第37話 すり減った床(二)
鍵は、かかっていなかった。
音を立てないように、開ける。
寝台の足元に、閣下が膝をついていた。
白い麻のシャツ一枚。銀灰色の髪が、額に落ちている。両の拳を石の床に押しつけて、背中を丸めていた。まだ暗い窓の、北東の尾根に向かって。
その脇に、グラウが体をぴたりと寄せている。
閣下の背中が、震えていた。
右手の、雪狼の傷が痛むのだろうか。一瞬、そう思った。
「……リーネ・グラーツ」
かすれた声。
「ヨアヒム・ベルク。ハンナ・ベルク。幼子、名なし。ヴィルヘルム老」
名前だった。
「マルギット・ライナー。ペーター・ライナー」
ひとり。また、ひとり。
名前と名前のあいだに、息を吸う音がはさまる。吸うたびに、肩が上がって、落ちる。
霜降り村の、九年前の冬の、十二人。
「……エーリヒ・グラーツ」
最後の名を言い終えると、閣下は額を床につけた。ふたつの窪みの、ちょうどあいだに。
喉の奥から、もう一度、あの音が漏れる。
「神さま」とも、「許してくれ」とも言わない。言葉は、ひとつもない。
グラウが、閣下の肩に鼻を押しつけた。
私は扉のところで、両手で口を押さえていた。指が歯に当たって、かちかちと鳴る。
(神さま。これは)
『これが、九年じゃ』
声は、揺れていなかった。揺れないように、ずっとこらえてきた声なのだと思った。
私は、膝をつく。
扉の内側の、いちばん隅。閣下から、いちばん遠い場所に。
石の冷たさが、寝間着ごしに上がってくる。ひとつ、ふたつ、と数えかけて、やめる。今夜は、数で冷たさをごまかしたくなかった。
閣下が顔を上げたのは、ずいぶん経ってからだった。
そして、扉の隅の私に気づく。
アイスブルーの瞳が、大きく開く。薄闇の中でも、頬から血の気が引いていくのがわかった。
「――誰が」
低い声が震えていた。怒りの震えではない。着ているものを剥がされた人の、震え方だった。
「誰が、入れと言った」
「申し訳ありません」
「出て行け」
「はい」
返事をしたのに、膝が床から離れなかった。
十点満点で、と、頭の隅が言いかける。
やめた。点をつけるのは、痛いものから目を逸らすための技だ。今は逸らさない。この人の震えている背中を、逸らさずに見る。
胸の奥で、百合の香りがふっと強くなった。行くな、と袖を引かれた気がした。
『セラや。ひとつだけ、伝えてくれんか』
(……はい)
息を吸う。
「閣下。神さまが」
閣下の肩が、びくりと跳ねた。
「『寝台の足元の、あの窪みな。わしも隣で、膝をついておった。九年。冷たかったのう』と」
閣下は動かない。床の拳だけが、白くなっていく。
「それから」
喉が、詰まりかけた。
「『リーネは百合が好きじゃった。夏になると、崖を登って摘んでおった』と」
閣下の背中が、こわばった。
百合のことは、オットーさんから聞いていた。崖のことは、今、初めて聞く。知っているのは、あの村の人と、この人だけのはずだ。
「……やめろ」
かすれた声が、床に落ちる。
「そんなものは、知らない。私は、祈ってなどいない。神に言うことなど、何もない。私は、ただ――」
その先が、出てこない。
グラウが、閣下の脇腹に鼻先を押しこんだ。
ここから先は、神さまの言葉ではない。
私の言葉だ。
「ただ、名前を、忘れないでいらしただけです」
閣下の息が、止まった。
「それが祈りなのかどうか、私にはわかりません。でも、神さまも、忘れていらっしゃいません。リーネちゃんも。ヨアヒムさんも。ハンナさんも。名前のない赤ちゃんも」
胸に抱いていた石を、床に置いた。
石は薄闇の中で、ほのかに白く光った。その光が、ふたつの窪みの縁を、細く照らす。
暗い晩に、膝をついておる者の足もとを照らす石。あの部屋で、神さまはそうおっしゃった。
だから、持ってきたのだ。今になって、やっとわかった。
「ここは、罰の場所じゃありません」
声が震えた。お腹に力を入れても、止まらない。
「閣下がひとりだと思っていらした場所は。ずっと、隣に誰かがいた場所です。グラウと、もうひとり」
閣下は長いあいだ、石の光を見ていた。
拳が、ゆっくりほどけていく。
大きな手が、窪みの上に、力なく置かれた。右の甲に、赤い筋が三本。閣下はそれを、もう隠さなかった。
赤い筋の上が、薄く光っていた。膏薬だ。
ゆうべ、机に置いてきた、私の壺の。
浅い傷だった。うめくほどの傷ではない。
この人が九年うめいてきたのは、手の甲ではない場所だ。
閣下の肩が、揺れはじめた。
声は出さない。出さずにきた人の泣き方だった。床の窪みに、ぽつり、ぽつりと、小さな音が落ちる。
グラウが、その手の甲を一度だけ舐めた。あの冬、リーネちゃんの手を舐めたのと、同じように。
百合の香りが、部屋に満ちていく。
火の気のない小さな部屋の、いちばん低いところまで。身を屈めて、降りてくるように。
閣下の肩が、一度、大きく震えた。
「……匂う」
顔は、上げない。
「胸の、奥で」
私は、何も言わなかった。言える言葉を、ひとつも持っていなかった。
扉の隅に膝をついたまま、ただ、そこにいる。
この部屋にいるのは、閣下と、グラウと、私。それから、もうひとり。
『九年、あの子と、犬と、わしの三人じゃった』
神さまが、小さくおっしゃった。
『今夜、ひとり増えた』
夜が明けた。
尾根の雪に、最初の光が差す。稜線が上から順に、金色に染まっていく。誰かが山の頂から、灯りをひとつずつ下ろしてくるみたいだった。
光は窓の桟を越えて、床に落ちた。ふたつの窪みの、すぐ手前まで。
閣下は床に手をついたまま、顔を上げた。涙の跡は拭わない。拭わないまま、光を見ていた。
「……セラ」
いつもの声ではなかった。命令するときの、低く切る声ではない。喉のずっと奥のほうから、出てくる声。
「こっちへ、来ないか」
来い、ではなかった。
私は立ち上がって、部屋を横切った。床が、足の裏に冷たい。閣下の隣に、膝をつく。窪みのすぐ横の、光がいちばん端まで届いているところに。
閣下は、私を見なかった。尾根を見ている。
「この窓は、霜降り村のほうへ向けて作り直させた。九年前に」
「はい」
「毎晩、ここで膝をついてきた。だが、夜明けを見たのは、今朝が初めてだ。いつも、明ける前に立っていた」
閣下は、光の届いた床を見下ろした。
「明けるのを見たら、許された気になりそうだった。……それが、怖かった」
私は、何も言えなかった。
何か言えば、この人の九年を、軽くしてしまう気がした。
稜線の金色が、少しずつ下へ降りてくる。光はとうとう、窪みの縁まで届いた。
閣下は、手をどけなかった。
「……お前の、あの帳面」
肩が跳ねた。帳面のことは、閣下には話していない。
「厨房の棚に、置きっぱなしだ。マルタが、勝手に読むなと兵を怒鳴っていた。ギルバートが、私の執務用の予備の台帳を、黙ってその隣に置いていた」
ギルバートさま。
「あれに、十二の名を、書いておけ」
「はい。……リーネちゃんの名前は、もう、書いてあります。オットーさんから聞いた日に」
閣下が、こちらを向いた。
今朝、初めて、私を見た。
赤い目。けれど、もう、雪の中にうずくまっている人の目ではなかった。
「……そうか」
口の端が、ほんの少し動いた。
笑ったのだと思う。笑い方を、どこかに置き忘れてきた人の、ぎこちない笑い方で。
「残りは、十一人だ。今夜、教える。書くのは、お前に頼みたい」
閣下は、窓の外へ目を戻した。
「私の字は、ギルバートでさえ三度読み返す」
そのとき、私の肩が、勝手に震えた。寝間着一枚で、夜明け前の石の床に、ずっと座っていたのだ。
閣下が、それに気づいた。
眉が寄る。
「……寝間着で来る者があるか」
寝台の上の外套を、片手で引き寄せた。何か言う前に、ばさりと、私の肩に掛けられた。
重い。あたたかい。雪と、革と、杉の匂いがした。昨日、この部屋で嗅いだのと同じ匂いが、今は、私をすっぽり包んでいる。
「か、閣下の外套が」
「私は、寒くない」
嘘だと思った。閣下も、シャツ一枚だった。
外套の前を合わせる閣下の指が、私の顎の下で、一瞬だけ止まった。すぐに離れた。
顔から火が出そうで、私は、下を向いた。
閣下が床から立ち上がる。膝をついたままの私に、手が差し出された。
「立てるか。この床は、九年分、冷えている」
その手を、左手で取る。引き上げられる。閣下の手は、涙で少し濡れていた。それから、かすかに、私の膏薬の匂いがした。
立ち上がると、二人のあいだは、腕一本分もなかった。白いシャツの襟元に、喉の古い傷跡が見える。
閣下は、手を離さなかった。
「……指が、冷えている」
親指が、私の指の節の上を、一度だけゆっくり往復した。温めるように。確かめるように。
自分が何をしているのか、わかっていない顔だった。
「お前は、誰も入れなかった部屋に、二度入った。一度目は昼に。二度目は、夜明け前に」
「……申し訳ありません」
「謝るな」
握る手に、少し力がこもる。
閣下は窓のほうへ顔を向けた。銀灰色の髪のすきまから、耳の先がのぞいている。朝の光のせいではない色だった。
「三度目も、入っていい」
それだけ言って、手を離した。
離すまでに、ずいぶん時間がかかった。
肩の外套は、返しそびれた。閣下も、返せとは言わなかった。
三ヶ月の期限のことを思い出したのは、手が離れてからだ。
閣下が扉を開けて、私を先に廊下へ通した。
廊下に、ギルバートさまが立っている。
夜明けの薄暗がりで、盆を持ったまま。朝の白湯を運んできたところらしい。
ギルバートさまは、閣下の私室から出てくる私を見た。寝間着の上に、閣下の外套を羽織った私を。それから、後ろの、目の赤い閣下を見る。もう一度、私を見た。
眼鏡が、鼻の上をつるりと滑った。
「閣下のお部屋から、朝に女性が出てこられるのは、記録の上では、初めて――」
言いかけて、自分が何を口にしているのか、気づいた顔になる。
耳から首筋まで、みるみる赤くなった。
「――違います。そうではなく。私は、白湯を。閣下の、朝の。……失礼いたしました」
盆を持ったまま直角に頭を下げて、廊下の向こうへ早足で消えていく。盆の上の白湯が、少しこぼれた。
閣下はその背中を見送ってから、低く言った。
「ギルバートが、あんな声を出すのを、初めて聞いた」
「私も、初めて聞きました」
『わしも、初めて聞いた』
神さまは、とても楽しそうだ。
口を開けたまま、しばらく閉じなかったギルバートさまを見たのは、初めてだった。




