第35話 閑話 一人目の王(三) 冠がつかえる
北東の谷へ向かう道は、十二年前と、何も変わらぬ。
雪は、馬の腹まである。馬が雪を踏むたびに、鞍袋の底で、冠がごとりと鳴った。
娘は、ほとんど口をきかぬ。わたしも、きかぬ。ただ、夜に火を焚くと、娘はいつも、わたしの風上に座った。煙が、わたしのほうへ流れぬように。
谷の口で、馬を降りた。十二年前、わたしが百の兵を並べて、谷の出入りを塞いだ場所だ。今は、誰もおらぬ。
わたしは、鞍袋から冠を出した。
道中は、載せなかった。あの娘の隣を、王として歩きたくはなかったからだ。
だが、谷に入るときは、別だ。谷を凍えさせたのは、ひとりの男ではない。王だ。谷の者の前には、王として立たねばならぬ。冠を隠して、ただの旅人の顔で入るのは、もう一度、逃げることになる。
わたしは、冠を頭に載せた。首が、いつものように軋んだ。
娘が先に立って、歩きはじめた。久しぶりの故郷だろうに、一度も振り返らない。足を止めたのは、わたしのほうだった。
谷は、変わっておった。どの家にも新しい梁が入り、子どもが雪の上を走っておる。
どの家からも、煙が立っておった。細い、灰色の、炭を焼く煙だ。梁を燃やした黒い煙は、一本もない。
わたしは、いつもの癖で数えようとして、やめた。数えなくても、どの竈にも火があるのがわかる。
古い石壁の裾にだけ、黒い煤の跡が残っておった。長い年月の雨でも、流れなかった黒だ。
走っていた子どもが、わたしの冠を見上げて、ぽかんと口を開けた。母親らしい女が、慌ててその子を抱き寄せる。抱き寄せて、わたしを見た。
怒っている目ではなかった。怯えている目でもない。ただ、あの冬を覚えている目だった。
谷の長が、家から出てきた。あの冬、裸足で雪を渡ってきて、わたしに薪を乞うた男だ。髪が、半分白くなっておった。
長は、わたしを見ても、頭を下げなかった。
わたしも、下げぬ。下げられぬのだ。冠が滑る。
長は黙って、谷の奥を指さした。
「あそこだ」
*
山の腹に、古い坑道が口を開けておった。娘が松明に火を移して、先に入る。
天井が低い。腰を屈めて、二十歩ほど進んだ。壁には、昔、何かを嵌めておったらしい窪みが並んでおった。どれも空で、こじり取った跡だけが残っておる。宝のようなものは、とうに誰かが持っていったのだろう。
そこで、坑道が、ふいに広くなった。背を伸ばして立てるほどの、小さな前室だ。
その奥の壁に、戸口があった。
わたしの腰よりも、低い戸口だった。くぐるには、膝をついて、四つん這いになるしかない。
わたしは、立ったまま、それを見ておった。
十一年の戦と、十二年の玉座。そのあいだ、わたしは誰にも頭を下げずにきた。この国は、わたしが頭を下げぬことで、まとまっておる。そう信じてきた。
ここで膝をつけば、国が崩れる気がした。
それに、今度は、隠れてではない。夜明け前の、誰もおらぬ大聖堂ではない。後ろには娘がおる。坑道の外には、谷の長がおる。王がここで冠を外して這いつくばったことを、谷の者は皆、知ることになる。
娘は、後ろで松明を持ったまま、何も言わなかった。急かしもせぬ。帰ろうとも言わぬ。大聖堂の床を磨いていたときと同じ顔で、ただ、待っておった。
わたしは、試しに、頭だけ戸口に入れてみる。
冠が、つかえた。
こつん、と、金が石に当たる音がする。
小さな音。鍛冶が毎年金を足し続けて、わたしに頭を下げさせなかった冠が、ただの石の縁に当たって、こつんと鳴っただけだった。
この冠をかぶったままでは、この戸口はくぐれぬのだ。
それだけのことに、わたしは、長いあいだ動けなかった。
それから、両手を頭に上げて、冠を外した。
首が、急に軽くなる。軽すぎて、頭がどこかへ浮いていきそうだ。
戸口の脇の平たい石の上に、冠を置いた。十二年分の重さが、ことり、と石に下りた。
膝をついて、四つん這いで、くぐる。
額が、戸口の縁に触れた。冷たい石だ。そして、つるりとなめらかだ。わたしより前にも、誰かがここで、何度も額を触れたのだ。
中は、灰色の石の小さな部屋だった。低い腰掛けがひとつ。壁も床も、ただの石だ。
何もない。
「……何もない」
声に出すと、ひどく間の抜けた音がした。王が冠を外して、四つん這いになって来た先が、これか。
娘が、松明を戸口の外に置いて、くぐってきた。そして、腰掛けの、わたしの隣に座った。
隣に。
王になってから、わたしの隣に座った者は、ひとりもおらなんだ。下げぬ頭の横は、いつも空いておった。
「あたたかい」
娘が言うた。七つのとき、冷えた灰の前で、わたしの手を握って言うたのと、同じ声。
松明は外にある。暗いはずだった。
なのに、壁が、白く光っておった。火の色ではない。夜明け前に、雪の野がひとりでに白みはじめる、あの色だ。娘の髪と、同じ色だった。
花の匂いがした。谷の小屋で、一度だけ嗅いだ匂いだ。あのときは、雪解けのせいだと思うた。
だが、ここは地の底だ。花など、どこにもない。
そのとき、胸の奥で、声がした。年老いた男の声だ。北の訛りがある。わたしの母と、同じ訛りだった。
――ようやく、来おったな。
「……どこに、おられる」
――ここじゃ。お主の、膝の高さじゃ。
腰掛けの前の床だった。何も見えぬ。だが、誰かがそこに座っておるのがわかった。わたしより、低いところに。
娘が七つのときに聞いた声だ、と思うた。下から聞こえた、床に座っている人の声だった、と、娘は言うておった。
この国で、わたしより低いところに座る者は、いくらでもおる。皆、わたしが座らせた者だ。
だが、わたしより高い方が、自分から、わたしより低いところへ座りに来てくださったことは、一度もなかった。
わたしは、ずっと、いちばん深い穴の底におるつもりでおった。誰も降りてこられぬ、黒い煙の底に。
この方は、その底より、まだ低いところに座っておられた。
そして、その床から、歌が聞こえた。
母の歌の、四節目。
五つのとき、聞きそびれた節だ。母が「ほかの誰かが歌ってくれる」と言うた節だ。眠れない夜に、わかる、と。
――眠れぬ子よ、ひとりと思うな。我は、汝の隣に、坐す。
初めて聞く節のはずなのに、耳が、それを覚えておった。
母が言うた「ほかの誰か」は、この方だったのだ。
母が歌ってくれたのは、いつも、三節目までだった。
あれは、母の愛が足りなかったからではない。
母は、わかっておったのだ。自分が、いつまでもわたしのそばにはいられないことを。
わたしがいつか大人になって、母のいない夜に、ひとりで眠れなくなる日が来ることを。
そういう夜には、母は、もう歌ってやれぬ。どれほど我が子を愛していても、人の手は、そこまでは届かぬ。
だから母は、四節目を、空けておいたのだ。自分が歌えなくなったあとも、わたしのそばで歌ってくださる方のために。
――眠れない夜になったら、わかるわ。
あれは、母が、自分のいなくなったあとのわたしに残してくれた、約束だった。
五つのわたしは、何も知らずに、そのまま眠ってしまった。
母は、どんな顔で、眠ったわたしを見ておったのだろう。
わたしは、腰掛けを下りた。床に膝をつき、冠のない頭を、床につけた。
石が、額に冷たい。
国は、崩れなかった。崩れる音も、誰かの笑う声もしない。ただ床がそこにあって、わたしの額を、黙って受けておった。
「谷で、死んだ者の数を」
床に向かって、言うた。
「わたしは、知りませぬ。十二年前、長が死んだ者の名を言おうとしたとき、要らぬと言うた。それからずっと、煙の数だけ数えてきた。煙のほうが、楽だった。煙には、顔がない」
床は、何も言わぬ。責めもせぬ。赦すとも言わぬ。ただ、聞いてくださっておった。
「四十一人です」
隣で、娘が言うた。
「谷では、誰かが死ぬと、その人の名前を、戸口から戸口へ呼んで回るんです。その人がどんな人だったか、ひとことだけ添えて。忘れないように」
娘は、膝の上で、手を重ねる。
「あの冬は、毎日、誰かの名前が、外を通っていきました。母は、戸口でそれを聞くたびに、わたしに言わせたんです。もう一度。もう一度。お前が覚えていなさい、と」
娘が、少しだけ息を吸う。
「最後の日に、うちの梁が落ちました。母は、その下になりました」
膝の上の娘の指が、白くなっておる。
「動けなくなった母は、それでも、わたしに、それまでの名前を全部、もう一度言わせたんです。ひとりも、落とさないように」
壁の白い光が、娘の頬を照らしておる。
「母は、あの冬、毎晩、戸口の隙間から、谷の口の岩の上を見ていたそうです。いつも同じ人が、ひとりで立って、こちらの家の火を見ていた、と」
あの岩だ。わたしが夜通し煙を数えておった、あの岩だ。
「最後の日、梁の下で、母はこうも言いました。いつか、あの人に、名前を聞かせておやり、と」
娘が、わたしの横顔を見た。
「あんなふうにひと晩じゅう人の家の火を見ている人は、きっと、眠れなくなるから、と」
わたしは、床に額をつけたまま、動けぬ。
梁の下で、最後の力をふりしぼって、自分の子に四十一の名を言わせた女がおった。その女は、最後の日に、谷を凍えさせた男の眠りのことまで、案じておったのだ。
「……教えてくれ」
声が、割れた。
娘は、ひとりずつ、名を言うた。わたしは、懐の帳面に、炭で書く。十一年、戦で死んだ兵の数だけを書いてきた帳面だ。
笛の上手だった、十の男の子。谷でいちばん糸を紡ぐのが速かった女。犬を三匹飼っていた男。名を聞くたびに、娘は、ひとことずつ付け足した。黒い煙の一本一本に、顔が戻ってきた。
「コンラート。長の息子です。八つでした」
娘の声が、そこで、少し途切れる。
「わたしより、ひとつ上で、秋までは、よく一緒に遊びました。笑うと、前歯が一本なかったんです。……春を、待てませんでした」
炭が、止まった。
長の、息子。
あの冬、谷から裸足で雪を渡ってきた長の足を、思い出した。血で赤くなった足の裏を。靴はどうした、と訊いたわたしに、長は、子に履かせた、と答えた。
あの靴を履いておったのは、この子だったのだ。
父親が、自分は裸足になって、雪の上を王のもとへ歩いてきた。それほどまでして、温めようとした子。
薪は、その日のうちに渡した。それでも、この子には間に合わなかった。いや、わたしが谷の口を塞がなければ、長が裸足で雪を渡ることも、なかったのだ。
わたしは、コンラート、と書いた。手が震えて、字が歪んだ。
娘は、また名を言い続けた。わたしは、書き続けた。
四十人目を書き終えたとき、娘が、少し黙る。
「最後は」
娘が、膝の上で、手を握る。
「わたしの母です。エルナ」
炭を持つ手が、また止まる。
「梁の下で、母は、それまでの名前を全部、わたしに言わせました。それから、最後に、ひとつだけ足したんです」
壁の白い光が、かすかに揺れる。
「エルナ、と。……まだ、息をしていたのに」
わたしは、エルナ、と書いた。
四十一の名を、書き終えた。
炭を、置く。娘のほうを、向く。
王になってから、初めて、ひとりの人間に向かって、頭を下げた。
「……すまなかった」
十二年、言えなかった言葉。
娘は、少しのあいだ、黙っておる。それから、静かに言うた。
「……はい」
それだけ。けれど、その声は、少し震えておる。
「その言葉を、母は、ずっと待っていたと思います。……わたしも、待っていました」
わたしは、顔を上げられなかった。
鳥にも託さなかった言葉だ。やっと、自分の口から渡せた。
炭を持ち直した。まだ、ひとつ、書いておらぬ名がある。
ずっと、訊けなかった名だ。この娘の名だ。名を訊けば、娘はひとりの人間になる。そうなれば、谷で死んだ者たちも、ひとりずつの人間になる。それが怖くて、訊かずにきた。
だが、谷の者たちは、今、ひとりずつ、名前と顔を取り戻した。もう、訊けぬ理由はない。
「……そなたの、名は」
娘は、少し驚いた顔をした。それから、笑うた。七つのとき、灰の中から手を出して、わたしの手を包んだときと同じ顔で。
娘は、名を言うた。
わたしは、四十一の名の下に、少し間をあけて、それを書いた。
死んだ者の名ではない。生きておる者の名を、この帳面に書いたのは、初めてだった。
書き終えたとき、娘が、わたしの手を握った。七つのときと同じ手だ。あのときは、氷のように冷たかった。
今度は、温かかった。
――それが、お主の帳面じゃ。わしの帳面にも、同じ名がある。ひとつも、欠けておらん。
帳面の上に、何かが落ちる。炭の字が、ひとつ、にじんだ。
それが、わたしの目から落ちたものだと、しばらく、わからなかった。
*
わたしは、剣を抜いた。十一年、人を斬ってきた剣だ。
その剣先で、腰掛けの上の壁に、文字を刻んだ。北の古い言葉で、母の歌の四節目を。
――我は、汝の隣に、坐す。
剣は、字を彫るためのものではない。石は硬く、刃はすぐに欠けた。それでも、一画ずつ彫った。
いつか、わたしのように眠れぬ者が、ここへ来るかもしれぬ。その者が、玉座を探して見回さずに済むように。ここに座るのは自分ひとりではないと、すぐにわかるように。
彫り終えたとき、剣の刃は、もう何も斬れぬほどに欠けておった。
それで、よかった。
*
坑道を出ると、娘は、谷のいちばん奥へ歩いていく。
あの春、わたしが初めて娘を見つけた小屋だ。壁だけが残っていて、新しい梁は入っておらぬ。
娘は、冷えた竈の前に膝をついた。七つのとき、灰に両手を入れていた場所だ。
そして懐から、木の山鳩を出した。回廊の窓から借りていった、最初の一羽だ。
娘は、それを竈の縁に置いた。
「……ここに、置いていくのか」
「はい。母に、見せてあげたかったんです」
娘は、山鳩の頭を、指で一度撫でた。
「母さん。あの岩の上の人ね、毎年、一羽ずつ、わたしに鳥を彫ってくれたの。眠れない夜に」
穏やかな声。
「今日、あの部屋で、名前を全部、聞いてくれたよ。それから、ごめんって、言ってくれた」
崩れた壁のあいだから、谷の風が、竈の灰の上に、少しだけ雪を運んでくる。
「母さんが心配していたとおりの人だった。……だから、もう、心配しなくていいよ」
わたしは、小屋の戸口に立ったまま、動けなかった。
あの日も、この戸口で、わたしは何も言えなかった。今も、言えぬ。
竈の縁の小さな山鳩が、冬の陽を受けておる。いちばん陽の当たる場所を、娘は、ここでも選んでおった。
*
谷を出る前に、わたしは長に訊いた。
「谷のいちばん貧しい家の竈には、冬、薪は何本入る」
「三本だ」
「わたしの竈も、三本にする。王の竈だけが谷より暖かいうちは、わたしは谷の冬を知らぬままだ」
長が、わたしの顔を、長いあいだ見ておる。
それから、ゆっくりと、頭を下げた。
十二年で、初めてだった。
わたしは冠を手に提げたまま、谷を出る。もう、頭には載せぬ。
都に戻ると、鍛冶に言うた。
「もう、冠に金を足すな」
「ですが、王の冠は、国の重さでございます」
「重い冠を載せると、頭が下げられぬ」
鍛冶が、黙る。
「谷で、冠を外して、床に額をつけてきた。谷の娘に、詫びてもきた。それでも、国は崩れなかった。かわりに、谷の長が、初めて、わたしに頭を下げた」
口に出しても、まだ、不思議な心地がする。
「頭を下げぬ王より、下げられる王のほうが、人はついて来るらしい。……だから、これ以上、重くするな」
鍛冶は、少しだけ笑うた。
その夜、わたしは、自分の部屋に戻る。
十二年、この部屋で眠れた夜は、一度もなかった。
なぜ眠れなかったのか、今なら、わかる。
ひとつは、煙だった。毎晩、天井に谷の黒い煙が立った。煙には、顔がない。顔のないものは、いくら数えても終わらぬ。わたしは毎晩、十二本から数え直した。
ひとつは、言えなかった言葉。詫びるべき相手に、詫びずにきた。出口のない言葉がひとつ、ずっと、胸の奥につかえておった。
もうひとつは、ひとりだったことだ。王の隣は、いつも空いておった。眠れぬ夜を、誰とも分けられぬまま。
今日、谷で、その三つが、ひとつずつほどけた。
わたしは、棚の木の鳥を、初めて数える。十二年、眠れぬ夜に一羽ずつ彫って、出来のよいのだけ残してきた鳥だ。
四十一羽、あった。
谷で死んだ者と、同じ数だった。
わたしは、知らぬうちに、ひとりに一羽ずつ、鳥を彫っておったのかもしれぬ。
帳面を開いた。鳥を一羽ずつ手に取って、ひとりずつ、名を呼んだ。
「笛の上手だった、トマス。十歳」
一羽目を、窓辺に置いた。谷のある、北東の窓だ。
「糸紡ぎの、イルゼ」
二羽目を、その隣に。
「長の息子、コンラート。八つ」
三羽目は、いちばん小さな鳥を選んだ。長が、自分の靴を履かせた子だ。
「犬を三匹飼っていた、アルノ」
わたしは、ひとりずつ、名を呼んでは、窓辺に並べていった。
名を呼ぶたびに、天井の煙が、一本ずつ消えていく気がした。煙が、名前に変わっていく。
最後の一羽を手に取った。
「娘の母、エルナ」
四十一羽目は、窓辺のいちばん陽の当たる場所に置いた。あの娘が、わたしの山鳩にしてくれたように。
窓辺が、鳥でいっぱいになる。
数え直すものは、もう、なかった。
竈の薪を、三本に減らした。部屋が、ゆっくり冷えていく。谷の家と、同じ寒さだ。
王の部屋だけが暖かいうちは、眠ってはならぬと思うてきた。だが今夜は、谷と同じ寒さの中におる。この寒さの中でなら、わたしも、谷の者たちのように眠ってよいのだと思えた。
寝台に、横になる。目を閉じる。
いつもなら、ここで、天井に黒い煙が立つ。
今夜は、立たぬ。
かわりに、歌が聞こえた。
母の声ではない。年老いた、北の訛りのある声だ。寝台のすぐ脇の、床のあたりから。あの部屋で聞いた、あの声だった。
一節。二節。三節。
そして、四節目。
――眠れぬ子よ、ひとりと思うな。我は、汝の隣に、坐す。
五つの子どもに戻ったような気がする。母が三節目まで歌ってくれた、あの夜のようだ。
ただ、今夜は、四節目まである。
隣は、もう、空いてはおらぬ。
その夜、わたしは、眠った。
*
目が覚めると、窓が明るかった。
陽が、昇っておる。十二年で初めて、わたしは、夜明けを眠ったまま越えたのだ。
窓辺に並んだ四十一羽の鳥が、朝の陽を受けて、ひとつずつ影を落としておる。
扉の外で、誰かが鼻をすする音がした。
ゲルトだった。王が朝の刻になっても起きてこぬので、様子を見に来たのだという。扉に手をかけたところで、中から寝息が聞こえて、そのまま動けなくなったのだと。
「……王が、眠っておられた」
扉の向こうで、ゲルトはそう言うたきり、しばらく入ってこなかった。
わたしも、起き上がらぬ。寝台に横になったまま、窓辺の鳥を、一羽ずつ眺めておった。
トマス。イルゼ。コンラート。アルノ。エルナ。
朝の光の中で呼ぶ名は、夜ごとに数えた煙とは違って、どれも、少しあたたかかった。
* * *
祭壇の脇で、灰色の石が、静かに光っている。
夜が、だいぶ更けた。礼拝堂の窓の外で、北の尾根が、ほんの少し白みはじめている。
閣下の暖炉を、思い出した。九年、薪一本だった暖炉。今は、二本。それでも、あの人は、夜に眠らない。門を叩く音を、聞き逃さないために。
今ごろも、執務室で、起きているのだろう。
「……いつか、閣下も、眠れるでしょうか」
『それはな、わしではなく、あの子が決める』
丸窓に、雪がひとひら触れて、溶けた。
『じゃが、隣に座る者がおれば、眠りは、早う来る』
私は、光る石を、両手で包んだ。
あの腰掛けは、二人分あった。
そして、その前の床にも、いつも、もうひとり。
■ 第四章 署名のない羊皮紙




