第41話 署名のない羊皮紙(二)
翌日の夕方、厨房の長卓は、ちょっとした騒ぎになっていた。
見張りを終えた兵士たちが、二十人あまり。長い腰掛けに肩を寄せ合って座って、いつもより声が大きい。
「お、おい、本当に来るのか。閣下が」
「ギルバートさまが言ってたぞ。今夜から、兵と同じ卓で食うって」
「九年、一度もなかったぞ、そんなこと」
「賭けるか。来るほうに、干し肉ひと切れ」
「賭けにならねえよ。見ろ、グラウがもう卓の下で待ってる」
「あいつ、閣下の座る場所、知ってるのか」
グラウは、長卓の真ん中あたりの下に寝そべって、入口のほうをじっと見ていた。私より、よほど落ち着いている。
長卓には、いつもの木の椀が、端から端までずらりと並んでいる。その中にマルタさんが、ひとつだけ、縁の欠けていない椀を置いた。
「奥様の隣に、閣下の席、と」
ぶつぶつ言いながら、椀の位置を何度も直している。右に指一本。左に指半分。また右に。
「奥様がどこに座るかって、閣下に訊かれたよ。あたしが知るもんか。閣下の奥様が、この長卓に座ったことなんて、四十年、一度もないんだから」
マルタさんは、手を止めずに続けた。
「……先代の奥様が、一度だけ来たっけね。坊ちゃんが三つのとき、粥をこぼして、自分で拭きに来たんだ。あたしが止めたのに、聞かなかった」
「マルタさん、私は奥様じゃ――」
「うるさいよ」
マルタさんは、私の椀を、閣下の椀の隣に、どん、と置いた。
「あんたは、あたしの厨房から出た麦を、一粒残らず拾った。あたしの厨房では、それが妻ってことでいいんだ。先代の奥様と、同じだよ。あの人も、自分で拭いた」
言い返せなかった。この城の身内の輪に、入れてもらえた気がした。生まれて初めてのことだった。鼻の奥が、少しだけ、つんとした。
「あの、マルタさん。俺の席は」
私の向かいで、ルッツが、肩に包帯を巻いたまま小さな声で言った。この一週間、毎晩、私の前の席で見張りの話をしてくれた人だ。
「ルッツ。あんたは、今日から、あっちの端だ」
「なんでですか。俺、この一週間、毎日そこで――」
「閣下の目の前で、あんたが王女さまにぺらぺら話しかけてごらん。スープが凍るよ」
「あっちの端」
ルッツは椀を抱えて、卓の反対の端まで移っていった。移りながら、三度振り返った。
そのすきに、トビアスが、空いた私の前の席に、さっと座った。籠をひとつ、大事そうに膝に抱えている。
卓の反対の端から、ルッツの声が飛んできた。
「トビアス。お前、そこは」
「王女さまと、閣下の前です」
「お前、指、治ったんだからな。俺は、まだ肩が」
「肩は、座るのに関係ないです」
閣下は、本当に来た。
黒い外套を脱いで、白いシャツに藍色の胴着で。厨房の入口で一瞬だけ足を止めると、竈の火がその顔を下から照らした。銀灰色の髪。まっすぐな鼻筋。何かを決めたあとの人の、静かな目。
それから、迷わず長卓に歩いてきた。
兵士たちが、椀を置いて、いっせいに立ち上がった。私も、あわてて立った。
「座れ」
閣下はそう言って、先に腰を下ろした。マルタさんの置いた椀の前に。
私の、隣に。
閣下が座るのを待って、兵士たちも私も、そろそろと腰を下ろした。
肩が、触れそうだった。触れていないのに、右側だけ、竈の前にいるみたいに熱い。
厨房が、しん、と静まり返った。
グラウが卓の下から、閣下の膝に頭を載せる。
かしゃん。
トビアスの隣で、カールが匙を取り落とした。
「カール」
「は、はいっ」
「今夜は、起きていられそうか」
カールは真っ赤になって、匙を拾った。
がたん。
今度は、向かい側のいちばん端で、椅子が倒れた。ギルバートさまだった。
閣下のいちばんの側近なのに、今夜は自分から、いちばん端の古い椅子を選んでいた。長卓の全員の椀が、ひと目で見渡せる席だ。
九年、帳簿の数字ひとつ乱したことのない人が、だ。
「失礼いたしました。椅子が。……いえ、椅子に罪はございません」
ギルバートさまが、眼鏡を押し上げる。それから、もう一度押し上げる。
「九年、閣下のお食事は、執務室までお運びしておりました。……召し上がらずに戻ってくる夜のほうが、多うございましたが。階段は、四十二段。毎晩、数えておりました」
(数えていらしたんですね)
「……数える必要は、特になかったのですが」
「本日、閣下が皆と卓を囲まれたこと、帳簿に記させていただきます。日付は、少し大きめの字で。いえ、少しです。ほんの、少し」
(大きめの字)
ギルバートさまは閣下に向き直って、背筋を伸ばした。
「閣下。本日のお席は、たいへん、よくお似合いです」
「……席が、か」
「……席が、です」
言ってから、本人が首をかしげた。
続けて、なぜか私のほうにも向き直る。
「奥様におかれましては――いえ、王女におかれましては。……スープが、冷めませんように」
「あ、ありがとうございます」
何に対するお礼なのか、自分でもよくわからなかった。
『あれがのう、あの若者なりの、はしゃぎ方なんじゃよ』
神さまが、しみじみとおっしゃった。私は匙を握ったまま、笑いをこらえた。
「ギルバート」
「はっ」
「まず、椅子を起こせ」
「はっ」
ギルバートさまが、椅子を起こした。
「座れ」
「……膝が、少々、言うことを聞きませんで」
「膝は、曲げるものだ」
「……はっ」
ギルバートさまは、言われたとおりに膝を曲げて、座った。座ってしまうと、何事もなかったような顔に戻った。
耳だけが、まだ赤かった。
兵士たちは、笑いをこらえるのに必死で、みんな椀の中ばかり見ている。張りつめていた空気が、ゆっくりとほどけていった。
「坊ちゃん」
マルタさんが、閣下の椀に、なみなみとスープを注いだ。
「残したら、承知しないよ。今日のは、この子が作ったんだからね」
「マルタ。坊ちゃんはやめろ。兵の前だ」
「兵の前だから、言ってんだ」
閣下は、黙った。
「あの、閣下」
向かいの席から、トビアスが、膝に抱えていた籠を、閣下のほうへおずおずと差し出した。
「パン、です。今朝の焼き上がりで、いちばんふっくらしたのを、取っておきました。閣下が、本当に来てくださったら、渡そうと思って」
籠の中には、パンがひとつだけ入っていた。ほかのより、ひとまわり大きくて、柔らかそうだった。
「お前が食え。指を治したばかりだろう。力をつけろ」
「もう治りました! ほら」
トビアスが、十本の指を、ぱっと開いて見せた。どの指にも、ちゃんと血の色がある。
「聖女さまが温めてくれたおかげで、今朝は、パンもこねられたんです。そのパンの、いちばんいいのです」
閣下は、その指を、しばらく見ていた。あの吹雪の夜、蝋のように白く固まっていた指だ。
「……なら、もらう」
閣下はパンを受け取ると、ひと口ちぎって、口に入れた。
「……うまい」
トビアスの顔が、ぱあっと明るくなった。
それから閣下は、木の匙を取って、スープをひと口すくった。口に運んで、しばらく黙る。
長卓じゅうが、息を止めて、閣下の口元を見ていた。
「……塩が、足りん」
思わず、噴き出した。
閣下が、こちらを見た。
「笑うな」
「すみません。でも、最初の紙と、同じ言葉だったので」
「最初の?」
「洗い場の桶の中に、置いてあった紙です。『塩が足りん』。今も、持っています。麻袋の底に。この城でいただいた、宝物の一つ目です」
閣下の匙が、止まった。
それから長いあいだ、スープの湯気を見ていた。
「一つ目、か。……ほかには」
「王都から持ってきたのは、料理長さんのパンの麻布と、岩塩の包みと、殿下の絹の布です。この城でいただいたのは、あの紙と、何も書いていない白い紙と、礼拝堂の鍵と、百合の包みの紙片」
閣下の耳が、首筋まで赤くなった。
「捨てろ、と言ったら」
「捨てません」
「……そうか」
閣下は、もう一度スープをすくった。
「では、明日は、塩を足せ」
「はい」
返事をしながら、こっそり思った。
明日は、ほんの少しだけ、足りないままにしておこうか。あの声で、もう一度、「塩が足りん」と言ってほしいから。
閣下は、黙ってスープを飲んだ。ひと匙ずつ、最後まで。椀の底が、きれいに見えた。
それから閣下は、その椀を、私のほうへ差し出した。
「……もう一杯、もらえるか」
厨房の音が、ひとつ止まった。マルタさんのお玉が、宙に浮いたまま止まっている。
九年、ひとりで冷めた食事をしてきた人が、二杯目を頼んでいる。
「塩は、足りなくていい」
閣下は、目を逸らしたまま言った。
「お前のスープなら、それでいい」
両手で椀を受け取るとき、閣下の指が、私の指に触れた。
閣下は、すぐには手を離さなかった。私も、離せなかった。
それから私は立ち上がって、竈の鍋から、スープをなみなみとよそった。こぼさないように、両手で、閣下の前に置く。
マルタさんが、お玉を握ったまま、私に向かって小さくうなずいた。
長卓のあちこちで、兵士たちが、こっそり顔を見合わせている。オットーさんは、湯気の向こうで静かに笑っている。トビアスは、二杯目に匙を入れる閣下を見て、にこにこしている。
ルッツは、卓の反対の端で、椀に向かって長いため息をついていた。
マルタさんが、黙って、その椀にもう一杯よそった。
ルッツが、少しだけ元気になった。
卓の下では、グラウが閣下の足に顎を載せたまま、のんきないびきをかきはじめていた。
ふと隣を見ると、閣下が匙を置いて、長卓を見渡していた。
肩を寄せ合って座る、二十人あまりの兵士たち。顔を見合わせては、また椀に目を落とす。湯気の向こうのオットーさん。にこにこしているトビアス。おかわりをもらって少し元気になったルッツ。お玉を手に、卓のあいだを歩き回るマルタさん。向かいの端のギルバートさま。足もとの、グラウ。
閣下は、そのひとつひとつを、ゆっくりと見ていた。九年、毎晩、十二の名前を数えてきたのと同じ目で。
まるで、この夕暮れを、二度と忘れないように覚えておこうとしているみたいだった。
それから、少しだけ、目を細めた。
竈の火が、その目の縁を、うっすらと光らせていた。
閣下は何も言わずに、また匙を取った。
私も、何も言わなかった。言ったら、この人はきっと、竈の煙のせいにするから。
向かいの端では、ギルバートさまが、こちらを見ていた。
兵と兵のあいだに、当たり前のように座っている、閣下を。
九年、ギルバートさまが見てきたのは、いつも閣下の背中だった。四十二段の階段を上がって、執務室にひとりで入っていく背中。
今夜は、顔が見える。兵たちに囲まれて、ほんの少しだけ笑っている顔が。
ギルバートさまは、眼鏡を外して、拭いて、掛けて、また外した。
拭いても拭いても、レンズはすぐに曇るらしかった。眼鏡の奥の目が、うっすらと光っていた。
「ギルバートさま、レンズ、減りませんか」
少し身を乗り出して小声で言うと、ギルバートさまは眼鏡を掛け直して、ひどく不本意そうに答えた。
「九年ぶりに、閣下が卓についておられるのです。湯気くらい立ちますし、眼鏡くらい曇ります。……それから、王女。さきほど、宝物の話をしておられましたね」
「はい」
「私は、何も、差し上げていない」
「毛織りの布を、いただきました」
「あれは、先代夫人のものです。私のものではない」
ギルバートさまは、少しだけ黙った。
「……いえ。何でもありません。忘れてください」
また、口を開けて、閉じた。
*
その夜、礼拝堂の百合の芽は、指五本分になっていた。
そしてその先端に、小さな固い膨らみがひとつ。
「神さま。これは」
『蕾じゃな』
当たり前のことのように、おっしゃった。
『春は、まだ、ひと月先じゃが。気の早い花もある』
私は、蕾の前に膝をついた。
隣で、白く光る石が、蕾を照らしている。その光が、私の右手の甲の古い傷あとを、白く浮かび上がらせた。
醜いと思っていた傷あとが、この光の中では、ただの線だった。
「神さま。聖約って、何ですか」
『ほう』
「王家の羊皮紙は、誓約書です。署名の線があります。閣下は、まだ、そこに名前を書きません。私を守るために」
『うむ』
「でも、閣下は、今日、私の隣に座ってくださいました。それは、約束じゃないんでしょうか」
神さまは、しばらく黙っていた。
『セラや。王家の紙には、何が書いてある』
「鉱山と、持参金と、期限です」
『あの子が今日、厨房でしたことは、そのどれじゃ』
「どれでも、ありません。隣に、座っただけです」
百合の香りが、礼拝堂に、静かに満ちた。
『紙の誓約はな、天秤じゃ。鉱山と持参金を載せて、釣り合ううちは続く。釣り合わんようになったら、そこでおしまいじゃ』
「聖約は、違うんですか」
『聖約に、天秤はない。差し出すのは、物ではのうて、自分じゃ。あの子は今日、何も持たずに、自分をお主の隣に置いた』
厨房で、すぐ隣にあった閣下の肩を、思い出した。触れていないのに、熱かった右側を。
『わしと交わす約束を、聖約という。誰の隣に座るか、から始まるんじゃよ。紙も言葉も、あとからでよい』
「私は」
『お主は、十年前に、決めておった』
神さまは、笑った。
『物置小屋の床で、熱に浮かされながらな。わしがお主の隣に膝をついて、お主はわしの隣で眠った。羊皮紙はなかったが、あれが最初の約束じゃ』
それから、神さまは、少しだけ声を落とした。
『いつかな、紙も印も要らん場所で、あの子と二人、わしの前に並んで座る日が来る。そのとき、もう一度、結べばよい』
「どこですか、それは」
『まだ、言わん』
私は、蕾に、そっと、指先で触れた。
固くて、小さくて、まだ何色になるのかもわからない、白い花の蕾。
けれど、確かに、そこにあった。
「神さま。私、幸せです」
『知っておるよ』
「怖いくらいに」
『……それもな、知っておる』
神さまは、それ以上、何もおっしゃらなかった。
窓の外で、北の夜空に星が瞬いていた。
礼拝堂の扉が、こつ、と鳴った。
振り返ったけれど、誰もいない。扉は、閉まったままだった。
けれど、扉の下の隙間から、何かが差しこまれていた。
紙片。角ばった、硬い筆跡。
――叩いた。祈っている声がしたので、今夜は入らない。
祈っている声。
さっきの、「神さま、私、幸せです」も、聞こえてしまったのだろうか。
顔が、一気に熱くなった。
おとといの夜、私は白湯を持って、閣下の私室の扉を、叩かずに開けてしまった。閣下は白湯を受け取ってから、少し困った顔で言った。
「次からは、扉を叩け。ギルバートが、また白湯をこぼす」
その決まりを、閣下は、自分にも当てはめたのだ。
扉を開けた。
廊下には誰もいない。ただ、螺旋階段のほうへ足音が遠ざかっていく。速すぎる足音。
『あの子はな、九年、叩かれる側じゃった。わしが、叩く側でな』
静かな声だった。
『今夜、初めて、あの子が叩く側になった』
紙片を、指で撫でた。
いつも隙のない閣下が、扉の前で足を止めて、この小さな紙に字を書いて、隙間からそっと差しこんで、逃げるように帰っていく。その背中を思い浮かべると、胸の奥が、痛いくらいに甘く締めつけられた。
愛しい、と思った。
それから、指先が少しだけ震えた。
王家の羊皮紙には、条件がたくさん並んでいた。冷たいけれど、私にはわかる世界だった。条件を満たせば、ここにいられる。満たせなければ、捨てられる。王都の十年も、ずっとそうだった。
この紙片には、条件がひとつもない。
こんなに温かいものを、何も差し出さずに受け取ってしまっていいのだろうか。明日の朝、目が覚めたら、全部夢だったりしないだろうか。嬉しくて、だからこそ、信じきってしまうのが、少しだけ怖い。
『怖いままで、よい』
神さまが、やさしくおっしゃった。
『人から受け取るのにも、慣れが要る。お主は十年、人には差し出すばかりじゃったからのう』
入らなくていい。叩けたのだから。今夜は、それで十分だ。
私は紙片を両手で包むようにして、麻袋の底に入れた。
怖いくらいに温かい宝物が、またひとつ増えた。
それから、帳面のいちばん後ろのページを開いた。城に来た日から、毎晩、寝る前に、残りの日数をここに書いている。
帝国の軍団が来るまで、あと三十九日。期限の三ヶ月まで、あと五十三日。
軍団の日数を先に書いて、期限の日数を、あとに書く。いつの間にか、書く順番が変わっている。私が怖いのはもう、王都の期限のほうではない。
そのことに、私は、その夜、初めて気づいた。




