第32話 低い戸口(二)
『松明を、消してごらん』
「閣下」
私は、閣下の袖を、そっと引いた。外套の袖ではなく、その下の、胴着の袖を。
閣下が、私の指を見た。
「松明を、消してみていただけませんか」
閣下は、私の顔を見た。ギルバートさまも、ハンスさんも。
「坑道で灯りを消すのは、坑夫の掟に反しますぜ、お姫さん。暗闇で足を滑らせたら、こんな穴ぐらじゃ、助けも来ねえ」
「わかっています。ほんの少しだけ。十を数えるあいだだけ」
閣下は、ため息をついた。
それから、壁の窪みの松明を抜き取り、ギルバートさまとハンスさんの松明も受け取って、通路の入口まで戻り、まとめて、土の上に伏せた。
「十だ。それ以上は、消さない」
火が、消えた。
坑道は、完全な闇になった。
自分の手も見えない。隣に誰がいるのかも、息の音でしかわからない。地の底の、何百年も光の入らなかった場所の、重たい闇。
そのとき、私の左手に、何かが触れた。
大きな、硬い手。闇の中で、私の手を探し当てて、握る。
閣下の手だった。
「動くな。足元が見えない」
閣下の声は、すぐ隣から聞こえた。思っていたより、近くから。
「はい」
私は、動かなかった。動けない。握られた手のことで、頭がいっぱいだった。
(真っ暗、ですね)
『暗いと思うのは、自分の灯りに慣れておるからじゃよ。少し、待っておりなされ』
一つ、二つ、三つ。私は、数を数えた。閣下の手の温かさのほうは、数えないように。
四つ、五つ。
何も、変わらない。
六つ。七つ。
目が、慣れてきたのだと思った。闇が、ほんの少し、薄い気がする。
八つ。
違う。
目が慣れたのではない。何かが、闇の底で、白みはじめている。
九つ。
ハンスさんが、小さく息を呑んだ。
「閣下。……手を」
閣下のもう片方の手の中で、灰色の石が、ほのかに白く、光っていた。
火の光ではない。月の光にも、少し似ていた。けれど、月よりも、ずっと柔らかくて、ずっと近い。石の内側から、白い息のように、ゆっくりと、満ちて、溢れてくる光だった。
その光で、閣下の顔が、見えた。私の手を握ったまま、石を見つめている顔が。
十。
そして、その光は、石だけではなかった。
低い戸口の向こう。さっきパヴェルが「灰色の石の部屋」と言った、あの小さな部屋の中から――。
白い光が、戸口いっぱいに、静かに流れ出していた。夜明けに、雪の上を這ってくる最初の光のように。闇の中を、床すれすれに、こちらへ。
誰も、声を出さなかった。
地の底で、三百年、誰も見なかった光が、私たちの足もとまで来て、止まった。
「……松明があったときには、何も」
ギルバートさまの、かすれた声。
「あったからだ」
閣下が言った。
「松明があるから、見えなかった。自分の火で、目がくらんでいた。……あの従者は、松明を持ったまま入った。侯爵は、灯りを近づけた。見えるはずがない」
閣下の声は、低いままだった。けれど、何かを確かめ終えた人の声だった。
『火を持って入る者にはな、見えんのじゃよ』
少しも得意げではない声だった。ただ、少し寂しそうな。
『最初の王のあとに来た者は、皆、松明を掲げたまま、灰色の石の部屋だと言うて帰った』
(パヴェルさんも、松明を)
『持っておった。じゃが、手のひらの陰で、一瞬、見た。それで、十分じゃ』
閣下が、私の手を、離した。
離してから、一度、その手を、自分の胴着の胸に当てた。何かを確かめるように。
閣下は光る石を手にしたまま、低い戸口の前に立つ。
そして、しばらくそこに立っていた。
礼拝堂の敷居の前で、片足を雪に置いたまま立ち止まったときと、同じ背中だ。
「剣が、つかえる」
低い声。
そして腰の剣を、鞘ごと外す。戸口の脇の、平たい石の上に置く。
三百年前の王が、冠を置いた場所だ。神さまから聞いて、私だけが知っている。閣下は知らない。知らないまま、同じ石を選んだ。
それから石を胴着の胸に押し当てて、膝をついた。
四つん這いになって、銀灰色の頭を低く、低く下げて、戸口をくぐっていく。
あんなに大きな人が、こんなに低くなれるのだと、思った。
私もそのあとに続いた。ギルバートさまと、ハンスさんも。ギルバートさまは眼鏡を外して胸のポケットにしまってから、くぐる。「つかえますので」と、誰にともなく。
戸口の縁の、丸くすり減った石に、私の額が一度、そっと触れた。
冷たくて、なめらかで、たくさんの額の跡が、そこにある。
部屋は本当に小さい。
パヴェルの言った通り、灰色の石の壁。灰色の石の床。真ん中に、二人並んで座れるくらいの低い石の腰掛け。
けれどその壁も、床も、腰掛けも、今は白く光っている。
火の色でも金の色でもない。冬の朝、雪の上に差す最初の光の色。影が、ひとつもできない光だった。四人の誰の足もとにも、影がない。
その光の中に立っていると、胸の奥であの香りがする。いつもよりずっと近く、ずっと濃く。
気づいた。
この部屋には、高い場所がない。
段も、台座も、見上げる壁画も、どこにもない。ただ低い腰掛けが、床と同じ高さでそこにあるだけ。
王都の大聖堂の祭壇には、大司祭さまの椅子が、ひとつだけあった。床から五段も高い、金の椅子。座れるのは、いつも一人。私はその五段を、十年、下から磨いていた。
ここの腰掛けには、段がひとつもない。そして、二人分ある。
ハンスさんが、腰掛けの前に片膝をついた。
石の座面を、節くれだった指で、そっと撫でる。坑夫の親方の、石を見る目だった。
「……こいつは、玉座じゃねえ」
指が、座面の上で止まる。
「見なせえ、閣下。座面が、すり減ってる。肩を寄せて、並んで座った跡だ。……ひとりで座った跡も、ありますぜ」
「何百年ぶんか」
「石ってのは、ちょっと座ったくらいじゃ、こうはなりません」
閣下は、すり減った座面を、黙って見下ろしていた。
「連れ立って来た者も、ひとりで来た者も、いたのだな」
(神さま)
『うむ』
(ここは、何の部屋なんですか)
光が、ゆっくりと揺れた。息をするように。
『家の者が、結ばれに来る部屋じゃった』
(結ばれに)
『夫と、妻。親と、子。……先に逝った者とも、な』
先に逝った者とも。
『皆、名を持って、ここへ来た。祖父の名。死んだ子の名。顔も覚えておらぬ、母の名』
白い光の中で、すり減った座面が、ほのかに浮かんで見える。
ここに、何百年ぶんの家族が座ったのだ。肩を寄せて。もういない人の名前を、ひとつずつ、口にしながら。
『わしの前で結んだものはな、死んでも、ほどけん』
どういうことなのか、私には、よくわからなかった。
わからないまま、胸の奥が、熱くなった。
この方は、名前を忘れない。十年、物置小屋の床で、私はそれだけを支えにしてきた。ひとりぶんの名前が、ひとつずつ、どこかに残っていく、と。
けれど、ここでは、ひとつずつではなかった。
祖父の名と、孫の名。母の名と、子の名。並んで座った肩と肩のように、名前と名前が、結ばれていた。死んでも、ほどけないように。
私を産んだ夜に逝った母の、名前を、私は知らない。知っているのは、足首の鈴のことだけだ。
訊こうと思えば、いつでも訊けた。十年、この方は、いつも隣にいらしたのだから。
訊かなかったのは、私だ。訊いて、名前など残っていないと言われたら。そう思うと、怖かった。
でも、ここは、名前が残る部屋だ。
(神さま。……母の、名前は)
心の中で訊いただけなのに、その声まで、震えていた。
『ミラ』
すぐだった。少しも探さない声だった。
『ミラ、じゃ。踊るときは、足首の鈴で、自分の名を鳴らしておった』
ミラ。
口の中で、転がしてみる。初めて口にするのに、舌が、ずっと前から知っていたように動いた。
『訊いてくれるのを、待っておった』
膝の上で、指を握りしめる。爪が手のひらに食いこんで、それで、自分が泣きそうなのだとわかった。
帰ったら、帳面に書こう。いちばん丁寧な字で。
(ひとりで、座った人は)
『問いを抱えて、ひとりで来る者もおった』
神さまの声が、少しだけ、やわらかくなった。
『上の神殿で、どれほど声を張り上げても、答えの来なかった問いじゃ』
(……答えは、来たんですか)
『黙って座っておるとな。隣から、来る』
少し、間があった。
『いつもではない。じゃが、来る』
(隣から。……でも、ひとりで座っていたのに)
『わしが、床に座っておった。床からでも、隣は隣じゃ』
光が、ふっと、笑うように揺れた。
そうだった。十歳の冬、あの声は、雲の上からではなく、隣から聞こえた。私と同じ、小屋の床の高さから。
ひとりで座った人も、ひとりではなかったのだ。
私は、閣下の横顔を見た。
九年前の朝からずっと、答えの来ない問いを抱えてきた人の横顔を。
『わしの家はな、戸口が低い。見上げるものが、ひとつもない』
神さまの声が、すぐ足もとで、静かに言った。
閣下が、腰掛けの背もたれにあたる壁を見ていた。そこに、古い文字が、浅く彫られている。
「北の古い言葉だ」
閣下が、その文字を指でなぞる。
「祖父の代までは、城の祝詞に使われていた。母が、寝物語に、これで歌を歌っていた。……読める」
ゆっくりと、閣下は声に出した。
「――『我は、汝の隣に、坐す』」
静寂が、白い光の中に落ちた。
「……隣、だ」
閣下は、文字から指を離さなかった。
「上でも、前でもない。隣だ。……これを彫った者は、ここで、誰かが隣にいるのを知ったのだろう。でなければ、こうは書けない」
ハンスさんが、後ろの壁に右の耳をそっと当てた。それから目を閉じて、小さく鼻をすすった。
「満ちてる。三十年で、初めて聞く音だ。いや、音じゃねえ。……山の心臓が、ここで鳴ってやがる」
ギルバートさまは眼鏡を胸のポケットから出して、掛ける。それから外して、拭く。掛ける。外した。
「ギルバートさま」
「見えるかどうか、確かめているのです。眼鏡があってもなくても、同じように光っている。理屈が、通りません。いえ、もう、通らなくて構いません」
閣下が、石の腰掛けの片側に、静かに腰を下ろした。
手の中の、白く光る石を、膝の上に置いて。
「セラ」
「はい」
「原作、と、お前は、たまに口の中で言う」
私は、ぎくりとした。
「王都の書庫の巡礼記に、この部屋のことは、書いてあったか」
嘘は、つけなかった。
「いいえ。ありませんでした」
『そうじゃろうな』
神さまが、少し愉快そうに言った。
『わしは、あの本の作者ではないでのう』
私は、目をしばたたいた。
そうだ。前世で読んだ『雪嶺の白竜戦記』には、この部屋はなかった。鉱山は枯れ、北は削られ、閣下は誰の隣にも座らないまま、白い外套を紅く染めて、たった一人で最後まで峠を守る。振り返っても、支える者は誰もいない。それが、あの物語の、最後の挿絵だった。
膏薬の壺も、外套も、鍵も、あの物語には、なかった。
この部屋は、原作には、なかった。
つまり、今、私が立っているのは、もう、誰かの書いたページの上ではないのだ。
「――座れ」
閣下が腰掛けの、自分の隣を顎で示す。
空いている、片側を。
「え。……ですが、閣下、ここは、その」
「今日の私は、一人で来ていない」
閣下は、まっすぐに私を見た。白い光の中で、アイスブルーの瞳が、どこまでも静かだった。
「座れ、セラ」
息が、止まるかと思った。
後ろで、ハンスさんが壁に耳をつけたまま、天井を向いて大きく咳払いをした。ギルバートさまは、すでに壁の文字のほうへ背を向けている。
私は、そっと、腰を下ろした。
二人で座ると、腰掛けは思っていたよりずっと狭い。長い年月にすり減った石が、自然と私の体を、隣へ寄せる。閣下の肩と私の肩が、外套越しに、ぴたりと触れた。
閣下は動かない。私も動かない。
『そこにはな』
神さまが、足もとで、ぽつりとおっしゃった。
『昔、お主によう似た娘が、座っておった』
(似た、娘)
『髪がな。夜明け前の空の色じゃった』
思わず、自分の髪に手をやった。王都で、十年、布の下に隠してきた色に。
石の腰掛けは冷たくなかった。ほんのりと、誰かが今までそこに座っていたような温もりが残っている。それとも隣の人の温もりなのか、私にはもう、わからない。
「お前は、この部屋を、帝国に見せるつもりか」
白い光を見つめながら、閣下が訊く。
「侯爵の言う通り、鉱山が枯れれば、私は差し出すものがなくなる。だが、この石を見せれば」
「見せても、侯爵さまには、灰色の石にしか見えません」
私は言った。
「あの方は、松明を、置かれませんから」
閣下はしばらく黙っている。
それから短く、息を吐いた。
笑ったのだと、少し経ってからわかった。肩が、私の肩に少しだけ押しつけられる。
「そうだな。あの男は、一生、置かない」
膝の上の石を、閣下はそっと両手で包んだ。
「では、この部屋は、私とお前と、ギルバートと、ハンスの秘密だ」
「へえ。俺、秘密なんて、三十年ぶりですぜ。……もっとも、こんなでけえ秘密を墓場まで持ってくことになるとは思わなかったがね」
壁に耳をつけたまま、ハンスさんがにやりと笑う。
ギルバートさまは、眼鏡を外した状態で、白い光の中で、一度だけこちらを振り返った。腰掛けの、二人の肩を。
それから、深く、深く一礼して、眼鏡を掛け直し、壁のほうを向いた。
「私は、壁の文字を写しておきます。城の記録に。お二人は、そのまま、お座りください。私のことは、壁の染みだと思って」
「ギルバートさま、それ、私の台詞です」
「存じています。今日だけは、お貸しください」
腰掛けを立つ前に、閣下は、膝の上の石を、私の手に載せた。
「お前が持っていろ」
「え。でも、これは、閣下が――」
「私が持っていると、執務室の暖炉より明るくなる。眠れない」
「暖炉は、薪一本ですから」
「二本にした。昨日からだ」
閣下は、図面を読むときと同じ顔で言った。
「閣下のご命令で、私が運びました」
「ギルバート。補足は要らない」
「……失礼しました」
(神さま。この部屋のものを、持ち出して、よいのでしょうか)
『よい』
すぐに、お返事があった。
『その石はな、ここに座った者のそばにおるのが、役目じゃ。暗い晩に、膝をついておる者の足もとを照らす。三百年、座る者がおらなんだで、ここで待っておった』
石を左の手のひらに載せて、右手を、そっと添える。白い光が、指のあいだから漏れた。閣下の手の温もりが、まだ、石に残っている。
光る石を、外套の胸の内側にしまう。四つん這いでくぐるには、手を空けておかなければならない。
戸口をくぐって出るとき、閣下が、先にくぐって、外から手を差し入れた。
「戸口が低い。頭を打つ」
私は、その手を、左手で取って、くぐった。
くぐり終えたあと、閣下は、その手を、すぐには離さなかった。
三百年前の王が冠を置いた場所から、自分の剣を、空いたほうの手だけで拾い上げる。
拾い終えても、まだ、離さなかった。
『のう、セラ』
(はい)
『あの子は、今日、剣を置いて、その戸口をくぐった。それから、お主を隣に座らせた。そして二度、お主の手を握った。暗闇で一度、戸口で一度』
(覚えていらっしゃるんですか)
『わしは、何ひとつ、忘れん』
その夜、礼拝堂の祭壇の脇、百合の鉢の隣に、灰色の石をひとつ置いた。
昼の光の下では、ただの丸い石。夜、燭台の火を吹き消すと、ほのかに白く光る。
百合の芽は、その光の隣で指三本分になっている。
「神さま」
『うむ』
「あの部屋の腰掛け。ずっと、誰も座らなかったんですね」
百合の香りが、ふわりと部屋に満ちる。
『三百年、な』
神さまは、少しだけ、笑った。
『じゃが、今日、二人も座ってくれた。待った甲斐が、あったわい』
「あの腰掛けに座った王さまは、冠を置いた方ですか」
『うむ。剣の先で、あの一行を彫った男じゃ』
「どんな方だったんですか」
『それはな、長い話になる。……またいつか』
私は、光る石を、両手で包んで、目を閉じた。
「三百年は、長かったですか」
『長かったよ』
神さまは、隠さなかった。
『じゃが、わしは、待つのが得意なんじゃ。今日、二人が並んで座るのを見たら、三百年など、どうということもなかった。肩が、触れておったのう』
「神さま」
『それにな。お主の顔は、あの石より、赤かった』
石を抱えたまま、長椅子に突っ伏した。
翌朝、城門で、紫の毛皮の一団が出発の準備をしている。
グラナート侯爵は皇帝陛下への報告のために、いったん帝国へ戻るのだという。金の像は絹の布に包まれて、馬車の中へ運びこまれていく。
厨房の窓から、それを見ていた。窓枠の外側で、山鳩が二羽、朝の麦をついばんでいる。そのとき、馬車の陰で若い従者が一人、雪の中に膝をついて馬の蹄の雪を払っているのが見えた。
パヴェル。
ふと顔を上げて、城の東の端の小さな塔を見る。礼拝堂の塔だ。
それから厨房の窓を。私と目が合う。窓枠の鳩を見る。
長すぎる紫の袖の先で、パヴェルはほんの小さく、自分の右の手のひらを閉じた。何かを包むように。あの部屋で、石を包んだときのように。
それから慌てて立ち上がり、侯爵の馬車の後ろに走って戻っていった。
『――あの若者の家にもな』
静かな声だった。
『床が、残っておる。昨夜は屋根裏で、自分の手のひらを、ずっと見ておった。答えはまだ持っておらんが、問いは、持って帰る』
窓の外の、遠ざかっていく紫の一団を、いつまでも見ていた。
あの馬車が去っていく雪道を、五十二日後、双頭の鷲の旗が戻ってくる。
原作の最後の挿絵が、目の裏に浮かぶ。紅く染まった外套。誰もいない峠。
けれど、昨日の朝までとは、違う。この城の底には、白い石の部屋がある。二人分の腰掛けがある。
あの人を、もう、ひとりで峠に立たせはしない。
グラウが足元で、尻尾を一度、床に打つ。
期限の三ヶ月まで、あと六十六日。帝国の軍団が来るまで、あと五十二日。




