↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第四章 署名のない羊皮紙

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/57

第39話 閑話 最後の一節


 薪が、尽きた。


 ヨアヒムの家の火が消えたのは、日の落ちる前じゃった。わしは自分の小屋の薪を半分背負って、雪の中を運んだ。その半分も、いま、灰になった。


 オットーが、城へ走った。あの男の足なら、朝までには戻る。そう言うて、出ていった。


 戸を開けたとき、雪が横から吹きこんで、床に一本、白い線を引いた。その線は、まだ溶けておらん。溶けるほどの火が、もう、どこにもないからじゃ。


 外では、風が鳴っておる。尾根から下りてくる、北の風じゃ。炭焼き小屋の板壁のすきまを通るたびに、笛のような音を立てる。若いころは、あの音が嫌いではなかった。冬が来た、と知らせてくれる音じゃった。今夜は、ちと長すぎる。


 この小屋には、わしと、ライナーの家の姉弟がおる。


 マルギットは十六。ペーターは十四。二人の親は、先にヨアヒムの家で寝ておる。


 寝ておる、と、わしは言うことにしておる。子どもらの前では、そう言うことに決めた。


「じいさん、まだ歌えるか」


 ペーターが言うた。歯が鳴って、言葉が途中で割れる。


「歌える。わしは村でいちばん歌がうまい。知らんのか」


「知ってる。母ちゃんが言ってた。じいさんの歌は、うまいけど、長いって」


「長いから、いいんじゃ。短い歌は、すぐ終わってしまう」


 マルギットは、弟の手を、自分の脇の下に挟んで温めておる。自分の靴は、とうに脱いで、弟の足に履かせてある。靴は、一足分しかなかったんじゃ。姉のほうが、足が小さい。入らんのに、むりやり履かせた。


 わしは外套を脱いで、二人の上にかけた。


「じいさん、寒いだろ」


「年寄りは、寒さがわからんようにできておる。だから長生きするんじゃ」


 嘘じゃ。わからんのではない。わかっても、言わんだけじゃ。


 それから、わしは歌うた。


 眠らせんためじゃ。寒い夜に眠ったら、そのまま起きんことがある。北の者なら、子どもでも知っておることじゃ。


 だから、明るい歌から歌うた。


 春の歌。雪解け水が、炭焼き小屋の裏を流れていく歌じゃ。それから夏の、木を切る歌。秋の、炭を焼く歌。炭焼きは、窯の火の番をしながら夜通し歌うから、どの歌も長い。ひと晩ぶんは、ちゃんとある。


 途中で、ペーターが笑うた。


「じいさん、今の、音、外れた」


「外しておらん。古い節じゃ。おまえらが知らんだけじゃ」


 外した。指が、もう動かんようになってきておる。指より先に、喉のほうが残るとは、思わなんだ。


 マルギットは、笑わなんだ。弟の手を脇に挟んだまま、目を閉じておる。


「寝るな、マルギット」


「……寝てない」


 そう言う。けれど、言うのが、だんだん遅うなっていく。


「じいさん」


 ペーターの声が、小さくなった。


「母ちゃんが歌ってたやつ、歌って。寝る前の」


「あれは、歌うな」


「なんで」


「あれは、寝る歌じゃ。今夜は、寝たらいかん」


 ペーターは、黙った。マルギットが、目を閉じたまま、少し笑うたように見えた。


 オットーの足音は、まだ、せん。


 夜明けまで、あとどれほどあるのか、わからん。炭を焼く者は、火の色で時刻を知る。その火が、ないのじゃから。


 窓の板のすきまから、外を覗いた。雪は、いつの間にか止んでおった。風も、少し静まっておる。雲が切れて、尾根の上に、星がいくつか出ておった。凍った空じゃ。きれいなものは、たいてい、寒い。


 振り返ると、マルギットの手が、弟の脇から、するりと落ちたところじゃった。


 ペーターが、姉の名を呼んだ。二度。三度。それから、わしの顔を見た。


 何かを訊く目じゃった。訊かれても、わしには答えがなかった。


 ――起きておれ、と、もう一度言うのは、むごい。


 そう思うた。


 この子は、十四じゃ。ひと晩じゅう、寒さと、怖さと、姉の手の冷たさに耐えてきた。もう、十分に耐えた。


 わしは、歌うた。


 寝る歌を。


 古い言葉の歌じゃ。わしの母から覚えた。わしの女房は、この歌で、三人の子を寝かせた。三人とも、わしより先に行った。女房も、行っておる。それから、この歌は、一度も歌うておらん。歌わんと決めたのではない。歌うてやる相手が、おらんかっただけじゃ。


 一節。


 ペーターが、姉の肩に、頭を載せた。


 二節。


 ペーターの手が、姉の手を探して、握った。


 三節。


 そこで、わしの喉が、止まった。


 この歌には、最後の一節がある。


 古すぎて、村の誰も、もう意味を知らん。女房も知らなんだ。知っておったのは、わしの母だけじゃった。


 母は、こう言うておった。


 ――最後の一節はな、歌うておる者の声で歌うのではない。ほかの誰かの声で、歌うんじゃ。


 ――親が、子を寝かせてやれん夜が、ある。そういう夜にだけ、この一節を歌うんじゃよ。


 子どものわしには、何のことか、わからなんだ。


 今は、わかる。


 ほかの、誰か。


 この小屋には、わしと、子どもが二人。ほかには、誰もおらん。


 ――そのはずじゃった。


 花の匂いが、した。


 こんな冬の夜に、花などあるものか。炭焼きの鼻は、煙と、木と、雪の匂いしか知らん。それでも、たしかに匂うた。白い、小さい花の匂いじゃ。春になると、小屋の裏に咲く花。名は知らん。毎年、女房が一輪だけ摘んで、窓辺の欠けた湯呑みに挿しておった、あの花じゃ。


 隣に、誰かが、座っておった。


 見えん。見んでよい。わしは年寄りじゃ。見えんものが隣に座ることくらい、あると知っておる。


 寒うなかった。


 いつの間にか、手の先まで、ぬくうなっておった。


 ふと見ると、マルギットの落ちた手が、床に着いておらなんだ。床に届くすこし手前で、何かに、そっと受けとめられておるように見えた。


 見えん手が、あの子の手を、握っておるのじゃ。


 わしは、最後の一節を、歌うた。


 わしの声ではなく、ほかの誰かの声で。母の教えのとおりに。


 ――眠れぬ子よ、ひとりと思うな。我は、汝の隣に、坐す。


 ペーターの息が、ゆっくりになっていく。


 姉の手を握ったまま、姉の肩で、眠った。苦しそうな顔では、なかった。母ちゃんの歌を聞いたときと、同じ顔じゃった。


 マルギットの顔も、穏やかじゃった。笑うておるように、見えた。


 わしは、二人の上の外套を、少し直してやった。


 それから、戸口の白い線を見た。まだ、溶けておらん。溶けんでよい。オットーは、朝には来る。


 窓の板のすきまが、ほんのすこし、白んできておった。夜明けが、近いのじゃろう。尾根の雪が、最初に明るうなる。いつも、そうじゃ。


 花の匂いは、まだ、しておる。


 隣の誰かは、立たなんだ。わしが歌い終わっても、立たなんだ。


 それで、よい。


 寝る歌を歌うた者は、子どもがみんな眠ってから、いちばん最後に目を閉じる。昔から、そう決まっておる。


 わしの瞼も、重うなってきた。


 怖くはなかった。隣に、誰かが座っておるからじゃ。


 わしも、座っておる。


     * * *


 礼拝堂の祭壇の脇で、灰色の石が、ほのかに光っている。


 窓の外では、雪が静かに降っていた。昼間の吹雪が嘘のように、音もなく、まっすぐに。北の尾根の上に、ほんの少しだけ、星が見えた。


 私は、帳面を閉じた。十二の名前は、昨夜、全部書いた。


「神さま」


『うむ』


「ヴィルヘルム老は、村でいちばん歌がうまかったと、閣下がおっしゃっていました」


『うまかった。長かったがのう』


「最後の夜にも、歌っていたんでしょうか」


 少し、間があった。


『歌うておった。最後の一節まで。わしは隣で、ずっと聞いておった』


 最後の一節。


 あの石の部屋の、腰掛けの上の壁。閣下が指でなぞった、北の古い文字。


 ――我は、汝の隣に、坐す。


 あれは、子守歌の終わりだったのだ。親が子を寝かせてやれない夜に、ほかの誰かが歌う、いちばん最後の一節。


「閣下が村に着いたとき、その歌は」


『終わっておった。夜明けの、すぐあとにな。あの子が村に着いたのは、昼を過ぎてからじゃった』


 神さまは、それ以上おっしゃらなかった。


 私は、膝の上で、帳面を抱きしめた。涙が一粒、表紙に落ちて、炭の字をにじませた。


 三人とも、寒い小屋の中で、死んでしまった。それは、変わらない。


 閣下が九年、毎晩あの床でうめいてきたのも、そのためだ。


 でも。


 ひとりで、ではなかった。


 隣に、神さまがいらした。最後の一節を、一緒に歌ってくださった。マルギットさんの手は、冷たい床に落ちなかった。


 悲しいことは、悲しいまま、そこにある。


 それでも、その悲しみのいちばん底に、誰かが、座っていてくださった。


「……神さま。ありがとうございます」


『礼を言うのは、わしのほうじゃ。あの年寄りの名を、帳面に書いてくれたからのう』


 私は、帳面を開き直した。十二の名前の、いちばん下。ヴィルヘルム老の名前の横に、小さく書き足した。


 ――歌。最後まで。隣に、神さま。


 閣下には、まだ言わない。


 言うのは、閣下が、あの歌を自分の口で歌える日でいい。


 窓の外で、雪が降り続いていた。霜降り村の、十二の墓の上にも、きっと、同じ雪が降っている。


 冷たい雪のはずなのに、今夜は、なぜだか、毛布のように見えた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。