第33話 閑話 一人目の王(一) 黒い煙
侯爵の一団が城を発った、その夜。
礼拝堂の燭台を吹き消すと、祭壇の脇で、灰色の石がほのかに光った。百合の鉢の隣で、白く、静かに。
目が、冴えてしまった。
あの低い腰掛けで、外套越しに触れた肩。一日たっても、そこだけが、まだ温かい気がする。目を閉じると、隣の息づかいまで思い出してしまう。
神さまには、たぶん、全部お見通しだ。百合の香りが、少しだけ濃くなった。くすりと笑われた気がした。
光る石を、膝に載せる。
三百年前、私たちの前に、あの腰掛けに座った王さま。冠を戸口の外に置いて、四つん這いでくぐった人。
どんな人だったのだろう。
石を、両手で包む。冷たいはずの石が、手のひらの中で、ほんの少しだけ、ぬくい。
石は、何も答えない。ただ、白く光っている。
その光を見ていると、遠いどこかで、誰かが長い話を、ゆっくりと始めようとしている気がした。
* * *
わたしは、北の牧人の倅だ。剣より先に、小刀で木の鳥を彫ることを覚えた。冠など、似合う顔ではない。
「薪が尽きれば、出てくる」
わたしは、谷の口で、そう言うた。
八つ目の部族。北東の谷の、炭焼きの民だ。谷は深くて、入口がひとつしかない。攻めれば、こちらの兵が谷の口で死ぬ。七つの部族を束ねるのに十一年かかった。もう、兵は死なせぬ。
だから、谷の口を百の兵で塞いだ。炭焼きは、森の木を切って暮らす。森は、谷の外だ。
副官のゲルトが、頷いた。頷いたが、わたしの顔を見なんだ。ゲルトは、北東の生まれだ。
「王。谷には、子が、おります」
「知っておる」
「ひと冬、持ちません」
「持たぬから、出てくる」
雪が、来た。
ひと月目、谷から煙が立っておった。炭焼きの蓄えだ。
ふた月目、煙が細くなった。
三月目、煙が消えた日が、七日続いた。
八日目の朝、ゲルトが、わたしを起こしに来る。
「王。煙が」
谷から、煙が立っておった。太い、黒い煙だ。炭の煙ではない。
「家の梁を燃やしております」
屋根を支える梁を、焚いておるのだ。梁を焚けば、屋根が落ちる。それでも、子を凍えさせるよりは、と。
わたしは、煙の柱を数えた。十二本。十二軒の竈に、まだ、火がある。
夜も、数えた。谷の口の、いちばん高い岩の上に、ひとりで立って。ゲルトも、来させなんだ。闇の中でも、梁の火は、赤く見える。兵には、見張りだと言うた。
翌日、十本。
その次の日、七本。
煙が一本減るたびに、谷のどこかで、竈がひとつ冷えた。その家に、もう、火を焚く者がおらぬということだ。
風のない朝が、続いた。冬の空は青く、どこまでも澄んでおる。黒い煙だけが、まっすぐ昇って、その青に、傷のように立っておった。
昼を過ぎると、谷の口の雪に、煤が降る。白い雪が、少しずつ灰色になる。兵たちは、黙って、それを踏んだ。
四本になった朝、谷から男がひとり、出てきた。裸足で、雪の上を歩いてくる。足の裏が、血で赤い。
炭焼きの長だ。わたしの前で、膝をついた。
「谷は、王のものだ。薪を、くれ」
「靴は、どうした」
「子に、履かせた」
わたしは、薪をやった。八つ目の部族は、わたしのものになる。
春、谷に入った。
家は、どれも梁がない。屋根が落ちて、壁だけが立っておる。どの竈も、冷えておる。
人は、少ない。子どもは、もっと少ない。
長が、わたしの前に来て、言うた。
「死んだ者の名を、言う。聞いてくれ」
「要らぬ」
「王」
「数は、要らぬ。谷は、わたしのものだ。それでよい」
長は、口を閉じる。ゲルトが、わたしの後ろで、息を吐いた。
谷のいちばん奥の小屋に、入る。
七つか、八つの娘が、冷えた竈の前に座っておった。灰の中に、両手を入れておる。温かいと思うて、入れておるのだ。灰は、とうに冷えておる。
髪が、見たことのない色だった。黒でも、金でもない。夜が明ける少し前の、空の色だ。
娘は、わたしを見上げた。
それから、灰の中から両手を出して、わたしの手を取る。
「あたたかい」
娘の手は、氷のようだった。わたしの手を、両手で包んで、そう言う。それから、少し笑う。
笑うた娘の目は、わたしを見ておらなんだ。わたしの隣の、冷えた竈の前の床を見ておった。誰もおらぬ床を。
わたしは、手を引けなんだ。
焼けた梁の匂いの中に、一瞬、花の匂いがした気がした。春だ。雪の下から、何か咲いたのだろう。そう思うた。
「親は」
ゲルトが、小さく言うた。
「梁の下に」
娘は、わたしの手を包んだまま、奥の暗がりを振り返る。屋根の落ちたところに、梁が一本、斜めに横たわっておる。
「母さん、まだ、寝てるの。……あったかくなったら、起きる?」
わたしは、何も言えなんだ。
ゲルトが、わたしの後ろで、外套の袖を、目に押し当てた。
娘を、都へ連れて帰った。
帰りの馬の上で、娘は、わたしの指を一本、握ったまま眠る。谷を出てから、初めて眠ったのだと、ゲルトが言うた。
わたしは、眠れなんだ。指を、抜くこともできなんだ。
名は、訊かなんだ。名を訊けば、この子は、ひとりの人間になる。この子がひとりの人間になれば、梁の下の親も、谷で死んだ者たちも、ひとりずつの人間になる。
わたしは、それが怖かった。煙のままに、しておきたかった。
都で、鍛冶が冠を打つ。
「王の冠は、重くなければなりませぬ」
「首は、ひとつしかないぞ」
鍛冶は、笑わなんだ。金を足した。わたしは、載せられた。
その夜。
わたしは、天井を見ておった。
暗い天井に、谷の黒い煙が、立ちのぼって見えた。目を閉じても、消えぬ。
わたしは、その煙を、数えておった。十二。十。七。四。
数は、要らぬと言うたのに。




