第36話 すり減った床(一)
侯爵の一団が去った翌日、ギルバートさまが厨房に下りてきた。
初めてのことだ。マルタさんは「あら」と言ったきり、鍋から目を離さなくなった。ルッツは包帯を巻き直してもらっていた手を、慌てて背中に隠す。隠す理由は、どこにもないのに。
「――セラ王女」
ギルバートさまは眼鏡の位置を直して、少し早口になった。
「閣下の私室の掃除を、お願いできますか」
「私が、ですか」
「閣下は九年、私室に女中を入れておられません。ご自分でなさる、ということになっております。帳簿の上では」
帳簿の上では。
「昨日、閣下が私室で三度、くしゃみをなさいました。記録にある限り、初めてです」
くしゃみの記録も、つけていらっしゃるのだろうか。
聞いてみたかったけれど、やめておいた。
「閣下のお許しは」
「頂いておりません」
ギルバートさまは、眼鏡の奥でほんの少し目を逸らした。
「閣下は今朝、峠の見回りに出られました。お戻りは夕方です。……私が勝手にやったことに、してください」
また、それだ。
この城に来てから、私はこの言葉を、いろんな人の口から聞いている。オットーさんから。閣下から。そして今、ギルバートさまから。
「ギルバートさま。その言葉、この城で流行っているんですか」
「この城の、合言葉のようなものです」
真顔だ。
「九年前の冬に、閣下が最初に仰いました。以来、誰かが掟を破るときは、皆これを言います。掟を破ることが、この城でいちばん守られている掟になってしまいました。……帳簿には、つけようがありません」
マルタさんが、お玉で鍋の縁をかん、と叩いた。
「あたしは四十年、そんな合言葉なしで勝手にやってきたけどね」
*
閣下の私室は、執務室の隣の、小さな部屋だった。
扉の前で、私は一度、深呼吸をした。
推しの、私室。
……落ち着こう。掃除に来たのだ。十年、大聖堂の床を磨いてきた職人として、来たのだ。
グラウが私を追い越して、扉を鼻で押した。迷いのない押し方だった。九年、この扉を好きに開けてこられたのは、グラウだけなのだと思う。
扉が開いたとたん、冷たい空気が頬に触れた。それから、匂い。
雪と、なめした革と、少しだけ杉の匂い。執務室で、閣下が私の横を通り過ぎるときにする匂いだ。
顔が、熱くなる。掃除に来たのだ、と、もう一度自分に言い聞かせる。
暖炉はある。でも、火の気がない。灰は白く乾いて、指でつついたら崩れそうだ。この暖炉は、もう何年も燃やされていない気がする。
寝台がひとつ。衣装箱がひとつ。壁に、古い剣が一振り。飾りは、ない。窓辺に花も、ない。
椅子の背に、白いシャツが一枚、掛けてある。
袖口が、ほつれたのを繕ってある。手に取ると、縫い目がひどく不揃いだ。大きい目、小さい目、途中で糸を足した結び目がふたつ。
剣は国でいちばん上手なのに、針は、たぶん、私より下手だ。
なんだか胸の奥が、くすぐったくなる。縫い目をそっと指でなぞってから、シャツを畳んで、椅子に戻す。
枕元に、小さな陶器の壺がひとつ。閣下が私に作ってくださった膏薬の壺と、同じ形だ。
おそろい、という言葉が頭に浮かんで、慌てて打ち消した。壺は壺だ。
雑巾は、厨房でマルタさんに固く絞ってもらってきた。右手では、まだ絞れない。
まず窓。曇りが一枚取れるごとに、冬の光が一筋ずつ、部屋へ戻ってくる。
寝台の下に雑巾を差しこむと、埃の塊がころころ転がり出てきた。グラウが、くしゅん、とくしゃみをする。
閣下と同じだ。思わず、笑ってしまった。
寝台の足元で、手が止まった。
灰色の石の床に、窪みがふたつ。
手のひらを広げたくらいの、浅い窪みだ。拳ふたつ分のあいだを空けて、並んでいる。そこだけ石がつるりとして、まわりより艶がある。
雑巾の艶ではない。
もっと重いものが、何度も、同じところを押し続けた艶だ。十年、床を磨いてきた私の膝のほうが、頭より先にそれを知っていた。
窪みの前に、膝を下ろしてみる。
ぴたりと、合った。
石の冷たさが、膝の皿から骨へ、ゆっくり染みてくる。この冷たさを、毎晩。
窪みが向いているのは、窓のほうだった。窓の外には、雪をかぶった北東の尾根。その向こうに、霜降り村がある。
グラウが隣に来て、窪みの横に腰を下ろした。座る場所に、少しも迷わない。何度もここに座ってきた座り方。
「……神さま」
『うむ』
「これは」
『あの子が九年、毎晩、膝をついておる場所じゃ』
静かな声。
『夜明け前にな。神など信じておらんと言うあの子が、誰にも見せずに。……犬だけが、隣におった』
窪みに指を置く。冷たい。冷たいのに、そこだけ、すり減っている。
「何を、祈っていらっしゃるんでしょう」
『祈っておらん、と、あの子は言うじゃろうな』
神さまが、少し笑う。笑ったのに、私の胸の奥が、きゅっと縮む。
『言葉は、ひとつも持っておらん。拳を床について、息を殺しておるだけじゃ』
「それは、祈りじゃないんですか」
窓の外で、尾根の雪が、薄い冬の陽を受けて白く光った。
百合の香りが、埃っぽい小さな部屋に、ふわりと満ちる。
『言葉にならんものはな。わしが、代わりに言葉にして、聞いておるよ』
私は窪みに手を当てたまま、動けない。
本の中のこの人を、私はずっと、大聖堂の天井の絵みたいに見上げていた。
今は、同じ床の、同じ高さに膝をついている。
見上げていたころより、遠くなった気がする。いや、近くなったのかもしれない。どちらなのか、よくわからない。
「閣下は、その声を、誰にも聞かせていないんですね」
『聞かせておらん。じゃが、聞く者はおる。犬と、わしと』
窪みの縁を、指でなぞる。
「……ここは、磨かないでおきます」
その日、私は閣下の部屋の埃を、全部払った。
ふたつの窪みにだけは、雑巾を当てなかった。
磨いたら、消えてしまう気がしたのだ。九年が。
廊下に出ると、ギルバートさまが壁に背を預けて立っていた。
靴の先が、扉のほうを向いている。ずっとそこにいらしたのかもしれない。
「終わりましたか」
「はい。……窪みは、磨きませんでした」
眼鏡の奥の目が、わずかに大きくなる。
「お気づきに、なりましたか」
「膝を、合わせてみました。ぴったりでした」
ギルバートさまは、しばらく私の顔を見ている。それから眼鏡を外して、ハンカチで拭く。拭く必要もないくらい、きれいなレンズを。
「私は、あの窪みを見ないことにしてまいりました。閣下のご指示です」
拭く手が、止まらない。
「見ないことにする、というのは。見ている、ということです。九年。私は、あれが深くなっていくのを確かめておりました。……毎年、秋の点検のたびに」
眼鏡を掛け直す。
「貴女は、磨かなかった。私は、磨けなかった。その違いが何なのか、まだ整理がついておりません」
「違いは、ないと思います」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
「ギルバートさまは、見ないふりをしながら、九年見ていらっしゃいました。私は、今日一日だけです。九年のほうが、ずっと重いです」
ギルバートさまは口を開けて、閉じた。
何も言わずに、廊下を戻っていく。その背中が、いつもより、ほんの少しゆっくりだった。
ギルバートさまが、言いかけて口を閉じるのを、この城に来てから、もう何度も見た。
*
閣下が峠から戻ったのは、夕方だった。
馬が中庭に入る音を、厨房で聞いた。角笛は鳴らない。怪我人はいない、という意味だ。
夜、いつものようにスープを運ぶ。
盆を置くと、閣下はペンを止めないまま言った。
「ギルバートの差し金だな」
「……いえ、私が、勝手に」
「あれが私の留守に厨房へ下りたことは、昼のうちにマルタの小言で耳に入っている。庇うなら、口裏を合わせてからにしろ」
紙をめくる指が、一枚ぶん止まる。
「寝台の足元は、そのままにしてあったな」
「はい」
「理由は、訊かないでおく」
閣下は、また紙をめくった。暖炉で、二本きりの薪の一本が崩れて、小さく鳴った。
「……シャツが、畳んであった」
心臓が、跳ねる。
「申し訳ありません。椅子に掛けてあったので、つい」
「袖を、見たか」
「……見ました」
「笑ったか」
「笑っていません」
閣下が、ちらりとこちらを見る。
「少しだけ、笑いました」
「正直でいい」
閣下は、紙に目を戻す。
「それと、ギルバートに伝えておけ。私のくしゃみを記録するのは、やめろと。領主の名誉に関わる」
今度こそ、肩が揺れる。閣下は、顔を上げない。けれど、ペンの先が、さっきより少しゆっくり動いている気がした。
私は、机の端の革手袋を見ている。左は外して置いてある。右は、まだはめたままだ。紙をめくるのに、手袋は邪魔なはずなのに。
手袋から、雪の匂いがする。それと、濡れた獣の毛の匂い。
『峠で、雪狼が一頭、出た』
神さまが、小さくおっしゃる。
『右の甲に、爪が三本。中までは届いておらん』
だから、外さないのだ。私に見せないために。
私は、エプロンのポケットから膏薬の壺を出した。閣下が作ってくださった、あの壺だ。
何も言わずに、机の端の、手袋の隣に置いた。
閣下のペンが、止まる。
壺を見て、それから私を見て、また壺を見る。
「……誰に聞いた」
「誰にも。手袋から、雪狼の匂いがしたので」
ペン先から、黒いしずくがひとつ、紙に落ちた。
「置いていけ」
それだけ。手袋は、外さない。
でも、盆を下げて扉を閉めるとき、隙間から、閣下の左手が壺のほうへ伸びるのが見えた。
扉を閉めてから、廊下で、両手で頬を押さえた。熱い。
体の傷なら、この人は、上手に隠す。でも、隠しきれないこともあるのだと知った。それが、なんだか嬉しかった。
嬉しいのに、寝台の足元の、ふたつの窪みを思い出すと、胸の奥が、少しだけ痛んだ。
その夜は、目を閉じても、窪みの艶が浮かんだ。
白く乾いた灰。角をそろえた麻布。爪の跡を隠した、右の手袋。
屋根の端で、氷柱が一本、落ちる音がした。
*
夜明けの少し前、私は光る灰色の石を胸に抱いて、螺旋階段を上った。
坑道の奥の、あの部屋から持ち帰った石だ。なぜ今それを抱えているのか、自分でもうまく言えない。
執務室の隣の扉の前で、足が止まる。
中から、音がした。
声ではない。歯を食いしばった喉の奥から、押し殺しきれずに漏れてくる、低い音。
うめき声だった。
扉に手を当てる。木が、冷たい。
『――行ってやりなされ』
神さまがおっしゃった。
『今夜だけは、わしの隣に、お主も座ってやってくれ』
明日は3話投稿 8:00 12:00 22:00




