第38話 すり減った床(三)
◆ 王都 第一の鏡
王都の朝は、暖かかった。
王城の南翼、王妃の私室。暖炉には、北の城の三倍の薪が、朝から惜しみなくくべられている。エレオノーラ王妃は窓辺の長椅子で、薔薇の茶をゆっくりとすすっていた。
茶碗が半分になると、王妃が手を上げるより先に、侍女が音もなく注ぎ足す。少しでも遅れた侍女は、翌朝にはもう、この部屋にいない。
長椅子の脇の小卓には、王冠が置いてある。侍女が毎朝磨き上げたそれを、王妃は自分の手で、もう一度、絹で拭う。宝石をひとつずつ、指先で確かめるように。
その隣には、小さな金の胸像。三年前、グラナート侯爵が帝国から持ってきた、皇帝陛下の御姿だ。
王妃は、この胸像に頭を下げたことがない。ただ、客が来る日には、いちばん目につく場所に置かせる。この王家の後ろには帝国がついている、と、ひと目でわかるように。
冠も、胸像も、三倍の薪も、音もなく注がれる茶も。どれも、人から見上げられるためのものだ。
王妃が毎朝、誰よりも熱心に仕えているのは、神でも、皇帝でもなかった。この世の誉れと、権威そのものだった。
「――それで?」
絹の扇を膝に置いたまま、王妃は息子を見た。
「北の狂竜は、あれを追い返しそうかしら」
ジュリアンは、暖炉の前に突っ立っていた。王都に戻って三日になる。北で着ていた外套は、まだ自分の部屋の椅子に掛けたままだ。侍女が片づけようとするたびに、なんとなく止めてしまう。襟に残った雪の匂いまで、消えてしまう気がして。
「……いや」
「いや?」
「追い出す気配なんか、なかったよ。あいつ、あっちでも床を磨いて、麦の粥なんか作って、兵どもに――」
そこで、言葉が詰まった。
あの大広間の床が、目の前に浮かんだのだ。床に膝をついた二十人の兵。それから、あの男。北の氷竜が、王子である自分の前を素通りして、あいつの隣に膝をついた。二人で顔を寄せて、小声で何か話していた。
何を話していたのかは、知らない。
(知りたいなんて、思ってない。思ってないぞ、俺は)
思っていることが、自分でもわかって、余計に腹が立った。
「――兵どもに、慕われてた」
王妃の扇が、ぴくりと動いた。
「慕われる? あれが?」
「知るかよ。……俺に聞くなよ、そんなこと」
ジュリアンは、暖炉の火を睨みつけた。
「なあ、母上。あいつ、王都にいたときと、何も変わってなかったんだ。同じ顔で、同じように床に膝をついてた。なのに、北の連中は、みんなあいつの隣に――」
「ジュリアン」
王妃の声が、すっと冷えた。
「北の者が誰を慕おうと、王家の知ったことではありません」
王妃は、扇の先で、膝の上の絹を整えた。
「あれには、屋根も食べるものも与えてきました。与えたものに、礼も恨みも要りません。下の者は、上の者が決めた場所に、置かれていればよいのです」
王妃は、袖の中から小さく丸めた紙片を取り出した。
「グラナート侯爵の伝書鳩が、昨夜、届きました。鉱山は枯れているそうよ」
ジュリアンは顔を上げた。
「じゃあ、王家の計画は」
「変わりません」
王妃は微笑む。薔薇の茶の湯気の向こうで、その微笑みは、氷の花のように整っていた。
「鉱山がないのなら、北の土地そのものを、帝国に差し出せばよいだけのこと」
王妃は、茶碗を指先で、ゆっくりと回した。
「峠と、城と、あの狂竜の首を。三ヶ月の期限が切れたその日に、『王女を辱めた反逆者』として、帝国軍を北へ通します。あれが生きていようと、死んでいようと」
「わたくしは、王都の民を守る。それが、王妃の務めですもの」
「……父上は、何て」
「陛下には、わたくしからお伝えしておきます。陛下は、何もお決めにならなくてよろしい」
ジュリアンは、何も言えなかった。
父上が最後に何かを決めたのは、いつだったろう。思い出そうとしても、窓の外を見ている横顔しか、浮かんでこなかった。
「……セラは」
その名前が、勝手に口から出ていた。
王妃の目が、細くなる。
「――何ですって?」
「い、いや。あいつは、どうなるのかなって。それだけだよ」
「名前など、口にするものではありません」
王妃は、茶碗を受け皿に戻した。かちり、と小さな音がした。
「あれは、使い道の決まった駒です。駒の行く末を案じる王など、聞いたことがありません」
扇を開いて、口元を隠す。
「ジュリアン。北の寒さで、少し頭が冷えすぎたのではなくて? 王は、下を見て心を動かすものではありません。あなたはこの国の次の王。あなたが見るべきものは、誰があなたに頭を下げ、誰が下げないか。それだけです」
ジュリアンは、返事をしなかった。上着の袖を握りしめて、黙って部屋を出た。
自分の部屋に戻ると、四方の壁の大きな鏡が、いっせいに彼を迎えた。
七つのとき、母が誂えてくれた鏡だ。どちらを向いても、金糸の長靴を履いた王子が、こちらを見返してくる。小さいころは、それが嬉しかった。どこを見ても、自分がいたから。
鏡の中で、椅子に掛けたままの北の外套が、王子の後ろに映っていた。
――ほら、拾えよ。一粒残らず。いつもみたいにさ。
自分の声が、頭の中で鳴った。
それに応えて床に膝をついた、二十人の男たちの背中。北の犬が、自分に向かって長く唸った声。
(俺は、悪くない。あいつが、いつもみたいに黙って拾ってれば、それで済んだんだ)
そう思おうとした。思おうとしたのに、鏡の中の王子は、ひどく情けない顔をしていた。
鏡の中の王子は、ひとりだった。隣には、誰もいない。
「……くそ」
鏡に背を向けた。けれど背を向けても、反対の壁の鏡が、ちゃんと自分を映している。
「くそっ」
ジュリアンは外套を脱いで、その一枚に乱暴に掛けた。
金糸の外套の下で、鏡は、何も映さなくなった。四枚のうちの、一枚だけ。
ジュリアンは、その何も映さない壁を、しばらく見ていた。
どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。わからないのが、なんだか、心細かった。
◆ 王都 厨房
王城の厨房の隅で、料理長のバルトは、その夜も硬くなったパンの端を三つ、麻布に包んでいた。
きゅっと結び目を作ったところで、手が止まった。
もう、あの物置小屋には、誰もいないのだ。
「ばかだな、俺は」
バルトは頭を掻いて、包みをほどき、パンを棚に戻した。十年も毎晩やっていると、手のほうが勝手に覚えてしまう。
包んだパンは、杉林の奥の、屋根の傾いた小屋まで持っていった。戸口に置いて、足早に帰る。それだけのことを、十年続けた。誰にも言ったことはない。言えば、自分も厨房を追い出される。
だから、あの娘と口をきいたことは一度もなかった。名前を呼んでやったことも、なかった。
最後の夜だけは、包みに岩塩をひとかけら足した。塩の壺の前で、四半刻も迷ってからだった。帳簿と合わない分は、こっそり自分の給金から引いてもらった。
「北は寒いだろうな。塩は、足りてるだろうか」
ひとりごとを言いながら、竈の熾火に薪を一本くべた。
そのとき、厨房の裏口の扉が、風もないのに、こつ、と小さく鳴った。
顔を上げたが、誰もいない。
ただ、背中が、ふしぎと温かかった。竈に背を向けているのに、誰かがすぐ後ろで、一緒に火にあたっているみたいだった。
――バルト。
名前を、呼ばれた気がした。この厨房で、十年、誰も呼ばなかった名前だった。
「……気のせいか」
バルトは首を振って、もう一本、薪をくべた。
けれどその夜、バルトはパンを包んでいた麻布を、いつもよりていねいに畳んだ。パンは、翌朝の賄いに回すことにして、布だけを、棚のいちばん奥にしまった。
いつかまた、何かを包む日が来るかもしれない。
なぜそう思ったのかは、バルト自身にも、よくわからなかった。
◆ 北の城 礼拝堂
その夜、私は畳んだ外套を両腕に抱えて、礼拝堂へ向かった。
今朝、返しそびれた外套だ。一日じゅう、私の部屋の椅子の上で、雪と革と杉の匂いをさせていた。おかげで、部屋に戻るたびに、どきりとさせられた。推しの匂いのする部屋で落ち着いて過ごせるほど、私は修行を積んでいない。
礼拝堂に入ると、閣下はもう長椅子に座っていた。
「閣下。これを、お返しに来ました」
差し出すと、閣下は外套を見て、それから、私の格好を見た。修道服一枚の、私を。
「ここは、暖炉がない」
「はい」
「着ていろ」
「でも、そうしたら閣下が」
「私は、寒くない」
今朝とまったく同じことをおっしゃる。そして今朝と同じで、たぶん、嘘だ。
「閣下。さっき、扉のところで、くしゃみをなさいましたよね」
「していない」
「しました。小さいのを、ひとつ」
「……していない」
「ギルバートさまに、記録されてしまいますよ」
「あれには、もう書くなと言ってある」
つまり、したのだ。私は外套を抱えたまま、笑いをこらえた。
結局、私は外套にくるまって、閣下の隣に座ることになった。袖が長すぎて、手の先まですっぽり隠れてしまう。袖を二回まくってから、ようやく帳面を開いた。
閣下が、ひとりずつ名前を言っていく。
今夜は、私と閣下のあいだに、腕一本分の隙間がなかった。肩は触れていない。触れていないのに、閣下が名前を言うたびに、その声が、私の左の耳のすぐそばで鳴った。そのたびに、帳面の字が少しずつ曲がった。
ヨアヒム・ベルク。四十二歳。炭焼き。
ハンナ・ベルク。三十九歳。ヨアヒムの妻。
名なしの幼子。ハンナのお腹の中で、一緒に。
ヴィルヘルム老。七十一歳。村でいちばん、歌がうまかった。
マルギット・ライナー。十六歳。
ペーター・ライナー。十四歳。マルギットの弟。
炭のかけらを左手で持って、ひとりずつ書きつけていく。右手は、まだ炭を握れないので膝の上だ。左手の字は、ひどく歪む。歪んだままでも、書く。
「その字は、ヨではなくてコに見える」
「左手なので」
「知っている」
閣下の指が、横から伸びてきた。私の左の手首に、そっと添えられる。支えるだけ。動かすのは、私の手だ。
手首に触れている指が気になって、次の字は、さっきより、もっと歪んだ。
「……悪くなった」
「閣下のせいです」
「なぜだ」
答えられるわけがない。私は黙って、次の名前を書いた。
閣下は名前を言うたびに、その人がどんな人だったかを、ひとつだけ付け足した。
「エーリヒ・グラーツ。六十八歳。オットーの父だ。リーネの祖父。最後の薪を孫娘に譲って、自分は火のない部屋で死んだ」
九年間、毎晩名前を呼んできた人の記憶は、どこも少しも色あせていなかった。
最後の名前を書き終えたとき、左手が震えていた。慣れない手で、炭を握りしめすぎていたらしい。
すると、閣下の手が伸びてきて、私の指から炭のかけらをそっと取った。帳面の脇に置く。
それから、膝の上の私の右手を、両手で包んだ。
握るのではなく、包むだけだった。膏薬の匂いのする、まだ腫れの残った私の手を、炭で黒くなった大きな手が、壊れものを扱うみたいに包んでいる。
心臓が、とんでもない音を立てはじめた。礼拝堂じゅうに聞こえてしまうのではないかと思うくらいに。
「……どうして、握らないんですか」
気がついたら、訊いていた。
「折れている手を、握る馬鹿がいるか」
「包むのは、いいんですか」
「包むのは、治療だ」
「治療」
「膏薬が乾く前に、冷やしたくない。それだけだ」
閣下は、まっすぐ前の祭壇を見たまま言った。耳の先が、少しだけ赤い。
「では、治療を、お願いします」
閣下は返事をしなかった。そのかわり、包む手が、ほんの少しだけ、深くなった。
「この礼拝堂は、どうしてこんなに寒い」
「暖炉がないのと……あとは、閣下の外套が、ここにあるからだと思います」
閣下は、私の肩の外套を見た。自分で掛けたことを、今、思い出したという顔だった。
「……返さなくていい」
低い声だった。包んでいる手に、ほんの少しだけ力がこもった。
(神さま。今夜は、足元のストーブが、手のところまで来ていません)
『さあのう。年寄りは、火の番をときどき忘れるでのう』
神さまが、そんなことをお忘れになる方ではないことを、私はよく知っている。
閣下は私の手を包んだまま、しばらく何もおっしゃらなかった。大きくて、傷だらけで、温かい手だった。毎晩、冷たい床に拳を押しつけていた手だ。
帳面の名前の列は、ちょうど五十になっていた。
「五十」
手を離さないまま、閣下が帳面を覗きこんだ。
「お前は、この城に来て、もう五十の名を覚えたのか」
「はい。でも、まだ足りません。お城には、百人以上いらっしゃいますから」
閣下は、少し黙った。
それから私の手を離して、帳面の最初のページの、いちばん上の名前を指で押さえた。
「……ヨルク。これは誰だ」
「百二十年前の、王都の石屋さんです。大聖堂の回廊の、窓枠の石を継いだ人で、石の色が合わなくて、三日も悩んだそうです」
「石屋が、一人目なのか」
「はい。私が最初に覚えた名前なんです。会ったことはありません。……でも、その人が継いだ石は、今も少しだけ、温かいんですよ」
閣下は、その名前を長いあいだ見ていた。会ったこともない百二十年前の石屋の名を、自分の兵の名を確かめるときと、同じ目で。
「ここに、私の名がない」
思わず、息を呑んだ。
「閣下のお名前は、書かなくても、忘れるはずが」
「書け」
閣下は、炭のかけらを私の左手に戻した。今度は、とてもそっと。
「お前の帳面に、私も入れておけ。この城の、五十一人目だ」
震える左手で、書いた。
ヴィルフリート・フォン・アイゼンベルク。二十五歳。
それから、少し迷って、付け足した。
九年、毎晩、十二の名前を呼んでいた人。膏薬を、自分で作る人。
閣下はそれを読んで、最後の行で目を止めた。
「余計だ」
「消しません」
「消せ」
「嫌です」
「……命令だ」
「これは閣下の帳面ではなくて、私の帳面ですので」
閣下は、口を開けて、閉じた。ギルバートさまと、同じ顔だった。
「……勝手にしろ」
言ってから、閣下はわずかに眉を寄せた。それが、自分が言い出したこの城の合言葉だと、気づいたのかもしれない。私は、笑いをこらえるのに苦労した。
閣下は、祭壇の脇の百合の芽に目をやった。その隣で、白く光っている石にも。
芽は、もう指四本分の高さになっていた。
「セラ」
「はい」
「今朝、私は、三度目も入っていい、と言った」
「はい」
「あれは、撤回しない」
閣下は立ち上がって、扉のほうへ歩いていった。扉のところで、一度だけ振り返る。何か言いかけて、やめたような顔だった。
「……おやすみ」
扉が閉まった。蝶番は、もう鳴かない。
私は帳面を胸に抱いて、しばらく動けなかった。右手には、まだ閣下の手の温もりが残っている。
『のう、セラ』
(はい)
『今夜、あの子は、お主の手を、ずいぶん長いこと包んでおったのう』
(……百までは、数えました。その先は、数えるのをやめました)
『ほう。怖うないときにも、数えるのか』
(はい。でも、怖くなかったので、途中で要らなくなりました)
神さまが、喉の奥で楽しそうに笑った。
『それから、外套も、また返しそびれたのう』
はっとして、肩を見る。閣下の外套は、まだ私をすっぽりくるんだままだった。
(……明日こそ、返します)
『明日も、返しそびれる気がするのう』
百合の香りが、くすくす笑うように揺れた。
『五十一人目、というのもな。あの子はこれまで、自分の名を誰の帳面にも入れさせなんだ。今夜、自分から入れろと言うた』
(神さまの帳面では、閣下は、何人目なんですか)
『わしの帳面には、順番がない。全員、一人目じゃ』
私は、五十一人目の名前を、指でそっとなぞった。
炭が少し、指先についた。
期限の三ヶ月まで、あと六十四日。帝国の軍団が来るまで、あと五十日。




