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お飾り聖女と氷の辺境伯と、名前を忘れない神さま〜推しの隣に、座りたい〜  作者: 真白のあ
第四章 署名のない羊皮紙

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第36話 すり減った床(一)



 侯爵の一団が去った翌日、ギルバートさまが厨房に下りてきた。


 初めてのことだ。マルタさんは「あら」と言ったきり、鍋から目を離さなくなった。ルッツは包帯を巻き直してもらっていた手を、慌てて背中に隠す。隠す理由は、どこにもないのに。


「――セラ王女」


 ギルバートさまは眼鏡の位置を直して、少し早口になった。


「閣下の私室の掃除を、お願いできますか」

「私が、ですか」

「閣下は九年、私室に女中を入れておられません。ご自分でなさる、ということになっております。帳簿の上では」


 帳簿の上では。


「昨日、閣下が私室で三度、くしゃみをなさいました。記録にある限り、初めてです」


 くしゃみの記録も、つけていらっしゃるのだろうか。


 聞いてみたかったけれど、やめておいた。


「閣下のお許しは」

「頂いておりません」


 ギルバートさまは、眼鏡の奥でほんの少し目を逸らした。


「閣下は今朝、峠の見回りに出られました。お戻りは夕方です。……私が勝手にやったことに、してください」


 また、それだ。


 この城に来てから、私はこの言葉を、いろんな人の口から聞いている。オットーさんから。閣下から。そして今、ギルバートさまから。


「ギルバートさま。その言葉、この城で流行っているんですか」

「この城の、合言葉のようなものです」


 真顔だ。


「九年前の冬に、閣下が最初に仰いました。以来、誰かが掟を破るときは、皆これを言います。掟を破ることが、この城でいちばん守られている掟になってしまいました。……帳簿には、つけようがありません」


 マルタさんが、お玉で鍋の縁をかん、と叩いた。


「あたしは四十年、そんな合言葉なしで勝手にやってきたけどね」


    *


 閣下の私室は、執務室の隣の、小さな部屋だった。


 扉の前で、私は一度、深呼吸をした。


 推しの、私室。


 ……落ち着こう。掃除に来たのだ。十年、大聖堂の床を磨いてきた職人として、来たのだ。


 グラウが私を追い越して、扉を鼻で押した。迷いのない押し方だった。九年、この扉を好きに開けてこられたのは、グラウだけなのだと思う。


 扉が開いたとたん、冷たい空気が頬に触れた。それから、匂い。


 雪と、なめした革と、少しだけ杉の匂い。執務室で、閣下が私の横を通り過ぎるときにする匂いだ。


 顔が、熱くなる。掃除に来たのだ、と、もう一度自分に言い聞かせる。


 暖炉はある。でも、火の気がない。灰は白く乾いて、指でつついたら崩れそうだ。この暖炉は、もう何年も燃やされていない気がする。


 寝台がひとつ。衣装箱がひとつ。壁に、古い剣が一振り。飾りは、ない。窓辺に花も、ない。


 椅子の背に、白いシャツが一枚、掛けてある。


 袖口が、ほつれたのを繕ってある。手に取ると、縫い目がひどく不揃いだ。大きい目、小さい目、途中で糸を足した結び目がふたつ。


 剣は国でいちばん上手なのに、針は、たぶん、私より下手だ。


 なんだか胸の奥が、くすぐったくなる。縫い目をそっと指でなぞってから、シャツを畳んで、椅子に戻す。


 枕元に、小さな陶器の壺がひとつ。閣下が私に作ってくださった膏薬の壺と、同じ形だ。


 おそろい、という言葉が頭に浮かんで、慌てて打ち消した。壺は壺だ。


 雑巾は、厨房でマルタさんに固く絞ってもらってきた。右手では、まだ絞れない。


 まず窓。曇りが一枚取れるごとに、冬の光が一筋ずつ、部屋へ戻ってくる。


 寝台の下に雑巾を差しこむと、埃の塊がころころ転がり出てきた。グラウが、くしゅん、とくしゃみをする。


 閣下と同じだ。思わず、笑ってしまった。


 寝台の足元で、手が止まった。


 灰色の石の床に、窪みがふたつ。


 手のひらを広げたくらいの、浅い窪みだ。拳ふたつ分のあいだを空けて、並んでいる。そこだけ石がつるりとして、まわりより艶がある。


 雑巾の艶ではない。


 もっと重いものが、何度も、同じところを押し続けた艶だ。十年、床を磨いてきた私の膝のほうが、頭より先にそれを知っていた。


 窪みの前に、膝を下ろしてみる。


 ぴたりと、合った。


 石の冷たさが、膝の皿から骨へ、ゆっくり染みてくる。この冷たさを、毎晩。


 窪みが向いているのは、窓のほうだった。窓の外には、雪をかぶった北東の尾根。その向こうに、霜降り村がある。


 グラウが隣に来て、窪みの横に腰を下ろした。座る場所に、少しも迷わない。何度もここに座ってきた座り方。


「……神さま」

『うむ』

「これは」

『あの子が九年、毎晩、膝をついておる場所じゃ』


 静かな声。


『夜明け前にな。神など信じておらんと言うあの子が、誰にも見せずに。……犬だけが、隣におった』


 窪みに指を置く。冷たい。冷たいのに、そこだけ、すり減っている。


「何を、祈っていらっしゃるんでしょう」

『祈っておらん、と、あの子は言うじゃろうな』


 神さまが、少し笑う。笑ったのに、私の胸の奥が、きゅっと縮む。


『言葉は、ひとつも持っておらん。拳を床について、息を殺しておるだけじゃ』

「それは、祈りじゃないんですか」


 窓の外で、尾根の雪が、薄い冬の陽を受けて白く光った。


 百合の香りが、埃っぽい小さな部屋に、ふわりと満ちる。


『言葉にならんものはな。わしが、代わりに言葉にして、聞いておるよ』


 私は窪みに手を当てたまま、動けない。


 本の中のこの人を、私はずっと、大聖堂の天井の絵みたいに見上げていた。


 今は、同じ床の、同じ高さに膝をついている。


 見上げていたころより、遠くなった気がする。いや、近くなったのかもしれない。どちらなのか、よくわからない。


「閣下は、その声を、誰にも聞かせていないんですね」

『聞かせておらん。じゃが、聞く者はおる。犬と、わしと』


 窪みの縁を、指でなぞる。


「……ここは、磨かないでおきます」


 その日、私は閣下の部屋の埃を、全部払った。


 ふたつの窪みにだけは、雑巾を当てなかった。


 磨いたら、消えてしまう気がしたのだ。九年が。


 廊下に出ると、ギルバートさまが壁に背を預けて立っていた。


 靴の先が、扉のほうを向いている。ずっとそこにいらしたのかもしれない。


「終わりましたか」

「はい。……窪みは、磨きませんでした」


 眼鏡の奥の目が、わずかに大きくなる。


「お気づきに、なりましたか」

「膝を、合わせてみました。ぴったりでした」


 ギルバートさまは、しばらく私の顔を見ている。それから眼鏡を外して、ハンカチで拭く。拭く必要もないくらい、きれいなレンズを。


「私は、あの窪みを見ないことにしてまいりました。閣下のご指示です」


 拭く手が、止まらない。


「見ないことにする、というのは。見ている、ということです。九年。私は、あれが深くなっていくのを確かめておりました。……毎年、秋の点検のたびに」


 眼鏡を掛け直す。


「貴女は、磨かなかった。私は、磨けなかった。その違いが何なのか、まだ整理がついておりません」

「違いは、ないと思います」


 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。


「ギルバートさまは、見ないふりをしながら、九年見ていらっしゃいました。私は、今日一日だけです。九年のほうが、ずっと重いです」


 ギルバートさまは口を開けて、閉じた。


 何も言わずに、廊下を戻っていく。その背中が、いつもより、ほんの少しゆっくりだった。


 ギルバートさまが、言いかけて口を閉じるのを、この城に来てから、もう何度も見た。


    *


 閣下が峠から戻ったのは、夕方だった。


 馬が中庭に入る音を、厨房で聞いた。角笛は鳴らない。怪我人はいない、という意味だ。


 夜、いつものようにスープを運ぶ。


 盆を置くと、閣下はペンを止めないまま言った。


「ギルバートの差し金だな」

「……いえ、私が、勝手に」

「あれが私の留守に厨房へ下りたことは、昼のうちにマルタの小言で耳に入っている。庇うなら、口裏を合わせてからにしろ」


 紙をめくる指が、一枚ぶん止まる。


「寝台の足元は、そのままにしてあったな」

「はい」

「理由は、訊かないでおく」


 閣下は、また紙をめくった。暖炉で、二本きりの薪の一本が崩れて、小さく鳴った。


「……シャツが、畳んであった」


 心臓が、跳ねる。


「申し訳ありません。椅子に掛けてあったので、つい」

「袖を、見たか」

「……見ました」

「笑ったか」

「笑っていません」


 閣下が、ちらりとこちらを見る。


「少しだけ、笑いました」

「正直でいい」


 閣下は、紙に目を戻す。


「それと、ギルバートに伝えておけ。私のくしゃみを記録するのは、やめろと。領主の名誉に関わる」


 今度こそ、肩が揺れる。閣下は、顔を上げない。けれど、ペンの先が、さっきより少しゆっくり動いている気がした。


 私は、机の端の革手袋を見ている。左は外して置いてある。右は、まだはめたままだ。紙をめくるのに、手袋は邪魔なはずなのに。


 手袋から、雪の匂いがする。それと、濡れた獣の毛の匂い。


『峠で、雪狼が一頭、出た』


 神さまが、小さくおっしゃる。


『右の甲に、爪が三本。中までは届いておらん』


 だから、外さないのだ。私に見せないために。


 私は、エプロンのポケットから膏薬の壺を出した。閣下が作ってくださった、あの壺だ。


 何も言わずに、机の端の、手袋の隣に置いた。


 閣下のペンが、止まる。


 壺を見て、それから私を見て、また壺を見る。


「……誰に聞いた」

「誰にも。手袋から、雪狼の匂いがしたので」


 ペン先から、黒いしずくがひとつ、紙に落ちた。


「置いていけ」


 それだけ。手袋は、外さない。


 でも、盆を下げて扉を閉めるとき、隙間から、閣下の左手が壺のほうへ伸びるのが見えた。


 扉を閉めてから、廊下で、両手で頬を押さえた。熱い。


 体の傷なら、この人は、上手に隠す。でも、隠しきれないこともあるのだと知った。それが、なんだか嬉しかった。


 嬉しいのに、寝台の足元の、ふたつの窪みを思い出すと、胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 その夜は、目を閉じても、窪みの艶が浮かんだ。


 白く乾いた灰。角をそろえた麻布。爪の跡を隠した、右の手袋。


 屋根の端で、氷柱が一本、落ちる音がした。


    *


 夜明けの少し前、私は光る灰色の石を胸に抱いて、螺旋階段を上った。


 坑道の奥の、あの部屋から持ち帰った石だ。なぜ今それを抱えているのか、自分でもうまく言えない。


 執務室の隣の扉の前で、足が止まる。


 中から、音がした。


 声ではない。歯を食いしばった喉の奥から、押し殺しきれずに漏れてくる、低い音。


 うめき声だった。


 扉に手を当てる。木が、冷たい。


『――行ってやりなされ』


 神さまがおっしゃった。


『今夜だけは、わしの隣に、お主も座ってやってくれ』


明日は3話投稿  8:00 12:00 22:00

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