踏む、くぐもった音だけ。馬の鼻から、白い息がふっと流れていく。道の両側の樅は、枝いっぱいに雪を抱えて、重たそうに頭を下げていた。
誰も、口をきかない。
北東の尾根を登りはじめたころ、ふいに、雲が切れた。
細い光が一本、斜めに差しこんでくる。二本になり、三本になって――
一面の雪原が、光った。
樅の枝先に、霧氷が咲いていた。細い氷の花が、何千、何万と、いっせいにきらめく。風が少し吹くと、枝から雪の粉がこぼれて、光の中を、金色に舞いながら落ちていった。
息を、のむ。
王都の雪は、泥と混ざった灰色だった。こんな雪を、私は知らない。
背中の後ろで、閣下が手綱を、少しゆるめる。白かった指の節に、色が戻っていく。
馬の足どりが、ゆっくりになる。急ぐ道ではない、と言うように。
『拍子が、遅れておるのう』
神さまが、なぜか嬉しそうにおっしゃった。
どういう意味なのか、私には、わからない。
尾根の中ほどで、馬が雪の下の石につまずいた。
体が、前に傾く。
閣下の左腕が、私のお腹の前に回る。
「落ちるな」
「はい」
馬が歩き出しても、その腕は、戻らない。
もう、背筋を伸ばしていられない。腕に引き寄せられるまま、背中が、少しずつ後ろへ傾いていく。外套ごしに、閣下の胸に触れる。
預けてしまった。
足もとには、いつもの神さまの、見えない温もりがある。
けれど今日は、背中のほうが、ずっと温かい。
『のう、セラ。あの子、腕を戻す気は、もうないようじゃな』
(神さま。今は、黙っていてください)
『はいはい。じゃが、これだけは言うておこう。あの子の心臓の音、お主の背中に伝わっておるぞ。速い』
*
尾根の頂に出ると、眼下に、白い谷が広がっている。
霧氷の森が、谷の斜面を銀色に覆っている。その底に、小さな村がひとつ、うずくまっている。
霜降り村だ。
雪に半分埋もれた、石と丸太の小屋が十ばかり。炭焼きの煙が三本、四本と、晴れ間の薄青い空へのぼっている。谷の底だけが、まわりの白より少し青く沈んで、その青の中を、煙がまっすぐに上っていった。
村の入口で、閣下は馬を止めた。
そして、すぐには降りない。腕も、まだ私のお腹の前にある。
「九年ぶりだ」
小さな声。
「弔いの日から、一度も来ていない。百合の球根を掘りに来た夜も、崖のほうから回った。村の中は、通らずに」
「はい」
「顔を、見せられなかった。……見せる顔が、なかった」
私は、お腹の前の閣下の手に、そっと、自分の手を重ねた。手綱を握っていないほうの、大きな手に。
閣下は、少し驚いたようだった。
けれど、振り払わない。
谷の底から、炭焼きの煙が、ゆっくりと空へのぼっていく。
その手が、ゆっくりと返った。私の手を、握った。
「行きましょう」
「……ああ」
閣下は私を先に下ろしてから、馬を降りる。
いちばん手前の小屋の戸が、開いている。
戸口に、女の人が立っている。
四十くらいだろうか。髪を布で包んで、粗い毛織りの前掛けをしている。頬が赤くて、手は、マルタさんによく似た働き者の手だった。その前掛けを、九つくらいの男の子が握って、こちらを見上げている。
小屋の脇の薪の山に、山鳩が一羽、止まっている。冬毛でまるくなった、灰茶色の鳥。城の窓に来る二羽とは、違う一羽だった。
「――アンナ」
閣下が、その名前を呼んだ。
毎晩数えていた、十二の名前の中にはない名前。
けれど、あの冬、閣下が火を守り続けた小屋の、その人の名前だった。
アンナさんは、閣下の顔を、長いあいだ見ている。
それから、何も言わずに、戸口を下りた。雪の上を、まっすぐに歩いてくる。閣下の前で止まって、両手を伸ばして――閣下の頬を、包んだ。
「大きく、なりましたね」
震える声だった。
「あのときは、まだ、子どもだった。あたしより背が低くて。痩せっぽちで。薪の束の下で、ふらふらしてて」
アンナさんの手が、少し震えている。
「あたし、寝ながら思ったのよ。この子、倒れるんじゃないかって。自分が死にかけてるのにね。そんなことを、思ってた」
閣下は、動かない。
「目を覚ますたびに、あんたは戸口に座ってた。いちばん寒いところに。火は、一度も消えてなかった。眼鏡の子がずっと粥をかき回してて、犬が、あんたの足を温めてた」
アンナさんが、少しだけ笑う。
「あの犬、まだ、生きてる?」
「グラウは、生きている」
低く、かすれた声だった。
「今朝も、出がけに、私の膝に頭を載せてきた。置いていくな、という顔で」
「そう。……よかった」
アンナさんの親指が、閣下の頬を、そっと撫でた。
「……やっと、来てくれたねえ。あんたの元気な顔が、ずっと見たかったんだよ」
アンナさんは閣下の頬から手を離して、後ろの男の子を、そっと前へ押し出す。
「ルーカス。この方が、あんたを助けてくれた人だよ」
男の子が、閣下を見上げる。
閣下を、というより、腰の剣を。目が、きらきらしている。
「辺境伯さま?」
「……ああ」
「おれ、大きくなったら、父ちゃんみたいに城の兵士になる。それで、辺境伯さまの剣を、持つ」
閣下は、その子の前に、膝をついた。
雪の上に。男の子と、同じ高さに。
「ルーカス」
大きな手が、小さな頭の上に、そっと置かれた。
「兵士になる前に、まず、生きろ。この冬も。次の冬も。その次の冬も。剣は、そのあとだ」
ルーカスは、きょとんとしている。
それから、大きく頷いた。
「うん。生きる。それから、剣」
閣下が、少しだけ笑った。
初めて見る横顔。執務室でも、礼拝堂でも、厨房でも、見たことのない笑い方。子どもの前でだけ、出てくる顔。
目尻が、ほんの少し下がっている。氷竜と呼ばれる人の、目尻が。
私は、それを、見なかったふりができない。
『あの顔をな、わしは、久しく見ておらなんだ。十六のあの子が、生まれたばかりのルーカスを抱いておったとき以来じゃ』
*
リーネちゃんのお墓は、村の裏の、崖の下にあった。
小さな石がひとつ。その周りだけ、雪がきれいに払われている。
「毎朝、あたしが払ってるんです」
アンナさんが言った。
「春になると、崖の上に、百合が咲くの。あの子が好きだった花。一本しか咲かないのに、毎年、『今年は二本咲く』って言ってた」
閣下が、石の前に膝をつく。
私も、少し離れて、膝をついた。
閣下は、何も言わない。執務室の床でしていたように、名前を数えることもしない。
ただ、石の上に、手を置いている。
長いあいだ。
「辺境伯さま」
アンナさんが、その背中に声をかけた。
「オットーから、聞きました。礼拝堂の窓のところで、あの人が言ったこと」
閣下の肩が、わずかに動く。
「あたしはね、もっと早く言えたはずのことを、言えなかったの。あのときのあんたが、あんまり子どもで。あんまり必死で。あんまり、自分を責めてる顔をしてたから」
アンナさんは、閣下の隣に膝をついた。
「言ったら、あんたが壊れると思った」
そして、まっすぐに言った。
「辺境伯さま。あたしは、あんたを、一度も恨んだことがない」
雪が、静かに降りはじめている。
「恨んだのは、開かなかった城門と、あの年の冬。それから、自分。あの子の熱に、もっと早く気づけなかった、自分」
アンナさんは、リーネちゃんの石を、前掛けの端でそっと拭った。
「でもね。あの子は、最後の朝、火の匂いの中で死んだの。あたしの隣で、あんたの薪の火に照らされて」
声が、かすれていく。
「あの冬、そんな死に方ができた子は、この村で、あの子ひとりだった。ほかの子は、みんな、冷たい部屋で。暗いうちに」
石の上で、閣下の手が、震えている。
「それは、あんたが、来てくれたからです」
閣下は、うつむいたままだった。銀灰色の髪に、雪がひとひら落ちて、溶けずに残った。
アンナさんは、少しためらう。
「それとね、辺境伯さま。これは、言うかどうか、ずっと迷ったんだけど」
雪が、石の上に、薄く積もっていく。
「あの子、熱の中で、ずっと言ってたの。前の夏、崖の百合を一本、馬に乗った銀色の髪の若さまにあげたって。若さまが、受け取ってくれたって。だから、若さまが薪を持ってきてくれる、って」
アンナさんの目が、石を見ていた。
「夜のあいだ、ずっと。竈の前で、枝を握ったまま。朝になったら、若さまが来る、って」
閣下の手が、石の上で、止まる。
「来ましたよ。若さまは。あの子の言ったとおりに。間に合わなかったけど――あの子は最後まで、あんたが来ないとは、一度も言わなかった」
閣下は、動かない。
動かないまま、石の上の手を、ゆっくりと開いた。
「……覚えている」
低い声だった。
「前の夏だ。峠の見回りの帰りに、この村を通った。崖の下に、小さいのがひとり、花を持って立っていた」
閣下の肩に、雪が積もっていく。
「馬を止めろ、と言われた。誰かに止められたことなんて、なかった。だから、止まった。一本、差し出されて、受け取った」
崖の上から、風が、細かな雪を運んできた。
「名前は、訊かなかった。……訊けばよかった。礼も、言わなかったかもしれない」
「言いましたよ」
アンナさんが言った。
「あの子、帰ってきて三日、その話ばかりしてた。若さまが『悪い、手が塞がっている』って、片手で受け取ってくれたって。笑ってたって」
閣下が、目を閉じる。
「その花を、私は、どうした」
「知りません」
アンナさんは、首を振る。
「でも、あの子は、持っていってくれたと思ってました」
閣下は、長いあいだ、黙っている。
それから、ほとんど聞こえない声で、言った。
「胴着の内側に、挿した。城に着くころには、しおれていた」
息を、ひとつ。
「……捨てた覚えは、ない」
礼拝堂の夜を、思い出した。門を叩く音を聞いて、朝を待った――閣下は、そう言った。
その同じ夜、竈の前で、七つの子も、朝を待っている。
同じ夜に、二人が、朝を待っていたのだ。
閣下の肩が、一度だけ、大きく揺れた。
霜降り村の雪の上で。
アンナさんが、その肩に、手を置いた。母親が、子どもにするように。
『――セラや』
胸の奥で、神さまが、静かに呼んだ。
(はい)
『わしはな、今、この崖の下に、三人分、膝をついておるよ』
目を、閉じる。
(三人分)
『あの子の隣と、アンナの隣と。それから――リーネの、隣にな』
百合の香りが、雪の中に、ふわりと降りてきた。
冬の崖に、百合は、まだ咲いていない。
それなのに、その香りは、確かにそこにあった。
閣下が、顔を上げた。
「……また、匂う」
アンナさんが、驚いて閣下を見る。
「百合が。まだ、冬なのに」
アンナさんは、崖の上を見上げる。雪しかない。
閣下の顔を見て。私の顔を見て。最後に、リーネちゃんの石を見た。
「あの子が」
小さな声だった。
「あの子が、来てるんだね」
私は、何も言わない。
アンナさん、そうです。来ています。声には出さずに、そう答えた。
リーネちゃんは、ここにいる。
神さまの、隣に。
それきり、神さまは、何もおっしゃらなかった。ただ、香りだけが、そこにある。だから、閣下に取り次ぐ言葉は、ひとつもない。
かわりに目を閉じて、そこにいる女の子に、心の中で話しかけてみた。私の言葉で。
(リーネちゃん。はじめまして。セラです)
(百合のこと、オットーさんから聞きました。若さまのことも。……若さまは九年、毎晩、あなたの名前を呼んでいました。冷たい床に、膝をついて。私、それを、見ました)
(私は、この人のそばにいます。この人が、もう、ひとりで床に膝をつかなくていいように。だから、安心してね)
目を開けると、閣下が、石の上の手を、そっと持ち上げたところだった。
「……遅くなった。リーネ」
石にしか届かないくらいの、低い声。
ずっと、十二の名前のひとつとして呼んできた子を、はじめて、ひとりの女の子として呼ぶ声だった。
閣下が、顔を上げる。
私も、顔を上げた。
目が、合う。閣下は、逸らさない。私も、逸らさない。
薪の山から、山鳩が一羽、飛び立った。石の上を一度、低く回って、崖の上へ消えていった。
村へ戻る雪道は、細い。
どちらが先だったのか、わからない。気づいたら、手をつないでいた。手袋ごしに。
前を歩くアンナさんが、一度だけ振り返った。何も言わずに、また前を向いた。
*
村の人たちを集めての話し合いは、驚くほど短い。
「城に入れ。三十日後に、帝国が峠に来る。村は、焼かれるかもしれない」
閣下がそう言うと、炭焼きの男たちが顔を見合わせる。
いちばん年かさの男が、口を開いた。
「閣下。逃げろとは、おっしゃらねえんで」
「南へ逃げる者を、止めはしない」
「ふん」
男が、鼻を鳴らす。
「あの冬、あんたが来なかったら、この村は、あの冬で終わってた。今さら逃げろと言われて、逃げる者が、ここにいると思いますかね」
「城に入って、何をする」
「炭を焼きます。薪を割ります。アンナと女房たちは、パンを焼く。城の粥は塩が足りねえって、オットーが笑ってましたから」
思わず、口元を押さえた。
「ほかの六つの村にも、同じことを言え、とは、私は言わない」
「言わなくても、言いますよ。七つの村は、あの冬を、一緒に越えたんだ」
アンナさんが、私のほうを見る。
「それから、聖女さま。村じゅう、あんたに会えるのを楽しみにしてたんだよ。オットーが、『麦を一粒残らず拾う王女さまだ』って、三度も同じ話をしたから」
「三度も」
「四度目は、あたしが止めた」
どっと、笑い声が上がった。炭焼きの男たちも、女たちも、子どもたちも。
閣下のいるところで、この村の人たちが、声をあげて笑っている。
閣下は、笑わない。
けれど、戸口の柱に肩を預けて、その笑い声を、ずっと聞いている。目を、ほんの少しだけ、細くして。
帰りぎわ、ルーカスが、私の外套の裾を引いた。
「ねえ、聖女さま。辺境伯さま、さっき、笑った?」
「……たぶん」
「じゃあ、また来る?」
答えたのは、私の後ろの、低い声だった。
「来る。春になったら。崖の百合が咲くのを、見に来る」
ルーカスは閣下を見上げて、満足そうに、大きく頷く。
「一本しか咲かないよ」
「知っている」
「でも、リーネねえちゃんは、毎年、今年は二本咲くって言ってた」
閣下は、ルーカスの頭に、もう一度、手を置いた。
「なら、今年は、二本咲くかもしれないな」
谷の上で、霧氷の森が、傾きはじめた日を受けて――もう一度だけ、銀色に光った。




