第40話 署名のない羊皮紙(一)
「――で、奥様は、いつ執務室から寝室にお引っ越しなさるの?」
洗濯場のエルザさんが、シーツを絞りながらにやにやと言う。
私は、手桶の水を、危うくひっくり返しそうになった。
「お、奥様って、誰のことですか」
「あんた以外に誰がいるのよ。城じゅう、その話でもちきりよ」
エルザさんは絞ったシーツを、ばさりと竿に掛ける。
「閣下が、あんたの帳面に自分の名前を書かせたんでしょ。マルタばあさんが、鼻の穴ふくらませて言いふらしてたわよ。『五十一人目だ』って。それに、夜明けに閣下の部屋から出てきたのを、ギルバートさまに見られたって。ギルバートさま、白湯をこぼしたって。あの人が何かをこぼすところなんて、城じゅう誰も見たことがないって、カールが言ってた」
「あ、あれは、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味なのよ」
答えられなかった。答えられないことが、自分でも、少し不思議だった。
「あのねえ」エルザさんが、濡れた手を腰に当てた。「あんた、自分がどう見えてるか、わかってないでしょ。王都じゃ、ずっと麻布で隠してたんだってね。もったいないことするわ。その髪、朝いちばんの空の色よ。北じゃ、その色の空を見たら、今日は吹雪が来ないって言うの。それに、そんな真っ赤な顔で『そういう意味じゃない』って言われてもね」
「髪に、何かついてますか」
「ついてないわよ。……褒めてんのよ、あんたを」
エルザさんは、あきれたように笑って、次のシーツを手に取った。
「でも、あれでしょ。白い結婚、なんでしょ。三ヶ月経ったら王都に叩き返すって、閣下が最初の日に言ったんだってね」
「はい。最初の日に、そう言われました」
「警備の連中、それ聞いて笑ってたわよ。あの閣下が、今さらどの口で叩き返すんだって」
「でも、私は、壁の染みですから」
つい、いつもの言い方が口から出た。
「壁の染み、ねえ」
エルザさんは、干したシーツの向こうから、少しだけ声を落とした。
「あたしの旦那はね、雪崩で死ぬ前の日に、あたしに言ったのよ。『お前は、俺の家の壁だ』って。あたし、怒ったの。壁って何よって。飾りでも何でもない、ただの壁かって。そしたらあの人、笑って言ったのよ。壁がなきゃ、家は家じゃないだろ、って」
風が吹いて、白いシーツが、ふわりと膨らんだ。
「染みでも壁でも、家の一部なんだったら、それはもう、家族なのよ。あたしはね、次の日にあの人が死んで、それから三年、その言葉で、生きてる」
私は、手桶を抱えたまま、しばらく、動けなかった。
「エルザさん」
「何」
エルザさんは、もう次のシーツを絞りはじめていた。冷たい水に浸かりどおしの指が、節のところだけ赤い。
「その言葉、帳面に書いても、いいですか」
絞る手が、止まった。
シーツの端から落ちる水が、ぽたり、ぽたりと、足元の雪に小さな穴をあけていく。
エルザさんは、しばらく何も言わなかった。物干し場の向こうの、北の尾根のほうを見ていた。三年前に雪崩が起きた山だと知ったのは、あとになってからだ。
「……あたしのところにじゃなくて」
声が、少しだけかすれた。
「あの人のところに、書いてよ」
濡れた手の甲で、エルザさんは目元をぐいと拭った。拭ったのは、シーツの水しぶきだということにしておいた。
「ヘルムート。三十四歳。あたしを、壁だって言った人」
風が、また吹いた。並んだ白いシーツが、いっせいにふくらんで、ゆっくりとしぼんだ。誰かが大きく息を吸って、吐いたみたいだった。
ヘルムート。三十四歳。
口の中で、そっと繰り返す。帳面は、部屋に置いてきた。今夜書くまで、一文字も落とさないように。
私は、その名前を、覚えた。
◆ 王都 鳩の塔
同じ日の昼、王都の王城の北の塔で、エレオノーラ王妃は、扇を閉じたまま、一羽の鳩を手の中に持っていた。
鳩の足には、小さく巻いた紙。宛先は、帝国のグラナート侯爵。
「雪解けは、待たなくてよろしい」
王妃は、誰にともなく言った。
「あれが生きていても、死んでいても、同じこと。三ヶ月は、あれに与えた期限ではありません。北に与えた期限です」
鳩は、灰色の空へ放たれた。北東へ。北の城の上を越えて、帝国へ。
王妃は、それを見送らなかった。扇を開いて、階段を下りた。
◇
執務室の机の端に、羊皮紙が一枚、置いてあった。
もう七日、そこにあった。
スープの盆を置くとき、私はいつも、その羊皮紙の隣に盆を置く。だから、嫌でも目に入る。王家の紋章の封蝋。いちばん下に引かれた、署名のための一本の線。
婚姻受諾書だった。
ジュリアン殿下が謁見の間で広げていたのと、同じもの。三ヶ月以内にこの線の上に閣下の名前がなければ、私は不敬罪で死刑になる。そういう紙だ。
その線は、七日間、ずっと空白だった。
その夜も、グラウはいつものように、閣下の膝に頭を載せていた。
盆を置いて下がろうとしたとき、閣下が、初めて、その羊皮紙に指を置いた。
「――セラ。これを、どう思う」
私は盆を置いた手を、止めた。
「私が、ですか」
「ほかに誰がいる。グラウは、字が読めない」
閣下は椅子に背を預けて、羊皮紙を指先で机の上に滑らせ、私の前に置いた。
「読んでみてくれ」
私は、読んだ。
――アイゼンベルク辺境伯ヴィルフリートは、王女セラフィーナを正妃として迎え入れ、持参金条約に基づき、王家に対し古代竜晶鉱山の採掘権の半分を譲渡するものとする。
「鉱山は、枯れました」
「そうだ。だから、この条約は、もう王家にとって何の意味もない。だが、私にとっては、意味が変わった」
閣下は、机の上で指を組んだ。
「これに署名すれば、お前は、アイゼンベルクの妻になる。四十日後に帝国の軍団が峠に来たとき、お前は、この城と共に立つ者になる」
声は、いつものように低くて平らだった。けれど、組んだ指には、強く力が入っていた。
暖炉の火が、銀灰色の髪の端と、硬く引き結んだ顎の線を、赤く縁取っている。峠の風に削られてきた顔だ。削られて、要らないものが何ひとつ残っていない顔。
「署名しなければ、お前は王女のままだ。期限の前に、私の書状をつけて王都へ返せば、お前は生きる。王家はお前を殺す口実を失うし、帝国は、お前に興味がない」
私は、羊皮紙を見つめた。
この人は、七日間、ずっとこれを考えていたのだ。私を生かす方法を。私を手放す方法を。
「だから、署名はしない」
閣下は言った。
「それが、お前を守るいちばん確かな方法だと思う」
それから、少しだけ間を置いた。
「……お前は、礼拝堂で、行き先は自分で決めると言った。だから、これは命令ではない。私が、そう考えている、というだけだ」
「閣下」
私は、顔を上げた。
閣下の目が、一瞬だけ逸れて、また戻ってきた。
「王都に、私の場所は、ありません」
「知っている」
「杉林の奥の物置小屋に戻って、また床を磨きます。それは、構いません。十年、やってきたことですから。でも」
言葉が、喉に引っかかった。
「でも、そこには、帳面に書く名前が、ありません」
閣下は、何も言わなかった。
「マルタさんも、オットーさんも、トビアスも、ルッツさんも、エルザさんも、ヨナスさんも、ブルーノさんも、カールさんも、ハンスさんも。ギルバートさまも。グラウも。礼拝堂の百合の芽も。……閣下も。あそこには、誰もいません。ヘルムートさんの言葉も、あそこでは、誰も教えてくれません」
私は、羊皮紙の上に、そっと手を置いた。
「私は、この城に、いたいんです。叩き返されるまで、ずっと。ここには、私の名前を呼んでくださる方がいますから」
執務室に、暖炉の火の音だけが響いていた。
薪は今夜、三本になっている。七日前より、火はずっと大きかった。
「――お前は」
ゆっくりと、閣下が口を開いた。
「最初の日、お前は、壁の染みでいいと言った。同じ空気を吸えれば、それで十分だと」
「はい」
「今も、そう思っているのか」
私は、口を開けて、閉じた。
ギルバートさまの癖が、うつってしまったらしい。
(え? えっ?)
『セラや』
神さまの声が、胸の奥で、少しだけ楽しそうに響いた。
『問われておるぞ』
(い、いえ、あの、神さま、これは、原作で言うところの……いえ、原作にはないので……えっと、この問いの正解は)
『正解などない。正直に答えるのじゃ。……言うておくが、お主の胸が今、変な打ち方をしておるのは、わしのせいではないぞ』
私は、羊皮紙の上の自分の手を見た。
あかぎれは、もう、ほとんど治っていた。閣下の膏薬のおかげで。
「……いいえ」
自分の声が、驚くほど小さかった。
「壁の染みでは、足りなく、なりました」
言ってしまってから、顔が、火のように熱くなった。
(言った……! 言ってしまった! 神さま、私、今、何て)
『声には出とらんが、顔が真っ赤じゃ。あの子の耳と、良い勝負じゃのう』
閣下の耳は、確かに赤くなっていた。首筋まで。
グラウが、閣下の膝の上で、大きなあくびをした。
閣下は、羊皮紙を、私の手の下から、そっと引き抜いた。
引き抜くとき、閣下の指が、私の手のひらの下を、ゆっくりと滑っていった。
「署名は、しない」
さっきと、同じ言葉だった。
けれどその声は、七日前とは、まるで違っていた。
「勘違いするな。お前が要らないから、署名しないんじゃない」
閣下は羊皮紙を、机の引き出しにしまった。
鍵は、かけなかった。
「お前を巻きこまずに守れる方法を、まだ見つけられていないだけだ。見つかるまでは、署名しない」
「見つかったら」
訊いてしまった。
閣下は、引き出しを閉めた手を、しばらくそこに置いたままでいた。
「――最初の日に、私は言った。妻として扱う気はない、と」
閣下は、私を見なかった。火のほうに顔を向けたままでいる。火に照らされたその横顔は、氷竜と呼ばれる人のものとは思えなかった。耳だけが、赤い。
「あれは、撤回する」
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
「妻にする気がないんじゃない。……どう大事にすればいいのか、わからないんだ」
閣下の声は、最後のほうで、ほとんど聞き取れなくなった。
「母は、私が五つのときに死んだ。父は、そのあと一度も、女の名を口にしなかった。だから、妻というものを、見たことがない。膏薬を作る。外套を掛ける。手を包む。私にできるのは、それくらいだ。それで合っているのかどうかは、お前に訊くしかない」
私は、何も言えなかった。
「だから三ヶ月、お前には、預かりもののままでいてもらおうと思っていた。それがいちばん、お前を傷つけずに済むと思ったから」
閣下は、ようやく私を見た。赤い耳のままで。
「だが、お前は、それでは足りないと言った」
「はい」
「なら、覚える。どうすれば、お前をちゃんと大事にできるのか。……教えてくれ」
私は、その場に膝から崩れ落ちそうになった。
(神さま。神さま、これは、原作十四巻のプロポーズ未満発言の……いえ、原作にはない。原作にはないんです! 私、今、どこにいるんでしょう)
『お主の立っておる場所は、ひとつしかないじゃろう。あの子の目の前じゃ』
笑いを噛み殺した声。
『あの子は今、膏薬と、外套と、手と、三つ言うた。九年、誰にもしなかったことじゃ』
三つ。この人の持っている形が、三つ。
(足りています。足りすぎています)
心の中で言うだけでは、どうしても足りなかった。
「……閣下」
声が、震えた。
「合っているかどうかなら、私、お答えできます」
閣下が、こちらを見た。
「合っています。三つとも」
閣下は、何も言わなかった。言わなかったけれど、赤かった耳が、もっと赤くなった。首筋どころか、襟の中まで。
グラウが、閣下の膝の上で、ぱたん、と尻尾を一度だけ振った。
「……なら、いい」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
「それで」
閣下は咳払いをひとつして、いつもの声に戻ろうとした。戻りきっていなかった。
「明日から、スープは、この部屋に運ばなくていい」
目を見開いた。
「お口に、合いませんでしたか」
「違う。厨房で食べる」
閣下が、立ち上がった。
「兵と、同じ卓で。マルタに、そう伝えておいてくれ。それから――」
扉のところで、閣下は、足を止めた。
「――妻は、どこに座るものなのか。それも、マルタに訊いておいてくれ」
閣下は、そのまま、執務室を出ていった。グラウが、あくびをしながら、あとを追った。
自分の執務室から、部屋の主が自分で出ていくなんて、ずいぶんおかしなことだと、あとになって気がついた。きっと閣下も、耳の赤いのを、これ以上見られたくなかったのだ。
私は、暖炉の前に、座りこんだ。
三本の薪が、ぱちぱちと燃えている。
『――で、セラや』
「はい」
『妻というのは、どこに座るのじゃ』
ずいぶん楽しそうな声だ。
「知りません。神さま、私も、見たことがないんです。妻というものを」
両手で、顔を覆った。顔がまだ、熱い。
「母は、私を産んだ夜に死にました。父は、十七年、窓の外を見ていました。私も、閣下と、同じです」
神さまは、しばらく黙っていた。
それから、ふわりと百合の香り。
『似た者同士じゃのう』
笑っている声だった。けれど、とても優しい。
『じゃが、二人とも、隣に座るということは、もう知っておる。鉱山の奥の、あの低い腰掛けでな。肩が、触れておった』
私は、顔を上げた。
『妻というのは、それでよいのじゃよ。どこに座るかではない。誰の隣に座るかじゃ』
私は、暖炉の火を見つめた。
明日の朝、厨房の長卓で、閣下はどこに座るのだろう。
私は、どこに座ればいいのだろう。
考えただけで、また、顔が熱くなった。




