第39話 閑話 最後の一節
薪が、尽きた。
ヨアヒムの家の火が消えたのは、日の落ちる前じゃった。わしは自分の小屋の薪を半分背負って、雪の中を運んだ。その半分も、いま、灰になった。
オットーが、城へ走った。あの男の足なら、朝までには戻る。そう言うて、出ていった。
戸を開けたとき、雪が横から吹きこんで、床に一本、白い線を引いた。その線は、まだ溶けておらん。溶けるほどの火が、もう、どこにもないからじゃ。
外では、風が鳴っておる。尾根から下りてくる、北の風じゃ。炭焼き小屋の板壁のすきまを通るたびに、笛のような音を立てる。若いころは、あの音が嫌いではなかった。冬が来た、と知らせてくれる音じゃった。今夜は、ちと長すぎる。
この小屋には、わしと、ライナーの家の姉弟がおる。
マルギットは十六。ペーターは十四。二人の親は、先にヨアヒムの家で寝ておる。
寝ておる、と、わしは言うことにしておる。子どもらの前では、そう言うことに決めた。
「じいさん、まだ歌えるか」
ペーターが言うた。歯が鳴って、言葉が途中で割れる。
「歌える。わしは村でいちばん歌がうまい。知らんのか」
「知ってる。母ちゃんが言ってた。じいさんの歌は、うまいけど、長いって」
「長いから、いいんじゃ。短い歌は、すぐ終わってしまう」
マルギットは、弟の手を、自分の脇の下に挟んで温めておる。自分の靴は、とうに脱いで、弟の足に履かせてある。靴は、一足分しかなかったんじゃ。姉のほうが、足が小さい。入らんのに、むりやり履かせた。
わしは外套を脱いで、二人の上にかけた。
「じいさん、寒いだろ」
「年寄りは、寒さがわからんようにできておる。だから長生きするんじゃ」
嘘じゃ。わからんのではない。わかっても、言わんだけじゃ。
それから、わしは歌うた。
眠らせんためじゃ。寒い夜に眠ったら、そのまま起きんことがある。北の者なら、子どもでも知っておることじゃ。
だから、明るい歌から歌うた。
春の歌。雪解け水が、炭焼き小屋の裏を流れていく歌じゃ。それから夏の、木を切る歌。秋の、炭を焼く歌。炭焼きは、窯の火の番をしながら夜通し歌うから、どの歌も長い。ひと晩ぶんは、ちゃんとある。
途中で、ペーターが笑うた。
「じいさん、今の、音、外れた」
「外しておらん。古い節じゃ。おまえらが知らんだけじゃ」
外した。指が、もう動かんようになってきておる。指より先に、喉のほうが残るとは、思わなんだ。
マルギットは、笑わなんだ。弟の手を脇に挟んだまま、目を閉じておる。
「寝るな、マルギット」
「……寝てない」
そう言う。けれど、言うのが、だんだん遅うなっていく。
「じいさん」
ペーターの声が、小さくなった。
「母ちゃんが歌ってたやつ、歌って。寝る前の」
「あれは、歌うな」
「なんで」
「あれは、寝る歌じゃ。今夜は、寝たらいかん」
ペーターは、黙った。マルギットが、目を閉じたまま、少し笑うたように見えた。
オットーの足音は、まだ、せん。
夜明けまで、あとどれほどあるのか、わからん。炭を焼く者は、火の色で時刻を知る。その火が、ないのじゃから。
窓の板のすきまから、外を覗いた。雪は、いつの間にか止んでおった。風も、少し静まっておる。雲が切れて、尾根の上に、星がいくつか出ておった。凍った空じゃ。きれいなものは、たいてい、寒い。
振り返ると、マルギットの手が、弟の脇から、するりと落ちたところじゃった。
ペーターが、姉の名を呼んだ。二度。三度。それから、わしの顔を見た。
何かを訊く目じゃった。訊かれても、わしには答えがなかった。
――起きておれ、と、もう一度言うのは、むごい。
そう思うた。
この子は、十四じゃ。ひと晩じゅう、寒さと、怖さと、姉の手の冷たさに耐えてきた。もう、十分に耐えた。
わしは、歌うた。
寝る歌を。
古い言葉の歌じゃ。わしの母から覚えた。わしの女房は、この歌で、三人の子を寝かせた。三人とも、わしより先に行った。女房も、行っておる。それから、この歌は、一度も歌うておらん。歌わんと決めたのではない。歌うてやる相手が、おらんかっただけじゃ。
一節。
ペーターが、姉の肩に、頭を載せた。
二節。
ペーターの手が、姉の手を探して、握った。
三節。
そこで、わしの喉が、止まった。
この歌には、最後の一節がある。
古すぎて、村の誰も、もう意味を知らん。女房も知らなんだ。知っておったのは、わしの母だけじゃった。
母は、こう言うておった。
――最後の一節はな、歌うておる者の声で歌うのではない。ほかの誰かの声で、歌うんじゃ。
――親が、子を寝かせてやれん夜が、ある。そういう夜にだけ、この一節を歌うんじゃよ。
子どものわしには、何のことか、わからなんだ。
今は、わかる。
ほかの、誰か。
この小屋には、わしと、子どもが二人。ほかには、誰もおらん。
――そのはずじゃった。
花の匂いが、した。
こんな冬の夜に、花などあるものか。炭焼きの鼻は、煙と、木と、雪の匂いしか知らん。それでも、たしかに匂うた。白い、小さい花の匂いじゃ。春になると、小屋の裏に咲く花。名は知らん。毎年、女房が一輪だけ摘んで、窓辺の欠けた湯呑みに挿しておった、あの花じゃ。
隣に、誰かが、座っておった。
見えん。見んでよい。わしは年寄りじゃ。見えんものが隣に座ることくらい、あると知っておる。
寒うなかった。
いつの間にか、手の先まで、ぬくうなっておった。
ふと見ると、マルギットの落ちた手が、床に着いておらなんだ。床に届くすこし手前で、何かに、そっと受けとめられておるように見えた。
見えん手が、あの子の手を、握っておるのじゃ。
わしは、最後の一節を、歌うた。
わしの声ではなく、ほかの誰かの声で。母の教えのとおりに。
――眠れぬ子よ、ひとりと思うな。我は、汝の隣に、坐す。
ペーターの息が、ゆっくりになっていく。
姉の手を握ったまま、姉の肩で、眠った。苦しそうな顔では、なかった。母ちゃんの歌を聞いたときと、同じ顔じゃった。
マルギットの顔も、穏やかじゃった。笑うておるように、見えた。
わしは、二人の上の外套を、少し直してやった。
それから、戸口の白い線を見た。まだ、溶けておらん。溶けんでよい。オットーは、朝には来る。
窓の板のすきまが、ほんのすこし、白んできておった。夜明けが、近いのじゃろう。尾根の雪が、最初に明るうなる。いつも、そうじゃ。
花の匂いは、まだ、しておる。
隣の誰かは、立たなんだ。わしが歌い終わっても、立たなんだ。
それで、よい。
寝る歌を歌うた者は、子どもがみんな眠ってから、いちばん最後に目を閉じる。昔から、そう決まっておる。
わしの瞼も、重うなってきた。
怖くはなかった。隣に、誰かが座っておるからじゃ。
わしも、座っておる。
* * *
礼拝堂の祭壇の脇で、灰色の石が、ほのかに光っている。
窓の外では、雪が静かに降っていた。昼間の吹雪が嘘のように、音もなく、まっすぐに。北の尾根の上に、ほんの少しだけ、星が見えた。
私は、帳面を閉じた。十二の名前は、昨夜、全部書いた。
「神さま」
『うむ』
「ヴィルヘルム老は、村でいちばん歌がうまかったと、閣下がおっしゃっていました」
『うまかった。長かったがのう』
「最後の夜にも、歌っていたんでしょうか」
少し、間があった。
『歌うておった。最後の一節まで。わしは隣で、ずっと聞いておった』
最後の一節。
あの石の部屋の、腰掛けの上の壁。閣下が指でなぞった、北の古い文字。
――我は、汝の隣に、坐す。
あれは、子守歌の終わりだったのだ。親が子を寝かせてやれない夜に、ほかの誰かが歌う、いちばん最後の一節。
「閣下が村に着いたとき、その歌は」
『終わっておった。夜明けの、すぐあとにな。あの子が村に着いたのは、昼を過ぎてからじゃった』
神さまは、それ以上おっしゃらなかった。
私は、膝の上で、帳面を抱きしめた。涙が一粒、表紙に落ちて、炭の字をにじませた。
三人とも、寒い小屋の中で、死んでしまった。それは、変わらない。
閣下が九年、毎晩あの床でうめいてきたのも、そのためだ。
でも。
ひとりで、ではなかった。
隣に、神さまがいらした。最後の一節を、一緒に歌ってくださった。マルギットさんの手は、冷たい床に落ちなかった。
悲しいことは、悲しいまま、そこにある。
それでも、その悲しみのいちばん底に、誰かが、座っていてくださった。
「……神さま。ありがとうございます」
『礼を言うのは、わしのほうじゃ。あの年寄りの名を、帳面に書いてくれたからのう』
私は、帳面を開き直した。十二の名前の、いちばん下。ヴィルヘルム老の名前の横に、小さく書き足した。
――歌。最後まで。隣に、神さま。
閣下には、まだ言わない。
言うのは、閣下が、あの歌を自分の口で歌える日でいい。
窓の外で、雪が降り続いていた。霜降り村の、十二の墓の上にも、きっと、同じ雪が降っている。
冷たい雪のはずなのに、今夜は、なぜだか、毛布のように見えた。




