第43話 霜降り村の朝(二)
◆ 幕間 従者パヴェルの松明
国境の川は、凍っていた。
その川べりの雪原に、天幕が五百、並んでいる。夜になると、篝火が平原いっぱいにともって、地面にもうひとつ星空ができる。北の尾根だけが、その上に、黒く黙ってそびえている。
帝国軍第四軍団。三千の兵。
侯爵さまが帝都から戻って、十日になる。
いちばん大きな天幕の前に、皇帝陛下の金の像が、絹の覆いを外されて立っている。
毎朝、俺はあの像の金を磨く。
磨いていると、ときどき、指の下で、こつ、と軽い音がする。木の椀を叩いたときの音に、少し似ている。
そういうことは、考えないことにしている。
侯爵さまは、像の足に額をつけてから、朝飯を食う。兵が雪の上で凍えた粥をすすっている横で、像には、いちばん暖かい天幕の真ん中が空けてある。
侯爵さまは、像に近いところで眠る者ほど偉いと思っている。だから侯爵さまの寝台は、像のすぐ隣だ。軍団長の寝台より、ひとつ近い。
それが、自慢なのだ。
三年見てきたから、わかる。像の前で頭を下げるとき、侯爵さまはいつも横目で、誰がどれだけ深く下げているかを見ている。像を拝んでいるのか、拝んでいる自分を見せているのか。俺には、もう、わからない。
軍団長も、毎朝、像に頭を下げる。いちばん浅く、いちばん短く、退屈そうな顔で。けれど、一日も欠かさない。下げなかった者がどうなるか、知っているからだろう。
兵たちも、下げる。下げなければ、粥が減る。だから誰も、何も考えずに下げる。
俺の仕事は、その像の足もとの雪を払うことだ。
払っても、払っても、雪は積もる。像は寒がらない。寒いのは、払うほうだけだ。
そういうものだと、思っている。
野営地を歩くと、寒いやつはすぐにわかる。
肩の上がり方でわかる。指の曲げ方でわかる。天幕の陰で、脇に手を挟んで足踏みしているやつ。東の村から来た連中は、たいてい、そういう立ち方をする。俺も、そうだった。
わかったところで、何もしてやれない。毛布の数は決まってる。薪も決まってる。だから、見ないことにしている。見ると、手が勝手に動くからだ。
鍛冶の天幕からは、朝から晩まで、槍の穂先を研ぐ音がする。荷車には、油の樽が積まれていく。何に使う油なのか、誰も口にしない。
隣の天幕で、ミハルが咳をした。同じ東の村から来た、いちばん若いやつだ。毛布を頭までかぶって、咳をするたびに、背中が小さく跳ねる。
俺は、見ないことにした。
天幕の中から、侯爵さまの声がした。軍団長に、鉱山のことを話しているらしい。
「坑道の奥には、灰色の石ころがひとつ、転がっていただけだ。鉱山は、もう枯れておる」
「灰色の石ころ、か」
答えたのは、軍団長だった。太くて、よく通る声だ。
「では、鉱山に用はない。北の峠を取るには、城を落とすしかない。城を落とすには、まず、村を焼く」
副官らしい声が、訊き返した。
「村を、でありますか」
「兵糧だ。七つの村が城に食い物を運ぶのを止める。それに、燃える村の煙を城から見せてやれば、氷竜とて籠城は続けられん」
侯爵さまが、蜜みたいな声で笑う。
「なるほど。慈悲深き皇帝陛下の御意のままに」
天幕の布の隙間から、温めた葡萄酒の匂いが流れてくる。今夜の侯爵さまの卓には、焼いた肉の皿が三つ並んでいる。外の兵の椀には、水みたいな粥が、半分。
箒が、止まっている。
村。
俺は、帝国の東の外れの、小さな村の出だ。三年前の秋、麦の穫れない年に、足りない年貢の代わりに侯爵家へ差し出された。出さなきゃ村を焼く、と徴税官が言ったからだ。だから村は、俺を出した。
恨んじゃいない。あの年、うちの竈には、薪が二本しかなかったんだ。
出る朝、母ちゃんが、最後の麦をひと握り、俺の懐に入れた。三日目に、食っちまった。腹が減ってたんだ。仕方ない。
でも、懐の、麦のあった場所だけ、しばらくあったかかった。それを、覚えてる。
仕着せの袖は、最初から長すぎた。前の従者のお下がりだ。そいつがどこへ行ったのか、誰も教えてくれなかった。
北の城の、厨房の窓を思い出す。
前掛けから麦をひと握り出して、窓の桟に置く手。侯爵さまは、あれを王女だと言った。王女には見えなかった。あれは、寒いやつに気づいて、手が勝手に動いてしまう人の手だ。
母ちゃんと、同じ手だった。
あの城に麦を運ぶ村を、焼く。
帝国の村なら、焼かない。北の村だから、焼く。そこに俺の母ちゃんがいないってだけの理由で。
……仕方ない。俺が決めることじゃない。
いつもみたいに、そう思った。
思ったのに、箒が、動かない。
「――おい、そこの従者!」
天幕の入口から、侯爵さまが顔を出した。葡萄酒の杯を、手に持ったまま。
杯の底に残った酒を、ぴしゃり、と雪の上に捨てる。赤い染みが、じわりと広がった。俺が、さっき払ったばかりの雪だ。
侯爵さまは、俺の名前を呼んだことがない。三年、一度も。
「明日から、お前は先鋒の先頭で、皇帝陛下の御尊像を担げ。北の犬どもに、誰が来たのかを見せてやるのだ」
「はい、侯爵さま」
はい、と言うのは得意だ。三年、毎日言ってる。
*
その夜は、眠れなかった。
天幕の裏に出た。誰もいない。雪が、篝火の明かりを、橙色にはね返している。
なんとなく、膝をついた。
祈ろうと思ったわけじゃない。祈りの言葉なんて知らない。帝国じゃ、皇帝陛下が神さまだ。陛下に捧げる文句なら毎朝唱えさせられてるが、あれを今、口に出す気にはなれなかった。
ただ、あの坑道で膝をついたことを、思い出したんだ。
あの低い戸口。四つん這いで、頭を下げて、くぐった。額に、石の縁が触れる。冷たくて、なめらかで、丸くすり減っている。何百年ぶんの誰かの額で、すり減った石だ。
中は、何もない部屋だった。侯爵さまにも、そう報告してある。
ひとつだけ、言わなかったことがある。
あの部屋は、寒くなかった。
地の底だ。外は雪だ。松明一本で温まる広さじゃない。なのに、坑道を歩いてきた体が、戸口をくぐったとたん、ふっと、ゆるんだ。
覚えのある、ゆるみ方だった。
考えて、思い出した。ガキのころ、熱を出した夜。母ちゃんが、何も言わずに、寝床の横に座った。それだけで、体のどこかがほどけた。あれと、似ている。
腰掛けの上の丸い石を拾って、外へ這い出た。立ち上がる前に、なんとなく、両手で包んだ。松明の光の届かない、手のひらの陰で。
白く、光った気がした。
ひと息のあいだだけ。
侯爵さまは、その石を指輪の指で叩いて、「ただの石だ」と言って、放った。
俺は、何も言わなかった。言ったら、取られる気がしたんだ。何を、かは、わからない。
――気のせいだ。
口の中で、そう言ってみた。
気のせいだと声に出して言わなきゃならないことは、たいてい、気のせいじゃない。そのくらいは、俺でも知ってる。
雪の上で、膝が冷えていく。
光る石も、あの部屋もない。篝火の煙と、凍った馬糞の匂いがするだけだ。
当たり前だ。何を待ってたんだか。
――そう思ったとき、ふっと、膝のあたりが、少しだけあったかくなった。
どこからか、花の匂いがした。
こんな雪の野営地に、咲いている花なんか、ひとつもない。それなのに。春先の、村の土手に咲く、名前も知らない白い花の匂いだった。
ひと息のあいだだけ。すぐに、篝火の煙の匂いに戻る。
気のせいだ、とは、今度は言わなかった。
立てない。立ちたくない。
右の手のひらを、そっと閉じる。坑道であの石を包んだときと、同じように。手の中には、何もないのに。
明日、俺は金の像を担いで、北の村へ行く。あの城に麦を運ぶ村を、焼きに。
仕方ない。いつもなら、そう言って終わりにする。
でも今夜は、その言葉が、どうしても出てこなかった。
見張りが交代する声で、我に返った。ずいぶん長く、そうしていたらしい。膝の感覚が、ほとんどなくなっていた。
這うようにして、天幕に戻った。
閉じた右の手のひらは、まだ、少しだけあったかい。
◆ 帰り道
城へ戻る馬の上で、閣下は、ずっと黙っている。
尾根を登りきるころ、日が傾いた。
一面の雪原が、ゆっくりと色を変えていく。白から、淡い桃色へ。桃色から、茜色へ。谷の底から先に青い影が満ちてきて、霧氷の森を、ひと枝ずつ沈めていく。
最後の光が、尾根の雪の縁にだけ、細い金色の糸のように残る。
それも、すうっと消えた。
西の空に、星がひとつ、灯った。
閣下の左腕は、私のお腹の前に回ったまま。行きよりも、少しだけ強く。
下り道に入ると、閣下は手綱を引いて、馬の歩みをゆるめた。行きの半分くらいの速さだ。
「雪が深い。急がせる理由も、ない」
行きと、同じ雪なのに。
『相手の歩みに自分を合わせる者が、もう一人できたのう』
神さまが、小さくおっしゃった。
(もう一人、ですか)
『わしのやり方じゃ。隣に座るのと、同じでな』
下り道は、行きよりずっと長い。
長くて、よかった。
樅の林の手前で、閣下が手綱を、すっと左へ引いた。馬が、道からひと足ぶん外れる。
何もない、ただの雪だった。少なくとも、私の目には。
「……どうして、避けたんですか」
「雪の色が、少し青い。下に、沢が隠れている。踏めば、膝まで抜ける」
閣下は振り向かずに、後ろへ短く声を投げた。
「沢だ。左へ、ひと足」
「はっ」
薪を下ろして空になった馬を引く兵士たちが、同じ場所で、同じだけ道を外れる。誰も、聞き返さなかった。
言われて見ると、月の光の中で、そこだけ雪が、ほんのかすかに青みを帯びている。言われなければ、一生気づかない色だった。
閣下は、それ以上は何も言わない。当たり前のことのように、手綱を戻しただけだった。
(解説つき。推しの、北の雪の、解説つき)
原作に、「北でいちばん雪を読むのは辺境伯」という一行があった。挿絵の閣下は、ただ馬に乗っているだけ。本物は、ずっとかっこいい。
『顔に出ておるぞ』
(今、真っ暗なので、大丈夫です)
『わしには、見えておる』
「セラ」
「はい」
「崖の下で、今日は、神の言葉を取り次がなかったな」
「はい」
「礼拝堂でも、私室でも、お前は『神さまが、おっしゃっています』と言った。今日は、一度も言わなかった。なぜだ」
少し考えてから、答えた。
「今日は、閣下にお伝えする言葉が、なかったんです。神さまは、ただ、そこにいらっしゃっただけで。……私の言葉なら、少しだけ、リーネちゃんに」
「何と言った」
「内緒です」
閣下は、答えない。手綱を持つ手が、少し動いただけだ。
蹄の音が、いくつか、雪に吸いこまれた。
「三人分、と言ったな」
驚いて、振り返りかける。
振り返ったら、閣下の顎に額がぶつかってしまう。慌てて、前を向いた。
「……声に、出ていましたか」
「小さくだが。お前は、神と話すとき、口が動く」
「気づいていませんでした」
「私は、気づいていた。初日から」
初日から。
塔のいちばん上の執務室で、泥だらけの靴のまま、初めて閣下の前に立ったときから。
頬が、一気に熱くなる。冷たい夕風の中で、そこだけが、竈の前にいるみたいだ。
「アンナと、私と、リーネの隣に」
「……はい」
閣下が、手綱を握り直す。
「――お前の神は、ずいぶん、膝の減りが早そうだな」
思わず、笑ってしまった。
背中の後ろで、閣下も、ふっと息を漏らした。白い息が、私の耳のそばを流れていく。お腹の前の腕が、その笑いで、かすかに揺れている。
『言うてくれるのう、あの子は』
神さまは、まんざらでもなさそうだった。
『じゃが、当たっておる。はじめから、減りっぱなしじゃ』
星が、ひとつ、またひとつと増えていく。
樅の森の上に、細い月がのぼった。月の光が雪に落ちて、道の両側が、ぼんやりと青白く浮かび上がる。冷たい空気が、吸うたびに胸の奥まで澄んでいく。
「十六の私は」
背中の後ろで、閣下が言った。
「花をくれた子の名前を、訊かなかった。片手で受け取って、それきりだ」
お腹の前の腕が、少し、こわばる。
私は、前を向いたまま言った。顔を見ないほうが、言える気がした。
「十六歳の閣下は、手が塞がっていたのに、馬を止めて、花を受け取って、胴着の内側に挿しました。リーネちゃんは、それを三日も話していたんです」
息を、ひとつ。
「……ちゃんと、届いていました。十六歳の閣下のしたことは」
閣下は、何も言わない。
月が、少し高くなった。
「九年、あの村の中を、通れなかった」
「はい」
「今日は、通った」
手綱が、きゅっと鳴る。
「……ひとりでは、来られなかった」
胸の奥が、ぎゅっとなった。
私は、お腹の前に回された閣下の手に、自分の手を、そっと重ねた。手袋ごしでも、冷えているのがわかる。
「セラ」
「はい」
「行きにも、お前は、そうした」
「はい」
「あれは、何のつもりだった」
言葉を、探す。
「閣下の指が、手綱で白くなっていたので」
「それだけか」
「それから……私、ずっと背中を伸ばしていたので。閣下に、寄りかからないように」
閣下が、黙る。
それから、お腹の前の腕を、ほんの少しだけ引き寄せた。
私の背中が、閣下の胸に、ぴったりとつく。
「……今は、どうだ」
耳のすぐ後ろで、低い声がする。
「……預けて、います」
閣下は、何も言わない。
ただ、私の頭のてっぺんに、何かが、そっと触れた。閣下の顎だ。重さをかけない、置くだけの触れ方。
お腹の前の腕は、もう、戻らない。
尾根の肩で、閣下の腕が、一度だけこわばった。
東の、遠い山の頂に、小さな火の点がひとつ、ともっている。星にしては、赤すぎた。
「閣下。あれは」
「……今は、見なくていい」
閣下は、馬の首を、ゆっくりと西へ向けた。赤い点は、尾根の陰に隠れて、見えなくなる。
お腹の前の腕は、さっきより、少しだけ強かった。
尾根を下りきると、雪原の向こうに、城の灯りが見えた。黒い塔の窓に、ひとつ、ふたつ。
月の光の中で、それは、待っている人のいる家の灯りに見えた。
閣下の心臓の音が、私の背中に、ずっと伝わってくる。速い。私のも、たぶん、同じくらい速い。
このまま、城に着かなければいいのに。
そう、思った。
◆ 城門
城に着くと、門番のカールさんが、雪の中で直立不動になっている。
閣下の前に座る私を見て、閣下の腕を見て、閣下の顔を見る。それから、もう一度、私を見た。その目が、一瞬、私の髪のところで止まる。麻布は、いつのまにか、ほどけて肩に落ちていた。
カールさんは、雪よりも白い顔で言う。
「か、閣下。あ、あの、ギルバートさまが、執務室でお待ちです。王都から、鳩が」
閣下は、まず私を降ろした。両手で腰を支えて、雪の上に、そっと。それから、自分も馬を降りた。
グラウが門の陰から走ってきて、私の足に体を押しつける。
「何と、言ってきた」
カールさんが、唾を飲みこんだ。
「――『三ヶ月の期限を、待たない』と。王家は、帝国と共に、二十日後に、峠へ来る、と」
尾根の肩で見た、東の山の赤い点を、思い出した。
あれは、烽火だったのだ。国境の見張り台から、山から山へと火を継いで知らせる、北の合図。
――帝国の軍が、国境の川べりに集まった。
閣下は、あの火を見た瞬間に、それを読んでいた。
足もとで、神さまの温もりが、ふっと遠のいた気がする。
夜風が、城門をくぐり抜けていく。松明の火が、大きく傾いだ。
閣下は、何も言わない。
ただ、私の肩に、黒い外套を掛けた。それから、肩に置いた手に、一度だけ、力をこめた。
「厨房へ行け。マルタに伝えろ。塩は、今日から節約だ。長い冬になる」
グラウが、閣下の足もとで、低く鼻を鳴らす。
「……スープの塩は、足りないままでいい」
閣下は、そのまま螺旋階段を上っていった。
私は、外套の襟を、左手で握りしめた。まだ、閣下の体温が残っている。
帝国の軍団が来るまで、あと二十日。
その夜、城の窓という窓に、遅くまで灯りがついていた。
鍛冶場では、槍が研がれる。厨房では、マルタさんが、塩の壺をのぞきこんでいる。
東の山々では、烽火が、ひとつ、またひとつ、尾根づたいにともっていく。
三ヶ月の期限は、もう、意味を失っていた。
けれど、背中には、まだ、尾根の上の心臓の音が残っていた。
次回から、新しい章に入ります。
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