第29話 鼻ではなく、胸の奥で(二)
「真冬の、炭焼きの小屋だ。花など、どこにもない」
閣下の声は、低かった。
「香油もなかった。麦の煮汁と、煙と、薬草の匂いだけだ。それでも、確かに、匂った」
長椅子の背を握る指が、白くなる。
「疲れのせいだと思った。三日、眠っていなかった」
閣下は、長椅子の背から、指を一本ずつ剥がすように離した。
「匂ったあと、静かになった。あの子が逝くのを前にして、胸の中が、ひどく静かだった。……それが、許せなかった」
だから、と閣下は言った。
「それから一度も、思い出さなかった。思い出さないように、していた」
「閣下」
「お前の言う通りだ」
アイスブルーの瞳が、月の光で、湖の底のように深い。
「あれは、鼻で嗅いだのではなかった。胸の奥で、匂った」
それから、閣下は、少しだけ息を吸った。
「グラウが、あの朝、私の足に腹を押しつけて離れなかった。リーネが息を引き取ったあと、グラウは、あの子の手を、一度だけ舐めた。それも、忘れていた」
『忘れたものはな、わしが預かっておいた』
胸の奥で、神さまがおっしゃった。
『今夜、ひとつずつ、返しておるところじゃ』
言いたいことは、たくさんあった。
神さまは、あの朝、あの小屋にいらしたんです。閣下の隣に。リーネちゃんの隣に。だから──。
けれど、閣下のほうが、先だった。
「あれが、神だと言うのなら」
絞り出すような声。
「なぜ、リーネを連れていった」
礼拝堂の空気が、凍った。
丸窓の色硝子に、外から、霜が這い上がってくるのが見えた。白い翼の縁から、細い羽根のような氷が、一枚、また一枚と伸びて、二度目の鳩を覆っていく。音もなく。誰にも止められずに。
「私は、掟を破って薪を運んだ。吹雪の中を、半日走った。あの子は七つだった。花の匂いを寄越せるなら、あの子の手を温めることも、できたはずだ。できたのに、しなかった」
声が、少しずつ上へ向かっていく。
「──いつまで、見ているだけのつもりだ」
閣下は、私を見ていなかった。丸窓でもない。暗い天井の、そのまた向こうの、どこかを。
『「なぜ」はな』
胸の奥で、神さまの声がした。ひどく、静かだった。
『誰かに向けてしか、言えん言葉じゃ。……九年ぶりに、あの子は、わしに口をきいてくれたのう』
閣下が、長く息を吐いた。
吐いた息と一緒に、声が、少し低くなる。
「……いや。違う」
長椅子の背に置いた自分の手を、閣下は見ていた。
「半日遅れたのは、吹雪のせいではない。オットーが門を叩いたのは、前の晩だ。私は、塔の窓から、雪の中に膝をついている男を見た。父は、掟だと言った。私は、朝を待った。朝になれば、父の気が変わると思った」
月の光が、閣下の横顔の半分だけを照らしている。
「変わらなかった。馬を出したのは、夜明け前だ。一晩、あの男を、門の前で膝をつかせておいて」
礼拝堂の中で、閣下の声だけが続いた。
「半日は、私が、待った時間だ。吹雪ではない。私だ」
外のどこかで、軒の氷柱が、ひとつ落ちた。
高く澄んだ音がして、すぐに、雪に吸われた。九年かかって伸びたものも、落ちるときは、一瞬だ。
何も、言えなかった。
「その朝、雪の上で決めた。門を叩く音が聞こえた夜には、立つ。朝を待たない。誰の許しも、待たない」
閣下が、まぶたを伏せる。
「夜に眠らないのは、そのためだ。眠れば、叩く音を聞き逃す」
九年。
毎晩。
あの夜の自分を、二度と繰り返さないために。
「だから今夜、お前が蝶番を鳴らした音も、塔で聞いた。門を叩く音を待っている耳で。……それで、下りてきた」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
この人は、私を、助けに来たつもりだったのだ。シャツ一枚で、外套も羽織らずに。たかが、蝶番の音ひとつで。
目を閉じる。
(神さま)
『うむ』
(私、答えを持っていません)
『持っておらんでよい。九年、皆、途中で答えを差しこんだ。持っておらんことを、そのまま言うてやりなされ』
目を、開けた。
「わかりません」
閣下の眉が、わずかに寄る。
「わかりません、閣下。どうしてリーネちゃんが連れていかれたのか。どうして、あのとき奇跡が起きなかったのか。十年床を磨いても、その答えは、一度も教えてもらえませんでした」
声が震えないように、お腹に力を入れる。
「私も、訊いたことがあります。この城に来た最初の夜に。どうして、って。答えは、いただきました」
左手を、胸の前で、そっと握る。
「でも、それはリーネちゃんの答えにはなりません。だから、閣下には言いません。言ったら、答えのふりをしてしまうので」
息を、ひとつ吸う。
「でも、ひとつだけ、わかっていることがあります」
一歩、閣下のほうへ。
「神さまは、あの朝、あの小屋に、いらっしゃいました。雲の上からご覧になっていたのではなくて。閣下と同じ、あの小屋の、床の高さで」
閣下は、私を見ていた。
「閣下が薪をくべるのを。リーネちゃんの手が冷たくなっていくのを。閣下が『すまない』と言うのを。すぐ隣で、聞いていらっしゃいました」
『……わしはな』
神さまの声が、ほんの少しだけ、掠れた。
『あれより冷たい床に、膝をついたことがある。誰よりも、低いところにな。……いつか、話す』
その言葉は、閣下には渡さなかった。
まだ、私の手にも、重すぎた。
「答えを持っていない私が差し上げられるのは、それだけです。あの匂いは、閣下がひとりではなかった、というしるしだと、私は思います」
閣下は、長いあいだ、黙っていた。
それから、ゆっくりと、長椅子に腰を下ろした。いちばん後ろの、隅の席に。
「……ひとりではなかった、と言われたのは、初めてだ」
独り言のような声だった。
答えではない。リーネちゃんは、戻ってこない。閣下の「なぜ」も、まだ、この礼拝堂のどこかに残っている。
それでも閣下は、九年ぶりに、この場所に座った。
丸窓を覆った霜の花のあいだから、月が見えた。北東の尾根の肩に、かかっている。あの尾根の向こうに、霜降り村がある。九年前の朝も、あの稜線の上から、日は昇ったのだろう。
「大司祭どもは、答えを持っていた。神の試練だと。天に召されたのだと。ギルバートも、オットーも、マルタも、答えは持っていなかった。だが、あれらは何も訊かなかった。訊けば、私が崩れると思ったのだろう」
閣下は、両手で、顔を覆った。
「答えのある者の前では、膝をつけなかった。答えのない者は、何も訊かなかった」
だから、九年、ひとりだった。
私は、閣下と同じ長椅子に、そっと座った。
隅から、二つ目。腕一本分だけ、空けて。
閣下は、顔を覆ったまま、動かなかった。
それでいいのだと思う。今夜は、隣に座るだけで。
丸窓の霜の上で、月の光が、細かく砕けて光っていた。羽根の一枚一枚が、小さな灯りのように。
氷でさえ、光を受ければ、光るのだ。
月の光が、二人の足元の石を、同じ色に照らしていた。




